4人が本棚に入れています
本棚に追加
駅まで送っていくという彼の申し出を断って、私はコンサートホールを出た。午後九時を過ぎた春の夜は寒く、ひとりで身を縮める私の髪をさらっていく。
手の中にまだネックレスが残っていたことを思い出して、受付に引き返した。そこには「海道ワタルとの思い出ボックス」という大きな箱が置かれていて、手紙や思い出の品を投函していい仕組みになっていた。
私はハンカチでネックレスを包んでそっとボックスに入れた。ホールからエレキベースの音が聞こえるけれど迷わず外に出る。
外灯が点滅する夜道をひとり歩く。彼と出会わなければこんな苦しい想いを抱かずにすんだのかと思った夜もある。
けれど今は少し違う。あの音色を聞けてよかったと、すぐそばで分かち合えてよかったと心から思えるからーー
ほんのわずかな瞬間、彼が立っていた交差点ーーその向こうに私は渡っていく。
(終わり)
最初のコメントを投稿しよう!