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まぶたに入れるタトゥーについて妻が話したのは結婚する少し前、婚姻届とか住宅手当とかについて調べている時期だった。
僕は「居眠りをするのに便利そうだね」とか比較的気の利いた返事をしたが妻は笑いながらそれを否定。タトゥーを入れるのはまぶたの裏側、眼球のある方だという。なんだか痛そうだなと思い顔をしかめる僕に「面白そうでしょ?」と語りかける妻。まぁ半年で別れる恋人の名前を左肩に彫るよりはずっとシャレている。自分にしか見えない内向的タトゥー。役所勤めや学校の先生だって問題なく彫れる。もしかしたら世の中にはすでに結構な数の人がまぶたにタトゥーを入れているのかもしれないなんて考えてみたりする。なるほど確かに面白いなと思った。
しかし数日後に妻が知り合いの彫師を紹介してきたことにはさすがに驚いた。展開の速さもそうだがなにより知り合いに彫師がいることにだ。若者の間でタトゥーはファッションとして広く受け入れられているなんて本気で思っているのは若者文化に理解がある大人を演じたい中年くらいのものだ。普通に生きて入れば生のタトゥーはあまり見られないし、彫師はもっと出会えない。
しかし妻が紹介した彫師は僕のイメージとはだいぶ違った。白髪交じりの初老の男性で物腰も柔らかく礼儀正しい。恐る恐るそのことを伝えるとまた妻に笑われる。男は本業が医師で彫師は副業なのだと話す。タトゥーは医療免許が無いと施術ができないそうだが、なんだかクドカンのドラマみたいだなと思った。男は少し緊張していたのか喋りがたどたどしかったが、妻が慣れた様子でフォローしていたこともあり話は盛り上がった。その結果と言ってはなんだけどいつの間にか僕の施術が決定していた。
タトゥーを入れるからには柄を決めなければならない。こういう時に信じる神様がいれば迷うことも無いのだけれど、あいにく僕が人生で一番祈っている神様は腹痛の神様だ。残念ながら腹痛の神様のお姿は存じ上げないし、そもそも助けてくれない時もあるのであまり信用していない。かといって毎日見るものなのだから星とかバラの花みたいなものをテキトーに選ぶわけにもいかない。「平常心」とか「根性」みたいな言葉のタトゥーも考えたが、なんだか高校野球みたいだと思ってやめた。それにリラックスしているときに平常心を迫られても困る。
結局決められないまま彫師の男と会う日を迎えてしまった。いっそのことばっくれてもよかったが、妻の知り合いだし後々のことを考えるとそれも面倒だった。そもそも妻はどうやって医師であり彫師でもある男と知り合いになったのか。そればかりが頭の中でぐるぐると回り続けていた。男は妻のことを何度か名前で呼んだ。そのたびに妻が男を睨みつけ、慌てて名字にくん付けで呼び直した。きっとこの男はかつて妻のことを名前で呼んでいたのだろう。もしかしたら今もそうなのかもしれない。本当は二人の関係を問いただしたかったがそれはしなかった。妻が話さないということは聞いても得が無いということだ。宝箱を開けたら毒が無だ。
だからといって何もしないというのも虫の居所が悪かった。別に二人の間に今なにもなければ良いのだが、それでもこれから夫になるのだからなにかこう一発お見舞いしてやる必要があるような気がした。そんなことを考えながら男と会った結果、タトゥーの柄は妻になった。まぁ、まぶたの母よりはずっといい。
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