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走った勢いで、道路に落ちている桜の花びらが宙に舞う。
これが晴れの日だったら花びらはもっと高く、軽やかに舞っていただろう。
いつも歩いている、学校への坂道だって普段とは違ってい見えるんだもの。
しかし残念ながら今日は生憎の雨模様。
昨晩から降っていた雨が水溜まりを作り、花びらは湿気を充分に帯びて地面と密着させている。
これではトラックが走ってきた勢いでも、晴れの日以上の景色は見られないだろう。
だが例えそうだったとしても、雨の日には雨の日なりの景色の良さがある。
ビニール傘に張り付く桜だって、透明な景色に動かぬ自分だけの刺繍。
ああ、こうしてただ景色を眺めることがどれだけ貴重な事か分かってない大人もいるんだろうな。
高校生にそんなふうに思われてる大人も可哀想だ。
まぁ、こんな大人びたような意見を持つ自分なんかは大人からしたら単なるおマセちゃんなのかもしれないが。
あー、苦しい。
走り過ぎたな。
小さい頃から「あまり激しい運動するなよ」って言われてたんだっけ。
てか言われてたんだよね、確か。
でもさ、こればっかりは走らざるを得ないじゃん。
だってさ、後ろからカッターで刺されたんだもん。
ビックリするよね。
高校の卒業式があるから、朝のホームルームに合わせて教室に行ってさ。
ホームルームが終わって式が始まるまで暇だから外の自販機に飲み物を買いに行ったんだ。
120円を入れて、コーラを取ろうと屈んだ時、背中に違和感を感じた。
最初は制服が何かに引っかかったと思ったんだが、触ってみるとどうにも感触が違った。
硬くて平べったくて、そしてちょっとだけ窪みがあって…。
意識がそこまで到達した瞬間、ジワジワと傷みが広がると同時に制服が、そして部位を触った手が赤く広がっていくのに気がついた。
俺は自販機の前で、背中をカッターで刺された。
やっと意識と感触と傷みと全ての折り合いがついて、現在の状況を理解した。
理解したと同時に疑問が浮かぶ。
じゃあ、誰に?
顔を上げるとそこには見たことあるようなないような顔をした男がいる。
首元のクラス章を見る限り、同じ歳だがB組と書いてある。
俺は理数系のF組だから、文系のA、B組については正直あまり把握はしていない。
把握はしていないからこそ「なぜこいつに刺されたのか」も意味が分からない。
意味が分からないがしかし、状況の理解は出来た。
逃げないと。
逃げないと殺られる。
どこかの映画にありそうな台詞が頭を過ぎる。
ちょっとニヒルな役者が言っていそうな台詞だ。
そんなしょうもない台詞を唱えてないと逃げるための足腰が動かない。
いっその事逃げながらずっと呟いてやろうか。
「俺は幸せになれなかった。だからお前も医者になるな」
目の前の男子生徒が俺に語りかける。
いや、語りかけてなんかいない。
呟いた。
寧ろボヤいた。
「俺は幸せになれなかった。だから…」
2度目の言い切りを待たずに俺は走った。
走った。
とにかく走った。
学校側への道はアイツが立ち塞がっていたから、俺は校門を出て、通学路に向けて走った。
こんな状態だ。
もう卒業式のことなんてどうでもよかったんだと思う。
学校側に走って先生に助けを求めてもよかったのかもしれない。
しかしあの時の俺は冷静さに欠けていた。
とにかくアイツから離れなきゃ。
離れなきゃと思って走った。
外は土砂降りだがそんな事は関係ない。
ずぶ濡れになりながら、内靴履いたままひたすらに足を上げ、踵からつま先までを地面から離してまたくっつけての繰り返し。
濡れた制服は重い。
海や川で溺れている人を助ける際は服が重くなるから、脱いでから救助に向かった方が良いみたいな噂は聞いたことあるが、こういう事だったのかもしれない。
重い。
重いからこそ息が上がる。
呼吸が苦しい。
普段走らないから、自分の肺と気道が「コヒュゥ、コヒュゥ」と音を立てて鳴っているのがよく聞こえる。
母が心不全で病院へ運ばれたのは、俺が小学生になるかどうかくらいの時だった。
心不全は高齢者に多い病気で、初期は息切れやむくみ程度なのだがそれが徐々に重症化され命を落とす病だという。
幸いにも若かった事と、すぐに病院に駆けつけたことで、暫く入院しただけで命に別状はなかった。
母がどうして心不全になったのかは定かではないが、確か血筋みたいな事を言っていたような気がする。
という事はその血が流れている自分もいつかは母と同じような道を辿ると言うのか。
そんなのは真っ平ゴメンだ。
俺は医者になって、自分が心不全にならない方法と母親を救う方法を見つけてやる。
小学校高学年、卒業間近にはそう決めていた。
ただそれだけ。
目標はたったそれだけなはずなのに、どうしてこうも次々と試練が降り掛かってくるのだろう。
目標があればどんな手を使ってでも達したいし、それにどれだけの努力や時間を注ぎ込んでも構わない。
欲しいものがあれば、どう手に入れるのが合理的で尚且つ効率的かをこれまで何度も何度も考えて実行してきた。
医者になりたい。
そう呟いたあの日から何を間違えてきたのか。
そもそも間違えてきたのだろうか。
じゃあ一体何が正解で、どれだけ遡ることが出来れば“やり直した”と、言えるのだろうか。
どこから始まって、どこで終わって。
何を始めて、何を終わらせれば。
あれからの日々は。
これからの日々は。
いや、きっと、それからだった。
激しく音立てる雨風に耐えながら、俺はその場にうずくまる。
道路に雨音が打ち付けられる中、後ろ向きでも分かるほどの足音が近付く。
足音が弱まれば、散々聞いたあの言葉が聞こえる。
「俺は幸せになれなかった。だからお前も医者になるな」
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