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あの時の選択が、誤りだったのだろう。その後の人生にケチがついた。
いや、「人生」とは言い過ぎか。久保川瑞穂(くぼかわみずほ)はそれから後も順調に進学と就職を果たし、大きな挫折もなく人生を過ごしてきた。だから、「恋愛」についてのみ、ケチがついてしまったのだ。
瑞穂が恋愛がうまくいかないと愚痴ると、人は口を揃えて言う。「理想が高すぎるせいだ」と。それは多分真実で、瑞穂も否定はしない。しかし、そうなってしまったのは、そもそもが高校時代のあの選択が原因となっている気がしてならない。
「悪いんだけど、渋沢君とは付き合うことないと思う。ていうか、絶対付き合わない」
「……」
瑞穂が高校二年生だった初夏のことだ。二人しかいない放課後の教室で、彼女は同級生の渋沢莞慈(しぶさわかんじ)に三度目の告白をされた。そして、その告白に対し瑞穂は、「嫌いじゃないけど友達としか思えない」とやんわりと断っていた一度目二度目とは打って変わり、徹底的に諦めさせようと断固たる態度を示した。
それより一年以上前、瑞穂は高校に入ってから間もなく、自分に向けられる莞慈のわりとあからさまな好意に気が付いた。小中とモテるタイプではなかった瑞穂は、男子に恋心を抱かれることに、その気持ちが一度二度振られても諦めない強いものであることに、悪くはない気分ではあった。
しかし、勉強も運動も容姿も平均的且つ少々野暮ったい莞慈に心を動かされることはなく、瑞穂の中での彼の評価は「やさしくて善い人なんだけどね」どまりで、莞慈を恋愛対象とみなすことはなかった。
それでも、傷つけるのは気の毒で莞慈に冷たくできず、中途半端な態度とっていた瑞穂だったが、先日、瑞穂と莞慈が付き合っているという噂が立っていると友人の口から聞かされた。当時、瑞穂にはいいなと密かに想うバスケ部の先輩がおり、そんな噂が先輩の耳に入っては彼女は耐えられなかった。
そうして、瑞穂は三度目にして莞慈を完膚なきまでに振る覚悟を決めた。その行いは、莞慈の為にもなるはずだった。彼にとっても、実らない恋に貴重な青春の時間をこれ以上費やすのは、無駄でしかないからだ。
「渋沢君、善い人だと思うけど、彼氏って感じじゃないんだよね。全然。多分…じゃなくて、絶対、これからもそれは変わんないと思う…じゃなくて、絶対変わんないから」
「そう…」
曖昧な部分などあってはならない。瑞穂はいつもの口癖が出る度に訂正し、断言した。
愛想笑いのような、泣き笑いのような、そんな、瑞穂の恋愛感情を最も削ぐ表情を見せた後、莞慈は瑞穂に白いシャツの背を向け、教室から去って行った。彼の通学鞄は、机の上に置かれたままだった。
一人残された教室で、瑞穂はほんの少し罪悪感を感じたが、それよりも清々した気持ちと安堵感の方が強かった。
意外だったのが、その後一週間足らずで莞慈があっけなく他の女子と付き合い始めたことだった。それも、瑞穂の友人で、瑞穂と莞慈の間に噂が立っていることを教えてきた女子と…。
「瑞穂、ちょっと渋沢君のこと迷惑がってたし、いいよね?」
彼女に事後承諾的にそう訊かれた時、当然、彼を取り合っていたわけでもない瑞穂に彼女を責める資格などなかった。しかし、一年以上恋していたくせに、振られた途端に違う女子と付き合うなんて。瑞穂は男心の移ろいに、なんだか納得がいかなかった。
瑞穂と彼女が憧れを抱いていたバスケ部の先輩とは、結局、何にもならなかった。莞慈を振ってから間もなく、瑞穂は先輩が同級生の女子と付き合っていることを知り、告白もできないまま彼を卒業式で見送った。三年に進級すると、瑞穂は受験のことでいっぱいいっぱいとなり、恋をする余裕もなかった。
そうして、無事試験を突破し大学生になった時、瑞穂は、高校時代に誰とも付き合わなかったことを後悔する羽目になった。
親元を離れ上京してきた瑞穂を、都会の大学の男子学生たちは褒めそやした。「かわいいね」、「今までに会ったことのないタイプ」、「好みだ」。彼らは地元の男子達と違いお洒落で垢抜けており洗練されていて、実際の造りよりも髪型服装フレグランスの効果で恰好よく見えた。
瑞穂は女子慣れもしていた彼らにほどほどに弄ばれた。浮気されたり、浮気されたと思ったら自分が浮気相手だったり、当て馬的に使われたり…。少し前まで想像もできなかった男女の世界に巻き込まれた瑞穂は、こんなことなら、
高校生のうちに地元の男子と予行演習的に付き合い、男子慣れしておくのだったと心から悔やんだ。
そんな日々の中でも、瑞穂も偶には誠実らしい男子に言い寄られることがあった。しかし、彼らの姿を見、雰囲気を感じとる度に、彼らと付き合うくらいであれば高校時代に渋沢君と付き合っていた、という思いが過ってしまい、交際にまで至らなかった。
そうして、まあまあモテるほどほどのイケメンや、そこそこ仕事はできるがそれにしてもプライドが無駄に高過ぎる男と付き合ったり付き合わなかったりの短い関係を繰り返すうち、気が付けば瑞穂は二十八歳になっていた。
一方的な因縁の相手である莞慈と瑞穂が再会したのは、例の、莞慈が瑞穂に振られた一週間後に彼と付き合いだした瑞穂の友人の披露宴でだった。
莞慈の姿を同じ円形のテーブルで見て、瑞穂は驚いた。終わった相手を自分の披露宴に呼ぶかね?という感想だ。それを言うなら、終わった相手の披露宴に招待されて来る方も来る方だが。
披露宴では二人は軽く挨拶を交わしただけだったが、移動した二次会の貸し切りレストランで、他に知り合いの少ない者同士、バーカウンターに並んで座った。瑞穂は披露宴の間じゅう気になっていたことを、酒の力を借りて莞慈に訊いた。
「よく出席したね。昔の彼女の披露宴になんて」
それまで披露宴で供された料理についてばかり話していたので、一瞬、莞慈は面食らった顔をしたが、すぐに何故かそれまでよりリラックスした表情で答えた。
「半年前の同窓会で話したんだ。その時に、莞慈と別れたお陰で今、幸せだって」
「『お陰』って、振ったの、渋沢君の方だったんだ」
「俺が振られた。『私のこと、全然好きじゃないんでしょ』って言われて。で、同窓会で会ったらさっぱりした顔で、『追うより追われる方が幸せになれるもんだね』って」
「ふーん…」
瑞穂は同窓会のあったという半年前を思い出していた。ちょうど、追っかけまくっていた男に捨てられた直後で、仕事以外では家に引きこもり、失恋ソングを聞いては号泣しまくっていた時期だ。
「高校生の時の彼女だし友達に近い感じで付き合ってたから、それ聞かなくても出席はしただろうけど」
「その、『友達に近い』っていう感覚が、振られた理由だったんじゃない?」
そう昔でもない惨めな過去を思い出した瑞穂は、つい、言葉に少々の棘を混ぜてしまった。
「はは…、そうかも。俺なりに好きなつもりだったんだけど」
反論もしない莞慈に瑞穂はバツが悪くなり、「でも、友達っぽいのもそれはそれでいいよね。私なんて、いつも酷い終わり方だから、絶対元カレの披露宴に出席とかないけど」と、自嘲に走った。
「酷い終わり方って、今は?」
「へ?」
「今は、久保川さん、誰か付き合ってる人いるの?結婚、は…?」
莞慈の視線が瑞穂の左手指に注がれた。瑞穂はなんとなく、左手をバーカウンターの下に隠した。
「今はいないよ、誰も。この齢で未婚で彼氏もいないなんて、高校時代の私が知ったら激怒されそうだけど」
おかしくもないのに笑い、そうしながら莞慈から目を逸らし、中途半端な間を置いてから、瑞穂は莞慈に訊き返した。
「渋沢君は?彼女いるの?あ、むしろもう結婚してる?」
「彼女いないし、結婚もしてないよ」
「そうなんだ…」
続けられず、二人の間をさっきよりも、もっと長い沈黙が流れた。何か面倒な話が出てきてしまいそうで、どんなくだらないことでもいいから口にしようと、瑞穂が莞慈に向き直ったその時だった。
「そのっ、四度目になっちゃうけど、久保川さん、お、俺と…」
言葉の途中でつっかえた莞慈は一旦、カウンターのハイボールを呷った。そして炭酸に一通り咽た後黙り込んだので、瑞穂は油断しかけたが、彼は続けた。
「俺と、付き合ってみませんか?」
そう投げられた瑞穂は、急に回転速度が落ちたように思われる頭で考え込んだ。
笑って、ふざけた風に断るという選択肢を一番に思い浮かべた。そうすることを選ぶのが善いように思われた。そうすれば、自分の恋愛がうまくいかないのは、高校時代に莞慈を振ったせいだと、いつまでもそれを理由にできるからだ。
もし、ここで彼を受け入れて、上手くいかなかったら?自分の逃げ場所を完全に塞がれはしないか?現在の彼は高校時代の野暮ったさが緩和され、面食いから卒業しかけている瑞穂にとって十分合格ライン、初対面の男性であれば受け入れられる範囲だ。だがやはり、彼は因縁の相手であり、ここは断った方が善いと思った。
しかし、昼間に行われた演出バリバリの披露宴と、今現在、手元にあるジントニックで判断力が鈍ったのだろう。好奇心が勝った。「追うより追われる方が幸せになれる」?そうなのだろうか?今の時点で真偽はわからないにしても、それを試す相手に最もふさわしいのは、きっと、今、横に座っている男だ。
「試しね、試しにだったら、いいよ!」
以前に追いかけていた男の一人に言われた言葉そのままを、瑞穂は四度目の告白の返答とした。
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