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『結局実家に泊まることにしました。明日の夕方頃には帰ります』
三十分ほど前に来た夫のメッセージをもう一度眺める。返信は『あーい』の3文字。さすがに少しそっけなさすぎたかなと今になって思う。『浮気しちゃダメだぞ(はぁと)』くらいのやつを送れば良かったか。でもそれだと私が夫の浮気を心配しているみたいでなんだか悔しいし、やっぱり三文字で『あーい』くらいがちょうどいい。
あまり乗り気ではない夫を同窓会に行くように薦めたのは私だ。基本的に受け身体質の夫はこういう時に背中を押してあげたほうが面白くなる。でも今になって思うとたぶんこの同窓会は30手前の女がゼクシィ片手に招待状を書いたような同窓会だ。
ちょっと前に最近の同窓会は婚活として利用されているというのをニュースで見た。確かに変な話だが同窓会に出て来られるような同級生は結婚相手としてはなかなかの優良物件な気がする。
なにより同窓会で再開して結婚というのは婚活パーティで出会ってよりはずっと見栄えの良い出会いだ。となると私は婚活パーティに夫を送り出した妻ということになる。
まぁこのことには少し前に気付いていたし、そのうえで外泊の許可も出した。なんだかそっちの方が面白い事が起こるような気がしてつい口がすべった。あるいは私はそこまでしてもなお浮気をせずに帰ってくる夫を見て満足したかったのかもしれない。
夫と初めて出会ったのは真冬の遊園地で、そのとき私は朝の10時から3人の子供のおもりをしていた。
日曜日だったので3人のママたちは休みだったのだが、朝から子供相手に遊園地で遊んだあとではイルミネーションを楽しめないということで、入場料の安くなる夕方までのあいだ子供を私に預け、自分たちは生姜の美味しいお店でランチをしたり、ブルックリンスタイルのお洒落な雑貨屋で使いもしない小物入れを買ったりするそうだ。ディズニーランドなら一日中楽しめるくせに。
3人のママは子供たちには乗り放題パスを、私には入場券を渡すとても節約上手な人々だった。当然お昼代もなかったので、子供たちが遊園地料金を抜きにしても安くはない料理を食べるなか、昔ながらの寂れた出店のホットドッグだけですませた。
別に一緒にゴーカートに乗ったり、甘いだけなのに600円とかする小麦粉焼を食べたりしても良いのだけれど、保護者代行業で子供たちと同じように満喫してしまうとお金がいくらあっても足りないのは最初の数ヶ月で学んだ。なにせ私たちは仕事で月に4、5回遊園地に行くこともあるのだから。
でもこの日は運が良かった。いつもなら30分2回まわしのヒーローショーが、アニソンライブもセットの特別編で1時間の3回まわしになっていた。だから3回とも1時間しっかり見せたうえ握手会にも参加させてやった。ヒーローショーは子供限定で前の方に席が用意されているし、司会のお姉さんが上手く手懐けてくれるので手間がかからない。
それに小学校低学年くらいだと意外とアトラクションは身長制限で乗れないし、かといっていかにも子供向けというものは子供にはあまり好かれない。ヒーローショーを楽しむのが一番無難なのだ。なにより私は後ろの方で楽が出来る。それが3時間もあるというのだから行かない手はない。もちろん乗り放題パスが貰えた時はこんなことはしない。
そうはいっても、さすがに3回目のヒーローショーは飽きる。子供たちは今度こそは悪の怪人にさらわれるんじゃないかとドキドキしているが、私の方がもうショーには興味が無く観客席を眺めて暇をつぶしていた。
夫を最初に見たのはその時だった。腕組みをして保護者面をしているが周りとはなにかが違う。それがはっきり分かったのはヒーローショーの悪役が、連れ去る子供を選んでいる時だ。
他の親たちは自分の子供が選ばれるのではないかとビデオの準備をしていたりするが、1人だけ明らかに反応が違った。いや、1人ではなく2人だ。私と夫の2人だけ。でもだからといって運命を感じるとかそんな少女漫画みたいなことはなく、ただ推理小説のトリックが分かった時の様な気持ちよさにほくそ笑んでいた。
その後、予定時刻を30分オーバーして3人のママたちが迎えに来た。園内には来ていたが場所が分からず遅れてしまったと何度も謝られたので「延長料金は払わなくて大丈夫ですよ」とちゃんと返してあげた。
ママ3人と戦って延長料金1時間分じゃまるで割に合わない。かといって清々しい気持ちなどではもちろんなく、店に電話で業務終了と直帰の許可を貰ったあと園内をぶらぶらしていた。
12月の6時過ぎはもう立派に夜で冬で、イルミネーションじゃなくてたき火をやればいいのになんて考えながら歩いていた時に、目の前を夫が横切った。ライトアップされた園内を1人で歩く若い男。
なかなかに寂しい。冷静に考えれば恋人や友達と待ち合わせしている可能性だってあったが、なぜか私には夫が1人で遊園地に来ているような確信があった。
そしてこの時あとをつけたのは私も同じだと気づいたからだ。学生でなくなった私にはこういう時に気軽に呼び出せるような相手はいなかった。
夫はカップルたちが列をなす観覧車の前をライブハウスに入れない高校生のように何度も行ったり来たりしていた。それを見ているうちにいつの間にか声をかけていた。
「もしかして観覧車に乗りたいんですか?」
遊園地で一緒に観覧車に乗ろうだなんてよく考えたら完全に逆ナンなのだけれど、まぁそれならそれでいいかという気持ちでもあった。不潔でも乱暴でもなさそうだし。
だから夫が1人で観覧車に乗ってみたいと言い出した時はどうすればいいかしばし悩んだ。「私もちょうど観覧車に乗りたかったんですけど1人じゃちょっとなぁと思っていたんですぅ」みたいな返事を用意していたのに。
結局「じゃあ私も一緒に並びますよ」みたいなことを言ったような気がする。その結果夫はもちろん私まで1人で観覧車に乗るハメになった。
クリスマスシーズンの遊園地でイルミネーションを見るために1人観覧車に乗る若い女は傍から見ればなかなか可哀想な人間として映ったことだろう。
車内で前戯をすませたかのようなカップルと入れ違いになった時はさすがに夫を恨んだが、いざ乗ってみると1人観覧車というのは案外楽しいもので、今では年に何回か気晴らしとして利用している。
観覧車から降りた頃にはすっかりテンションも上がっておりそのまま夫を食事に誘い、二次会のカラオケだと称してラブホテルに連れ込んだ。
確かヒーローソングの話で盛り上がったから歌い明かそうみたいな感じで誘ったはず。もちろんラブホテルを選んだのは偶然ではないのだが、かといって夫に対して恋人になりたいだとかセックスが上手そうだなとか思った訳でも無い。
しいていえば、どう考えても誘われているような状態でどんな行動をするのか興味があった。普通の男なら観覧車には一緒に乗るし、居酒屋で二人きりで話も盛り上がっているならアドレスのひとつくらい聞く。
自分で言うのもなんだがちょっと気さくに話しかければ童貞の一人や二人簡単に惚れさせるくらいの容姿の自覚はあるし、実際にそのせいでいらぬ面倒に巻き込まれた事もある。
というか惚れてなくてもとりあえずやれそうならやるのが一般的な男だろう。同性愛者の可能性も考えたがどうにもそういう風でもない。だから夫が私に下心を見せないことがどうしても気になったし、化けの皮を剥いでやりたいとも思った。
でも夫はラブホテルでヒーローソングを歌い始めた。最初は冗談だと思っていたが2、3曲歌っているうちにもうそういう雰囲気ではなくなってしまい、私も一緒になって歌った。
もっとも、ラブホテルのカラオケ機材には特撮関連の曲はあまり入っていなかったので途中からは普通のカラオケになったのだが。セックスの前にも後にもヒーローソングはあまり向いていない。
朝まで歌って別れるときに私の方から連絡先を聞いた。そういえば自分から男に訊いたのは初めてだったような気がする。そんなことをする必要なかったし、そもそも絶対にもう一度会いたいと思うような相手自体が初めてだった。
なんとしてもこの不思議な男の正体を見破りたかった。まぁ見破った今となっては「へたれ」の三文字で簡単に片がつくのだけれど。
いつも食事をするテーブルには夫の中学校の卒業アルバムが開かれている。中学はあまり良い思い出が無かったと言っていたが寄せ書きのページがある程度埋まっているのでわりあい普通の中学生だったのだろう。
そもそも中学校なんていう思春期が充満して胃もたれを起こしているような環境が最高だったという人間はあまりいないし、それは少し寂しい気もする。80年生きるのだからピークは40歳くらいに置いてほしいものだ。
寄せ書きの内容を見ると『高校行っても遊ぼうぜ』とか『同じクラスで楽しかった』みたいな平凡なものから『お前のツッコミは世界一だぜ』とか『カリスマ美容師になったらタダできってやるよ』とか英語筆記体で書かれた君の未来に栄光あれ的な言葉までいろいろ。
そうか夫は中学時代世界一のツッコミだったのか。私の知っている夫はどちらかというと積極的にふざけるタイプだ。まぁ相手や会話の流れによってそんなものは変わるか。
ただ自分や他人のことをボケだとかツッコミだとか決めつけている人は経験的にあまり面白くない気がする。別に世の中の全ての人が面白くある必要はないからそれでもいいのだけれど。
そんな青臭さが広がる寄せ書きのなかに一人だけキラキラしたピンクのラメペンで書かれた文字を見つける。間違いない、これは女子が書いたものだ。男まみれの寄せ書きに一人だけ。
私と出会うまで特に努力もせずに童貞を守り続けていた夫にも女友達はいたらしい。一体どんな女だ。名前を確認してクラス写真の中から探す。いた。ギャルだ。しかも冬服を着ていても分かるくらいおっぱいが大きい。
スカートも短いし間違いなくクラスの男子からおかずにされていただろう。夫もしていたのだろうか。寄せ書きを書くくらいの仲だしそれは当然か。この女も同窓会に来ているのだろうか。これは少しマズいかもしれない。
夫に浮気は出来ないけど押しには弱い。当時もしこの女のことを好きだったとしたら。童貞の中学生男子なんてピンクのブラを透けさせるだけで簡単に落とせる。しかも巨乳だ。
いや、でも夫は胸より尻が好きだと言っていた気がするし、ハードディスクの中のAVもガチンコ白黒ギャル最強決定戦とかではなかった。そもそも尻派というのはどういう尻が好きなのだろうか。
大きいのが良いのか小さいのが良いのか。私の尻は尻派を満足させるようなものなのだろうか。というか夫の尻が好きって言葉自体、私に対する配慮なのではないか。
そういえば昔巨乳の友達が「男は巨乳と付き合うと巨乳派に寝返る」と言っていた。尻派なんてものは巨乳を抱いた事のない男の負け惜しみなのかもしれない。ハイボールで上気させた頬を寄せながらおっぱいを揉ませて耳元で「抜け出しちゃおっか」の一言を食らわせれば男はみなあっさり陥落してしまうのか。
だとするとやっぱり昨日一発抜いておくべきだった。会社を辞めるかもしれないとかいう突然の告白に気を取られて忘れていた。
いや、これはただ私が欲求不満なだけか。別に私が手伝わなくたって夫は一人でしているわけだし。男も人肌が恋しいみたいな感情はあったりするのだろうか。
「はぁー」
大きくため息をついて卒業アルバムを閉じる。家でひとり私はなにをやっているのだろう。
気晴らしに配信でも見ようかと思ったが本日のあゆちゃんは昼間から市民プールでピンクの水玉ワンピ配信をしたため夜はお休みらしい。きっと疲れてすやすや眠っているのだろう。小学生なのだからそっちの方がずっと健全だ。
他の配信者を探してもいいのだけれど、昨日一昨日とざっと見回った限り9割近くはただなんとなく配信しているだけで自分からはなにも発信しないつまらないものばかりだ。
あぁそうか、きっと今の私の様な気分の時に配信を始めるんだ。暇とか退屈とか少しの淋しさとか。別に画面の向こうの人はエイリアンではなく、私より少し行動力があるだけ。
面白いかどうかじゃなくて一緒の時間を過ごすことに意味がある。そう思うと少し優しくなれる。寂しさを紛らわすために男に抱かれるよりはずっといい。間違っても子供は出来ないし。
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