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東校舎の突き当たり。
もう誰も使っていない筈の古びたその教室は昔、音楽室だったらしい。
部活棟は別にあり、我が校の吹奏楽部は新しい校舎で活動している。だから本来この校舎から音楽が聴こえてくるなんてことはある訳がないのだが、今日も俺はその場所へ向かうのだ。
一人ひたひたと歩く冷たい廊下に、やがてぽつりぽつりと溢れ落ちてくる音の数々。
今日も今日とて温かい、優しい音。それでいて何処か寂しげな気もする心地好い音。
ピアノの音がする教室の前に俺はひっそり佇んで、今日も観客が一人だけの演奏会が始まる。
と言っても中で演奏している人は外に誰か居るなんて思ってもいないだろうし、俺も俺で中で誰が演奏しているかなんて知らない。何とも奇妙な音楽会だ。
でも…好きだなぁ。
優しい旋律を鼓膜に感じながら、俺はそっと目を閉じた。
始まりは本当に単純なこと。
ある日の放課後、先生に頼まれたノートを職員室へと持っていくのに、俺が偶々此処へ迷い込んだのだ。そうして一人佇む廊下に、何処かから聴こえてくるピアノの音色を拾った。
「…こっちかな」
もう誰も使っていない筈の教室からピアノの音が聴こえるなんて普通は気味悪がるかも知れないが、俺は何も考えず音のする方向へ向かった。
考えるよりまず行動。これは別に理念とかではなくて、悲しきかな俺の習性なのである。
そうして辿り着いた、音の出所らしき教室。扉を開けることもせず立ち尽くしたままでいると、またあの音色が優しく鼓膜を擽った。
ポロン、ポロンと初めは遠慮がちに、しかし次第にひとつひとつの音がたくさん連なって形になって、旋律になって自由に舞う。
俺には音楽の知識なんて無い。
ピアノが弾ける訳でもなければ、特に歌が上手いとか、得意な楽器がある訳でもない。
けれど初めてその演奏を聴いたときまるで、おかしなことを言うようだけど…大きな魚が空中を泳いでいったような気がした。
ただの冷たいコンクリートが海中みたいにゆらゆら揺れて、ひとつひとつの音が泡になって弾けては煌めいて。
それが小さな魚の群れ、たまに大きなエイやらクジラになって…色とりどりの珊瑚礁だって足元で踊っているような気がして。
両腕を圧迫していた大量のノートなんて浮力で何処かへ消えてしまって、ふわふわとただ海中を漂う。セルリアンブルーの世界に色々な種類の生き物がいて、水の中なのに息が出来る。
ふと大きな影が落ちたと思ったら、マッコウクジラがごめんよと頭上を通り過ぎて行った。
こんな狭い廊下なのに通り抜けられるんだなぁなんて呑気なことを思いながらも、俺は波に身を任せる。
不思議な体験ってこういうことを言うんだろうか。実際に廊下が海になった訳じゃあないけれど、ふわふわして楽しくて、だけどどこか底知れない深海のような闇があって…。
ピアノひとつでこんなにも広く素晴らしい世界を作り出せることを俺はこの時初めて知った。
暫く教室の隅でその演奏に聴き入っていると、やがてピタリと音が止まった。
と同時に、今まで辺りを満たしていた魚も珊瑚も海水も一気に引いていってしまった。
持っていたノートも一気に重みを増して、再びずしりと腕にのし掛かってくる。
音が止んだ。
その一瞬で俺は現実に引き戻された。
我に返ると、ツカツカと扉の方へ近寄ってくる足音に気付く。きっと演奏していた人だろう。
外に誰か居るって気付いちゃったんだろうか。
このままだと盗み聞きしていたことがバレてしまうと焦った俺は、見つからないよう慌ててその場から立ち去った。
だから俺も演奏していた人がどんな奴なのか知らない。
相手もきっと俺が聴いていたなんて知らないだろう。
そしてそれからというもの、俺は放課後になるとその奇妙な演奏会へと足を運んだ。
授業が終わって暫くした頃。
各々部活へと向かう者、帰宅部の名に懸けてダッシュで帰路を急ぐ者、教室で意味も無くわいわいと駄弁る者などが居る中で、いつ頃からかその音色は響き始める。
初めは音を確かめるように、そして次第に大胆に。音が重なって旋律になって、また新たな世界を紡ぎ出していくんだ。
楽しげな音、わくわくする音、癒されるような優しい音、穏やかな音に、たまに混ざる…少し寂しそうな音。
俺は音楽のことは何も分からない。
絶対音感なるものがある訳でもない。
けれどこの素晴らしい演奏の中でたまに感じるその寂しさが、小さな鉛のようになって俺の中に積もっていった。
…どんな人なんだろう。
初めはただ聴いているだけで良かった筈なのにいつしかその音を紡ぎ出している人のことまで気になりだして、何度か教室を覗き見ようとしたこともあった。
だけど出来なかった。
何でかは分からない。しかしわざわざこんな人気の無いところで弾いているくらいだから、相手だって見られたくはないんだろう。
今まで散々盗み聞きしておいて盗み見ることはしないなんておかしな話だ。
でも直ぐに答えが分かっても面白くない。
どんな人かを想像するだけでもわくわく過ぎる日々を、俺は自分勝手ながらにもう少しだけ堪能していたいのだ。
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