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長期休みの時期になると出勤が早くなる。朝は強い方ではないがリズムさえ掴めば問題はない。ただ一つ残念なのは、朝食が出来たてからレンジでチンになるということだ。でもまぁ贅沢は言えない。朝の5時から起きて朝食とお弁当を用意してくれるのは素晴らしい母親だけだ。夫には夫の仕事がある。
玄関で足と地面によく馴染んだスニーカーを履き家から出る。マンションの中も外もまだ小鳥のさえずりが聞こえるほど静かだ。いつも騒々しい裏口のドアを慎重に閉めて駐車場に向かう。
ファミリーカーの並びにひときわ目立つ小柄なツーシーター。緑の塗装はすでに色あせ気味で朝日の下でも輝きはない。ドアを開け座布団の敷かれた運転席に身を沈め、持っていたトートバッグを助手席に座らせながらエンジンをかける。シートベルトを締めた後、ポケットに入っていた夫の音楽プレイヤーをカーステレオにつなぐ。そう言えば借りる旨を伝える書き置きを忘れた。まぁ代わりに私のが置いてあるからそれを使うだろう。うん。
夫の音楽プレイヤーには90年代から2000年代前半の音楽が入っている。スガシカオとかグレイプバインとか中村一義とか。あるいはブラーとかベンフォールズファイブとか。中古で安く買えるからコスパが良いそうだ。でもMCハマーは入ってない。
ホフディランの何枚目だかのアルバムを流すとギアを一速に入れて車を発進させる。もったいないが口癖の母親が娘の運転免許の種類も確認せずにどこかから貰って来た車だが慣れてしまえば特に問題ない。なにより女でマニュアル車のツーシーターに乗っているとやたらと女子にモテる。学生時代はいろんな女の子を乗せて御殿場とか箱根とかラブホとかに行ったけど卒業してからはさっぱりそういうこともない。友達は仕事や恋人や子供にはなかなか勝てない。
住宅街を低速ギアで抜けて大通りに出る。都心に向かう車たちを横目に下り車線を走るのは平日昼間の映画館のような気分の良さだ。思わずスピードを出しそうになるがぐっとこらえる。こんな気分の良い時に警察に止められるなんて気分が悪い。それに速く着いたって待っているのは仕事だし。
道なりに20分ほど走り川を渡ると、近年住みたい街ランキング上位に入っている新興住宅地のシンボルであるタワーマンションが見えてくる。数年後にはあと2、3本生えてくるそうだ。三銃士みたいに上の部分をくっつけたら面白いと思う。
駅前にはバスツアーの参加者とおぼしき超ベテランマダムたちが既に集まっている。噂によると抽選に当たった人限定のツアーで、無料で美味しい食事や美しい景観を楽しんだ後、数十万円くらいする宝石を買わされて帰って来るらしい。数十万円払えば無料のバスツアー。いつも大盛況だ。
駅前を抜けるとコンビニの跡地に出来たケータイショップの跡地に出来たらしい出勤先が見えてくる。「道徳の家庭教師」という売り文句はいつ見ても胡散臭いと思うが、首都圏を中心にここ10年で店舗数を20以上増やしているというのだからきっと優秀なキャッチコピーなのだろう。きっと。
駐車場に車を入れようとするとなにやら店の前で話している影が二つ見える。どうやら開店前だというのにすでにお客様が来てその対応をしているらしい。従業員スペースに止め、二人に軽く会釈したあと店の裏口に回り鍵を開け中に入る。防犯セキュリティを解除しタイムカードを押す。自分の分と先ほどお客様対応をしていたはるみさんのと二枚。業務に使うパソコンの電源を入れて回り、立ち上がるのを待っている間にユニフォームに着替える。ユニフォームと言ってもジャージのようなもので着るのは店内にいるときだけ。私たちの仕事はあまり目立ってはいけないらしい。
保護者代行という仕事を初めて知ったのは教育実習で小学校に行った時だった。共働きで保護者会に参加できない親が代行業の人間を出席させたことがバレて問題になった。学校内でも家政婦の場合はセーフだとか別れた夫はダメなんじゃないかとか様々な意見が出て、最終的には事前に連絡を入れてもらい本人確認が取れれば雇われた代行業者でも良いというところに落ち着いた。
私自身は代行業という仕事も任せようとする親がいることも知らなかったが、なんだかスパイみたいでかっこいいなと呑気なことを考えていた。もともと教師になる気なんてさらさらなく、母校に堂々と侵入出来てガキ相手に先生ごっこを楽しもうというなんともよこしまな理由で教育実習に参加していた身としては、教師よりもよっぽど魅力的な仕事に思えた。まぁ実際にはそんな仕事はレアケースで主な仕事は、どうしても会社を休めない親に変わって病気の子供の看病をすることだったのだが。子供の看病よりも優先すべき仕事がこの世界に沢山あることは会社に入ってから知った。世の中は知らないことであふれている。
「おはよー」
はるみさんがディンプルキーを片手に入ってくる。
「おはようございます。また梅津さんでしたね」
「ね。やっぱり最初に断るべきだったよねぇ」
「ですねー。あ、タイムカード押しておきました」
「ありがと」
はるみさんが机から名刺サイズのカードを取り出し梅津さんと書き込む。それを手に持っていたカギと一緒に保管箱に入れる。親に変わって子供の看病をするということは当然家に入るためのカギを預かることになる。その多くがスペアキーでものによってはストラップの一つもついていなかったりするので、混同を避けるため必ずネームプレートと一緒に保管する決まりになっている。一度混ざるとドアを開けてみるまで分からない。ちなみにカギを持ち歩く際はネームプレートと共に専用のケースに入れて首からぶら下げる。かぎっ子みたいだなぁといつも思う。
「梅津さん今月もう三回目なんだよ? 知ってた?」
「あ、そうなんですか。仮病ですかね?」
「だね。まぁこっちとしては病気うつされる心配もないし楽だけどね。しかも一日コース」
「あ、いいなぁ」
一日コースとは9時から18時までのことで料金にすると数万円かかる。少し割高に感じるが従業員は時給950円のアルバイトではないし、私を含む多くの人が教員免許持ちだ。そしてなによりうちの会社はいろんな部分で融通が利く。子供や仕事はなかなか融通が利かないから融通が利くというのは何よりも助かるそうだ。だから庶民的な親は半休を取り、午前か午後のどちらかだけ依頼することが多い。しかしそれすら出来ないくらい仕事熱心な親もいる。時給換算するとどう考えても赤字なのだが労働というのはそういうことではないらしい。
「お店の方やっとくからこっちお願いね」
「あ、はーい」
言うが早いかあっという間に店側に出て行くはるみさん。はるみさんは基本的にパソコンを触ろうとしない。「私が触ると何故か調子が悪くなる」のだそうだ。年齢的にはもう学校の授業でパソコンを触っていた世代のような気がするがそういうことではないようだ。でもスマホは普通に使っている。
メインパソコンの前に座りスケジュール管理ソフトを立ち上げ、はるみさんの欄の白いマスを9時から18時まで赤に変える。本社のサーバーと繋がっているので本来なら業務前に更新するのは良くないのだが、早くスケジュールが分かって損をする人間はいないので黙認されている。そういう部分でもうちの会社は融通が利く。もしくは融通の利く人が偉い人までの間に挟まっているのだろう。
管理ソフトを閉じメールを開く。本社からの業務連絡。越谷支店でカギの紛失があったらしい。それと、最近動画配信サイトで未成年の女児による胸や性器の露出行為が確認されているようなので注意をするようにということだそうだ。随分と朝からパンチのある内容だ。でもとりあえず緊急性のある内容ではないので私も開店準備に取り掛かる。
レジのお金やシャッターや外看板ははるみさんがやってくれているので、カウンターに設置してあるタブレット端末を準備する。お客様向けのこの端末には本日指名できる代行者がプロフィール付きで表示される。スリーサイズや性感帯や得意なプレイは書いてない。でも巨乳NGというお客様は時々来る。小学校も高学年になると男子は女体に興味を持ち始めるので刺激を与えないようにということなのだろう。そういう時は大抵私が引き受けることになる。解せぬ。
しかし圧倒的に多いのは男性NGだ。子供の性別に関係なく、親は成人男性を警戒する。部屋に二人きりになることもあるからだとか、なかには夫が妻の浮気を心配してなんてケースもあるようだが、なんにせよ子供の世話は女性に任せた方が安心だという考えは強い。未成熟な男の子に対して性的な興奮を覚える女だっているのに。でもまぁそっちは最悪やっちゃっても妊娠するのは大人側だし身体の機能に障害が残ったりすることもあまりないし、美人のお姉さんならむしろご褒美だとすら思えるから別に良いのか。いやダメだけども。
そんなわけで会社の男女比率は2対8くらいだ。男女平等なんて言われるがこればかりはしょうがない。デリヘル嬢だって男女平等だから同じ数用意しろなんて誰も言わないだろう。いや、最近はそうでもないのかもしれない。性器の有無で性別を判断することもそのうちなくなるだろう。それなら男女平等は案外簡単かもしれない。
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