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「お父さんの『クロス・ロード』……よかったよ」
「どう……よかった?」
「なんていうか……かっこよかった」
「嘘つくな、正直に音はずれてましたって言えよ」
彼は笑って握っていた腕を引いた。私はまた逆らえなくて前のめりになる。
体温を感じられる距離に彼の胸板がある。私は微動だにできない。こんなに近いのに触れてはいけないーーその現実が重くのしかかる。
「私……帰らなきゃ……」
「そうか……おまえ忙しいもんな……」
「そうじゃなくてタスクはまだ出番があるし今日の主役……」
「主役は俺じゃなくてずっと親父だよ」
彼の瞳が寂しげに揺れた。いくら音楽をやってもいつも主役は親父、誰も俺を見てくれない、見てくれるのは万里だけだーー遠い昔に言われた言葉がよみがえる。
閉じこめてた記憶が感情を揺さぶる、こんな沸騰しそうな熱がどこに眠っていたのかと思うほど、グラグラとーー
私は彼から体を離した。そっと呼吸を整えてまっすぐに彼を見る。
「みんなちゃんとタスクを見てるよ、気づいてないのはタスクだけ」
彼は目を丸くすると、しばらくしてフッと笑った。好きだった自嘲気味の笑顔、でもこんな表情はもう誰にも見せてほしくない。
「俺にそんなこと言うのはやっぱり万里だけだ」
そう言って私の前髪をかき分けた。彼の胸元でネックレスが揺れて、不意に涙がこぼれ落ちた。すぐそばをスタッフらしき人たちが通っていくのに、どうにも止められなかった。
「始まったな、万里の泣き虫が」
「だって……タスクはズルい……」
別れてからの三年間、ずっと嫌われていると思っていた。返しそびれたものがあると気づいても、怖くて連絡できなかった。今日ここに来るのも彼に会うのを恐れていたし、会わずに逃げ帰ろうとしていた。
それくらいひどい別れだった。どうしてあの頃の私はあんなひどいことを平気でーー
「万里、ごめんな。俺ずっとおまえのことを恨んでた」
私は目が覚めるような思いで顔を上げた。やっぱりそうだ、恨まれて当然だからーー
「でも俺もひどかった。就職先も決めずにふらふらして好き勝手に音楽やって、万里にやつ当たって……今日だって勝手に連絡して来いだなんて……」
彼は私の目元をぬぐった。憧れたベースを弾く指がそっと頬に落ちていく。
それからおもむろに私の口元をなでた。心臓がびりびりと破れそうになる。けれど何も言えない、言ってはいけない。
「これ、返すよ」
彼は首から下げていたネックレスをはずした。「どうしても捨てられなかった」というシルバーのそれはメッキがあちこち剥がれて、皮膚の弱い彼の首を傷つけていたかもしれなかった。
受け取ったネックレスには彼の体温が残っていた。私はそれを手にしてソファから立ち上がる。
「呼んでくれてありがとう」
「こちらこそ、来てくれてありがとう」
タスクは微笑んだ。私の知らない、新しい笑顔だった。やたら明るい真っ白な照明の下で迷わず私を見て、手を差し出した。
私も微笑み返してしっかり握手をした。初めて彼のバンドに参加すると決めたあの日と同じ、契約のシェイクハンド。私はもうーー戻ってきたりはしない。
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