2人が本棚に入れています
本棚に追加
東京の文京区で生まれ育った私は、修学旅行で京都に行った以外、関西とはまったく縁のない生活を送ってきた。
小中高は地元、大学は西東京、職場は新宿。
そんな私が急遽、大阪支店への転勤を告げられたのは、今からたった1週間前のことだった。
今年度から大阪支店で立ち上げる予定の、新プロジェクト。どうしても1人メンバーが足りなくて、東京でそこそこ優秀な成績を収めていた私に白羽の矢が立ったわけだけど...正直、荷が重い。この25年間、東京から出ずに生活してきた私が、いきなり大阪でひとり暮らし。しかも新プロジェクトのメンバーって。
「はぁ...やっぱり断ろうかな、今ならまだ間に合うかもしれない」ぐるぐると考えを巡らせているうちに私は、新大阪駅のホームに降り立っていた。
四方八方から聞こえてくる関西弁に、東京を離れたことを実感せずにはいられない。
どうやら私の新生活は、たった今、始まってしまったしい。
☆
「八木ちゃんおはよ。今日ギリギリやったなー、どうしたん」
始業時間を過ぎてもなお、自分のデスクに突っ伏している私に声をかけてきたこの男性は、同期の池内くん。
ツンツンと立てた髪の毛にネイビーのスーツがよく似合っていて、「仕事ができそうなオーラ」を、全身にまとっていた。
「おはよ。ちょっと、道が、混んでて、」
「とか言ってー、寝坊したんとちゃう」
「そんな、わけ、ないじゃん...!」
「珍しいなー、いつも俺より絶対先に席着いとるのに」
「通勤、慣れないんだよね。乗り換えがややこしくて」
「こっち来てまだ1週間かー、そら無理ないわな」
地元出身の池内くんは、ことあるごとにコテコテの関西弁で私に絡んできた。
これは関東人あるあるだと思うけど、関西弁の人とずっとしゃべってると、関西弁のイントネーションが移る。実はさっきも、「慣れないんだよね」ではなく、「慣れないんよ」と言いそうになっていた。
同期入社の池内くんとは、新入社員研修の1週間、同じグループで研修を受けた。まだ大学生気分が抜けきらない私にとってこの1週間は、苦痛でしかなかった。思い出したくもない。というか、あまり覚えてない。
でも彼のインパクトが強烈だったことだけは、はっきりと覚えていた。
池内くんの性格を象徴するような”ある事件”を、私はいつまでも忘れることができずにいた。
それが起こったのは、ロールプレイングの研修中。
まずは講師が新入社員たちの前に立って、いわゆる「鉄板のセールストーク」を披露する。私たちはグループ内でペアを作り、プリントを見ながらそれを交互に復唱する、というもの。
私と池内くんはペアになった。
「池内くん、こういうの得意そうだよね」と切り出すと、彼はなぜか浮かない顔をしていた。
「うーん、何の意味があんねやろ。こんなん、自分の為にもならんし、お客さんの為にもならんよな。目の前で丸暗記した原稿読まれても、なんとも思わんやろ、お客さん」
新入社員としてどうかはさておき、人としては正論だと思った。
「確かに。でも最初はやっぱり丸暗記しておいたほうが安心じゃない?慣れてきたら自分なりにアレンジすればいいし」私は保守的な人間だ。
「なんか、めんどいわー、その流れが。最初にお客さんの心グッと掴めれば、自然と話聞いてくれるようになるやろ。人との距離の詰め方とか、話術とか、そういうとこを先に学ぶべきやと思うわ。まずは関係づくり。物売るんはその後やろ?」
「なんや、よう熱入っとんなー」各グループを見回っていた講師の金田が、急に割って入ってきた。どうすればいいかわからない私は、軽く頭を下げるので精一杯。
「金田さん、今僕らね、なんでこんなんせなあかんねやろ、って話してたんです。な?」
「!!!いや、私は、えっと...」
「八木さん、困ってるやないか」
「だってね、鉄板のセールストーク学んで、現場で実際に使うわけないんですもん。皆さんはどうか知りませんけど、少なくとも僕は使いませんね。第一、お客さんによって対応は変えるべきやと思うし。付き合いの長いお客さんと新規のお客さん、同世代の方と年配の方、全部同じトークでいけるわけない。この際だから言わしてもらいますけど、毎朝やってる声だしとかも、何の意味があんねん、と思いながらやってますわ、正直」
部屋は静まり返っていた。その場にいる全員が、池内くんに意識を集中させているのが伝わってくる。
私は膝の上で固く握った拳を見つめながら、呼吸が止まりそうになっていた。
「池内...やったか。お前、珍しいわ。そんな新入社員おらんよ。まあ俺は一応講師やから。本来なら、ここで一発お前に喝を入れなあかんよ。けど、お前のことを責める気にはなれん。何でか。俺も入ったばっかの頃、同じようなこと考えてたから。でもな、社会に出ると、お前の思い通りにならんことが山ほど出てくる。これはそれを学ぶための研修でもある」
優しく諭すような金田の話し方。
会社って案外、怖い人ばかりじゃないのかも。私は黙って聞いている池内くんの隣で、そんなことを考えていた。
研修の最終日。帰りのバスでも私たちは隣に座っていた。
私は思い切って、池内くんにあの話を振ってみた。
「池内くん。ロールプレイングの時、すごかったね。私、隣で息止まるかと思ったよ。金田さんが意外と優しく返してくれてほっとした」
「あー、あれな。社会に出たら、自分を殺さな、生きていけないってことが、よう分かったわ。ある意味、感謝やな」
私がこの言葉の意味を知るのは、ずっと先のこと。
☆
研修を終えても、池内くんとは時々連絡を取り合っていた。話す内容は、お互いの支店のことや、上司の愚痴。他の同期の近況。
遠く離れていても、やはり同期という存在は心強いものだった。
私がメールで転勤を告げたときも、池内くんはかなり喜んでくれた。
送信から3分後に、「マジか!!!!!!」の返信とともに猫のスタンプが送られてきて、こちらもなんだか嬉しくなった。
正直に言うと、大阪に来てから、彼の存在にかなり救われているのは否めない。
関西弁の上司の下で新しい仕事を覚えるのは、楽ではなかった。そもそも私は、そこまでタフなタイプではないし、ひとりで大阪で働いているのが、いまだにちょっと信じられないくらい。だから仕事に行き詰まった時、池内くんが隣のデスクからしょうもない雑談を振ってくれると、気が楽になった。
もし彼がいなかったら、私はとっくに地元に逃げ帰っていたに違いない。
☆
今日は月末の金曜日。
仕事を終えた私が直行したのは、駅前にある居酒屋。目的は池内くんとの「ごはん兼、愚痴大会」だ。
いつの間にか、月1の恒例行事になっているのが嬉しかった。
気付けば大阪に来てから、半年が経っていた。
「あーーー、繁忙期しんどいわぁ」私の関西弁も、半年前に比べるとかなり”それっぽく”なっている気がする。
「八木ちゃんの関西弁、ビミョーーにイントネーション違うんよ」気のせいだった!
「やってもやっても仕事終わらないときってさ、どんどん感情がなくなってこない?無になるっていうか」
「うん。なんでここにいるんやろ、とか真剣に考えるよ、俺は。仕事そっちのけで、しばらく考え込むときあるもん」
「あー、たまに見かける。無の池内くん。でも私、池内くんと同じ部署で、ほんっまに良かったと思ってるんよぉ、実は」
しばらく間が空いても、関西弁に突っ込んでこない池内くんに、慌てている自分がいた。
「え?」
「え?って、え?私、変なこと言った?」
「...あんま、そういうこと言わんほうがいいよ。八木ちゃんがかわいく見えるという、錯覚起こしそうになったわ今」
「錯覚ってなに?ムカつくわ~」
危なかったーーー。ちょっとハイボール飲みすぎたのかも。
私たち史上、初めての空気が流れてしまった。
そこから2時間、浴びるように飲み続けた。
目に映るすべてがキラキラしている帰り道。秋の気配が近づく国道沿いを歩きながら、私たちはいろいろな話をした。
...はずなんだけど。ほとんど内容が思い出せない。覚えてるのは、ぼんやり浮かんでる、綺麗な三日月のシルエットだけ。でも、何でだろう?
☆
それから1年が経ち、私は大阪で過ごす2度目の秋を迎えていた。
夏ごろから新プロジェクトが軌道に乗ってきて、仕事が楽しくなっていた。
まさか自分が仕事を「楽しい」と思える日が来るなんて、東京にいた頃は考えもしなかった。
最近は朝から晩まで外回りで、ほとんどオフィスには立ち寄っていない。
仕事は順調そのものだけど、ひとつだけ気がかりなことがある。
それは先週の金曜日。1年目からずっと続けてきた池内くんとの「会」が、初めて中止になったのだ。
連絡が来たのは当日のお昼。
「ごめん、急用入った。今日の会は中止で!ほんとごめん」とのこと。
仕事、忙しいのかな。
自分の仕事でいっぱいいっぱいだった私は、「了解!また来月ね」とだけ返信して、携帯をポケットにしまった。
風が冷たくなってきた10月の終わり。
久しぶりにオフィスに戻ると、廊下で上司の竹野さんに呼び止められた。
「八木さん、最近忙しそうだね」
「そうなんですよ、毎日外なんで。久々のオフィスです!」
「そういえば、池内くんの引き継ぎとか、大丈夫?」
言葉の意味がわからない私は、しばし首を傾げていた。
「もしかして、まだ聞いてない?今月で辞めるの、池内くん」
持っている資料を、危うく落としかけた。
なんで?嘘でしょ。
何か言おうとするけど、言葉が出ない。
あからさまに動揺して、竹野さんを困らせてしまった。
「ごめんね、まさか八木さんが知らないとは思わなくて。確か、2人は同期だったよね?すごく仲良かったイメージがあるから」
「あ、はい、同期なんですけど、知らなくて。ビックリしました!」うまく笑えているだろうか。
池内くんが、辞める?
そんなこと、ひと言も言ってなかった。
先月の「会」が中止になったのも、それと関係あるんだろうか。
仕事が嫌になった?ほかにやりたいことができた?っていうか、嫌われた?
私になんの相談もせずに退職を決めたという事実が、何よりもつらかった。
メール画面を開く。
<お疲れ様。今日の夜、空いてる?>
5分後に返事が来て、いつもの居酒屋で会うことになった。
「よかった...」
とりあえず、嫌われたわけではないらしい。
その日の夜。少し緊張しながら、カウンター席で池内くんを待つ。
時間通りに現れた彼は、いつも通りの様子だった。
その日、池内くんは、私にいろいろなことを話してくれた。
自分が会社員として生きていくことに、ずっと疑問を抱いていたこと。それは入社から現在まで変わっていないこと。実は小さい頃からお笑い芸人を志していたこと。来月から上京して、東京の養成所に通うこと。
私は隣でハイボールを飲みながら、泣いていた。
とにかく悲しかった。彼の存在が自分のなかでどれほど大きかったか、改めて思い知らされる。
お酒と涙でぐちゃぐちゃではあるけれど、自分の想いを伝えることに決めた。
「私ね、同じ部署に池内くんがいてくれて、ほんとーーうに良かったと思ってる」
「ちょっと待って、デジャヴ。前もこの件あったわぁ、そん時はヘタクソな関西弁やったけど」
「全然覚えてない」
「えらい酔うてたからな。じゃあ帰りに話したことも?」
「うん」
「帰り道でな、三日月が出てた。きれーーいな三日月。人が笑ってるような形のな。八木ちゃんがそれ見て、いきなり言うたんよ。池内くん、笑うとあんな風になるよね、って。口角んとこがキュッて上がるから、似てるって。ほんで、仕事でしんどい時に、池内くんが隣で笑っててくれると嬉しい。私にとっては、暗ーーい夜空を照らしてくれる月明かりみたいに見えるって」
「俺はさ、ずぅーっと前から好きやったよ、八木ちゃん。そんな恥ずかしいこと、面と向かって言うてくるとこもな」
顔を上げることができなかった。
嬉しい。嬉しい。恥ずかしい。悲しい。好きだよ、私も。
感情が一気に溢れ出すと、人は身動きがとれなくなることを、このとき初めて知った。
「最近、忙しそうやったし。しばらく話さんでおこうと思って。ごめんな」そうやって軽く頭を撫でられると、何が何だかわからなくなる。
「そんなにカッコ良かったっけ、池内くんって。自分だけいきなり大人です、みたいな雰囲気出さないでよ。私だけバカみたいに泣いててさ、何でそんなに落ち着いてるの?意味わかんないよ。寂しくないの?私は寂しいよ、すっっごい寂しい。来月から、どうしたらいいかわかんない。ずっと一緒に働けると思ってた。っていうか、私だって、池内くんのこと好きだし、私のが先に好きになってたと思うし、」
子どもみたいに泣きじゃくる私と、隣で微笑んでるだけの池内くん。
ずるいわぁ。
「ずるいわぁ、最後にそんなこと言って去ってくの。残された方はどうしたらいいの?正直、仕事辞めて、着いていきたいって思っちゃった。地元だし。でも最近やっと仕事面白くなってきたし、今辞めるのはもったいないと思う。だからって、いきなり遠距離っていうのも、自信ない。だから付き合えない。でも好き。どうしよう」
矢継ぎ早にまくしたてる私に、彼は笑いながらこう言った。
「迎えに来るから、待っててよ。いつになるかわからんけど、待ってて」
私が頷くと、ぎゅっと抱きしめられる。
「ほんま、ありがとう。これで頑張れるわ」
「今日の池内くん、ムカつくわぁ、ほんま。何なん」
そう言って笑い合ったのが、彼との最後の思い出。
翌週、彼は東京へ発った。
空っぽになった隣のデスクを眺める。
悲しいけれど、どこか清々しいような、不思議な気持ちだった。
☆
「ごめん、先に上がるね。資料はこっちで仕上げとくから。お先に失礼しまーす」
「よろしくお願いします!お疲れ様です」
大阪生活は5年目に突入し、私は何人もの部下を抱える立場になっていた。
そんな私が今日、珍しく誰よりも早く退社したのには理由がある。
19時ピッタリ。
私はテレビの前に正座して、食い入るように画面を見つめていた。
全国放送のバラエティ。
ひな壇には、売れっ子芸人や人気タレントがひしめき合っている。
ーーーーーそのなかの、人気急上昇中らしい若手コンビ芸人。ボケとツッコミが、それぞれ自己紹介を始めた。
「ツキアカリって、芸人にしてはえらいオシャレなコンビ名ですよね~」MCを務める関西出身のベテラン芸人が、2人の方を向いている。
「皆さんビックリしないでくださいよ?実は自分の本名がね、ツキ・アカリ言うんですよ」
「んなわけあるかい。すんませんね、ほんと。実は僕が昔、好きな人に言われたことが、コンビ名の由来になってまして...」
「おー、これは素敵なエピソードが聞けそうですよ!!」スタジオがざわつき始める。
「そんなハードル上げんといてくださいよ!いや、その、2人で夜、道を歩いてる時にね、やっぱ辞めときましょ。恥ずかしくなってきた」
画面には、残念そうな表情を浮かべるMCの顔。ひな壇の面々も、続きを聞きたがっている様子だった。
「あーっ、わかりました、わかりました。僕らがもうちょい売れたら、その時にちゃんと話しますわ!ちょっと今はまだ早いっていうか、そのタイミングじゃないっていうか」
「なんや、ずいぶん偉そうやな!」MCを始めとする出演者一同が、笑いながら口々に突っ込みを入れる。
「いやー、すんません。その彼女、今たぶん観てくれてると思うんですけど。観てるー?」
おどけた様子のツッコミが、ニコニコしながらカメラに手を振っていた。
「何なん、ムカつくわぁ」
そう言ってテレビを消した後、私は少し泣いていた。
「さてと、こっからだ!」
約半年間にわたるプロジェクトも、ようやく終わりが見えてきた。
窓際のデスクに放ったカバンからノートパソコンを取り出す。
「やっとここまで来たんだ、やっと。諦めないで良かった」
顔が緩みそうになるのを必死で堪えて、勢いよくキーボードを叩き出す私。
カーテンの隙間から覗く三日月に、笑いかけられたような気がした。
最初のコメントを投稿しよう!