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古ぼけた団地。外に面する共用廊下。寒い冬の夜。
扉の前に座り込んだ君は言った。
――ママがいじめられていたのを、かばっただけ。だって、わたしはつよいこだもん。ほおぐらいぶたれたって、平気だよ。
赤く腫れた頬を押さえて、君は笑った。
太陽が照り付ける通学路。学期末に出さねばならない絵が、くしゃくしゃにひしゃげていた。画用紙には、いくつもの上履きの跡が残っていた。
それを持って君は言った。
――大丈夫だよ。わたし、がまんつよいの。少しくらいいじわるされたって、どうってことないよ。
君が包帯をしていた。訪ねると、慌てて腕を背の後に隠して、困ったように君は言った。
――わたしがわるいの。テストで100点取れなかったから、ピアノのコンクールも落ちちゃったから。そんな役立たずの手ならいらないでしょうって、やかんを……。ちがうよ、カッとなっただけだよ。ごめんねってあやまってくれたから、もういいの。ほら、ほうたいだって巻いてくれたんだよ。冷やすのは自分でできたから。
綺麗な女の人と、君が歩いていた。君は、笑っていた。
――いとこのお姉さん。
きちんと就職しているらしい。小さい頃から仲良しで、休みのたびにちょくちょく様子を見に来てくれるのだという。
――美人でしょ。わたしの自慢なの。
君は、誇らしげにそう言った。君の憧れの人と、君は笑い合った。
心の底から楽しそうに。安心しきって、頼り切って。信頼していると、眼差しいっぱいに表して。
僕には一度も見せたことのない、幸せそうな笑顔で。
従姉妹と一緒にいるときに、君が苦痛を耐え忍ぶ顔をしていたのは、三日前だけのことだった。
あの日。
君の家は、騒音が絶えなかった。怒鳴り声、言い合い、何かを必死で訴える女性の悲痛な言葉。ものを投げつける音、食器の砕ける音、人を引き倒す音に入り混じる悲鳴まで聞いて、不安に堪りかねた住民がチャイムを押そうとしたそのときに、服をよれよれにし、髪を乱された従姉妹が部屋から出てきた。
怯え、でも心配の表情で駆け寄ろうとした君の手を従姉妹は掴んで、階段を駆け下りた。
団地のすぐ下の公園で、従姉妹は、しゃがみ込んで肩を掴み、真剣な面持ちで、君に向き直った。
そして、君に、強い口調で質問をした。
一拍の間。
君はかぶりを振った。
従姉妹は、君を抱きしめた。
絶対に諦めないから。何度だって迎えに来るから。必ず、あなたを幸せにしてみせるから。
そう、泣きながら、何度も繰り返した。
帰るとき、一歩進んでは振り向き、二歩、三歩進んでまた振り向いた。
そして、君がとうとうついて来ないことがわかると、真赤な目をして、固く口元を引き結んで、駅へと向かって行った。
君は俯いていた。
古ぼけたスカートを握りしめて、じっと、塗料の剥げた靴に、視線を注いでいた。
何を訊かれたのか。
そう、君に訊いた。
君は長いこと、沈黙していた。両の手をぎゅっと握り込んで、口をぐっと噛みしめて。
それでも、語りだした声は、いつも通り明るかった。
――あのね、お姉さんがね、一緒に暮らさない?って言ったの。だからね、だめだよ、ってことわったの。
だって、パパとママがいるもん。わたしがいなくなったら、パパはママにいすやなべをぶつけるし、ママはパパにやかんのお湯をかけちゃう。
パパも、ママも、わたしが守らなきゃいけないんだよ。だって、わたしはつよいこだもん。
青空の下で、そう、君は言った。
風が吹く。春なのに、痛いほど冷たい。
それが揺らした前髪。晒された、眼差し。
この世の何よりも澄んだ黒い瞳から、透明な滴を零れ落として。
君は、笑った。
――……めて……やめて……
――お願い、放して、許して、止めて……パパ!
君は言った。君は叫んだ。もがいていた。抵抗していた。
怯えきっていた。絶望していた。泣いていた。泣いていた。止めども無く、大粒の涙を零して、君は泣いていた。
君は。君は。君は。
僕は。
ドアを開ける。外に出る。
この季節だというのに、廊下はしんと冷えていた。
まるで、君と初めて出会った、あの日のように。
ちかちかと瞬く蛍光灯が、僕の足跡を照らす。冗談みたいに、くっきりと。
柵に、顎を乗せる。身長が足りなかったので、少しだけ背伸びをして。
君は、忘れてくれるだろうか。
月が浮かんでいる。白々とした光の中で、僕は一人、自問する。
心臓を刺した。背中から狙った。しくじれば、もう殺す手立ては無い。全身の体重をかけた。
台所から持ってきた大振りの包丁は、君に覆いかぶさっていた大柄な男に深々と突き刺さった。
血飛沫があがった。怒声が部屋に響き渡った。憤怒に顔を歪めた男が振り向き、その手をこちらへ伸ばしたとき、口から赤黒い血を吹き出して、男は床に倒れ伏した。
君は気絶していた。服が破かれていて、顔と腹にあざができていたが、下着は、ずり下ろされてはいなかった。
それを確認したところで、足音が聞こえた。
素早くソファの後に隠れる。女が駆け込んできた。
悲鳴が上がる。「あなた、あなた」真っ青な顔で、息絶えた男を揺すぶり始める。傍らで昏倒している実子には目もくれない。
隣の部屋にいたはずなら、あの助けを求める声が、聞こえないはずはないのに。
女はまだ喚き続けている。どうして。誰がこんなことを。音を立てないように、慎重にソファの背もたれに這い登り、包丁を構える。
気配がしたのか、女が振り向く。その時にはすでに、脚は背もたれを蹴っていた。
胸元に刃が突き刺さる。血が、クリーム色のセーターを染めてゆく。
見開かれた目が僕を認めた後、最後に発した言葉は「なぜ」だった。
身体が床に崩れ落ちる。それを見届け、僕は包丁を手放す。ぼろぼろのカーペットに、ごとん、という音がした。
僕は答えを出した。白々とした月に向かって微笑む。
君は、忘れてくれるだろう。
僕は、君とは学校も、年齢も、習い事も違う。
たまたま、同じ団地だった。たまたま、君とお喋りするようになった。たまたま、君が同級生からも親からも虐められて、どこにも居場所が無いのを知った。
そんな僕が、たまたま、君を強姦しようとした君の父親と、それを見て見ぬふりした君の母親を殺して、唯一君を大事に想っている従姉妹が君を引き取れるようにしただけのこと。
手すりに腕をかける。上半身を引き上げ、柵の上に立つ。
僕は言う。僕の願いを。君がいつも、心から楽しく笑っていられる日常が来るようにと。
身体が宙に舞う。夜闇。月明かり。頬を撫でる風。笑う。
君は、幸せになってくれるよね。
こんな忌まわしい事件など忘れ去って。僕の知らない街で、僕の知らない人たちに愛されて。
君という少女に恋した僕という少年が死んだ、それからの日々を。
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