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駅のトイレで用を足そうと思ったら母親くらいの年齢のおばさんが小便器を磨いていた。他の人は普通に隣でしていたけれど、なんとなく気が引け手だけ洗って出てきてしまった。そういえば掃除のおばさんは掃除のおばさんだけあっておばさんが多い。おじさんもいないことはないが女子トイレをおじさんが清掃するよりは男子トイレをおばさんが清掃する方が色々と丸く収まるのだろう。なにより女子トイレを清掃するおじさんに向けられる視線の痛さを思うと胸が苦しくなる。だからこれはしょうがない。
片側三車線ある大きな街道の反対側にコンビニが見える。さっき歩道橋を渡らなければよかった。今からあのコンビニまで行って帰って来るには4、5分かかる。それではこれから向かう放送関係の専門学校に時間までに着かない。僕が大女優ならそれでもかまわないのだけれど、大事な取引先でこちらが頭を下げる側なのだからトイレは諦めるしかない。
高校時代の友人で現在の会社の社長でもある加藤が起業について相談に来たのは僕が大学四年生になるかならないかというタイミングだった。当時エントリーシートだのOB訪問だのに辟易していた僕にとってそれは都合のいい現実逃避だった。実際、大学の友人たちの間では「起業でもするかなー」が冗談の定番として使われるくらい現実から遠いものだった。十代も早々に自分の人間としてのレベルを理解するのが当たり前の世の中で、大事なのは安定と無難と人並みとなんとなくだ。日本で生きていくにはそれで十分すぎる。だから加藤との週に一度のファミレスでの現実逃避がいつの間にか現実になっていた時は怖気づいた。でもそこは現実逃避の行きついた先であってもう逃げ場はなく腹をくくるしかなかった。いや、本当のところは就職活動に本気を出す覚悟が無かっただけなのだが。
結果として起業は上手くいった。専門を出て放送業界で二年間働いていた加藤にはそこそこのお金と沢山のコネがあった。丁度その頃、動画サイトで視聴者数に応じて報酬が貰えるサービスが始まり、僕は僕でネット配信や動画投稿をしている素人に詳しかった。動画投稿者は技術者を求め、技術者はテレビ業界よりももっと楽しくしがらみのない場所を求めていた。だから僕らの作ったマッチングサービスが上手くいくのは当然だった。たぶん、似たようなことを考えていた人は沢山いただろうが、加藤はコネだけでなく誰よりも行動力があり、アイデアを次々と現実のものにしていった。おかげで僕は大学の同級生の誰よりも少ない時間で人並みの賃金を貰えている。まぁもう誰も会っていないから本当のところは分からない。
七月のギラギラとした日差しが肌を焼く。熱中症を避けるためには汗を拭かない方が良いらしいが、汗まみれのワイシャツで学生相手に話すのはなんだかいかにもしがないサラリーマンみたいで恥ずかしい。実際その通りだし、どうせ緊張で汗まみれにはなるのだけど。
加藤曰く専門学校とは折り合いをつける場所だそうだ。二年間の間に奴隷になるか職人になるか詐欺師になるか覚悟を決める。なにものにもなれなかった人はなにものにもならず卒業するか、いったん就職したあと数ヶ月でなにものでもなくなる。夢のない大学生と夢見がちな専門学生。お互い仲良くやれれば上手くいきそうだがなかなかそうはいかない。だから僕たちは夢見がちな人に動画投稿で生計を立てようなんていうもっと夢見がちな人を紹介している。それではあまりにも現実感が無い気もするが20代ならそれでいいじゃないかと思っている。現実なんていずれ勝手にやってくるのだからわざわざ迎えに行く必要もない。来週から夏休みも始まるのだしそんなことを学生に話して学校側に嫌な顔でもされようか。
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