第一話 秘密の煩悶

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 私が退院したのは三日後であった。診断結果は初期の心筋梗塞であったが、緑清き五月の朝の日差しに、私はかろうじて死の観念から解き放されたのだった。しかし、再び生きなければならないと思い及んだときの絶望と幻滅は他人に言えるようなものではなかった。  ナオミのことが気になって仕方がなかった。その焦りだけが今の私の生存の礎となっていた。  気が付くと、妻は、ちょっとしたことに腹を立てるようになっていた。その理由が、私の虚ろな気持ちに耐えられないことにあるのは明らかだった。 「あなたって、本当にお金がなかったのね。あなたが病院のベッドでまるで死んでいるように眠っていた間、悪いけど、あなたの銀行預金通帳なんか、みんな洗いざらい見させてもらったわよ。あなたって気の毒な人。いいえ、気の毒なのは、わたしの方よ、どうするのよ、この先。わたし、離婚したいわ。でも、今からでも遅くはないわ。うんと働いて、わたしのためにお金を稼いでよ、それなら、これからも一緒に住んでもいいわよ…」 「わかったよ」  正直言って、確信はなかった。この妻に対して、私の大学教授職の収入ではとても満足させることなど出来るものではないからだ。初めからお金がない、つまり、倹約が前提の生活であるにも関わらず、しかし、私は妻には贅沢な生活の幻想を抱かせて来たし、これからもそうしょうとしているのだった。そういう意味では、私は嘘つきなのだ。この嘘がバレないようにしているのが今の私の生活なのだ。
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