第0話

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第0話

 ヤノフスキー市の空を、今日も冷たく乾いた風が吹き抜けていく。  ルージア連邦は国土のどこでも、冬が長く夏が短い。降雪量も日々多く、乾いた雪が朝から晩まで降り積もる日が、一年の半分以上を占める。  俺達獣人(じゅうじん)にとっても暮らすにはよくない土地だが、この世界はどこの国でも大概そんなもの(・・・・・・・)だ。  むしろそんな世界だから、頭以外に毛皮を持たない人間(ニンゲン)よりも、獣人がのさばっているんだろう、と思う。たまに見かけるが、いつも厚着してブルブル震えて寒そうだ。  そんなことを考えながら、立派な(たてがみ)のある獅子獣人である俺、ルスラーン・ナザロフは、フェルトに縁どられたコートの襟を高く立てながら、白い息を吐いて町の大通り、ウラソフ通りを歩いていた。  時刻は夕暮れ時、日が短いから既に空はどんよりと暗い。道端では街路灯が煌々と灯り、今にも雪の降りだしそうな雲を映していた。  こんな日は、とっとと屋根の下に入って一杯やるに限る。  ちら、と視線を道端に並ぶ建物に向ける。居並ぶ店々、外気を入れないためにぴっちり扉は閉まりつつも中に明かりは灯り、人を迎え入れる準備は万端と言ったところ。  俺は中でも、ウラソフ通りから多くの人が吸い込まれていく一軒の酒場に目をつけて、他のやつらがそうするように店の扉を開いた。  一枚目の扉を開けば、奥にはもう一枚。冷たい外気を暖かい店の中に呼び込まないようにした、雪国の知恵だ。  外扉をしっかりと閉めてから内扉を開けば、暖炉で熱された空気と一緒に喧騒(けんそう)と酒の匂いが出迎えてくれる。 「『カメーリヤ』へようこそ、旦那様」 「ありがとう。一名、カウンターに空きはあるかい」  出迎えてくれる、パピヨンを思わせる大きな耳をした犬獣人の少女に笑いかければ、耳の房を揺らしながら彼女は頷いた。丸みを帯びた指先が、店内に向く。 「勿論ですとも。どうぞ、こちらへ」 「おお? いらっしゃいルスラーン。お前さんともあろうやつが珍しいじゃないか」  少女の指し示した先、カウンターの中央にある空席に手をかければ、店主である初老の犬獣人、フョードル・サマリンが笑いかけてくる。市内の酒場のいずれにおいても、俺は店主に顔が割れている。職業柄、これは致し方ない。  とはいえこの『カメーリヤ』に、俺が訪れることはあまり無いのが実情だ。一番街で最も大きな酒場だから混んでいるというのもあるが、単純に、今更来るような店でもないのだ。あとは、俺がワインを好むからというのも理由の一つにあるか。 「たまにはな。俺にもウォッカが恋しくなる日はある」 「はっは、こう寒くちゃあな。ワインやウイスキーより手早くってわけだ……で、どうする?」 「そうだな……」  フョードルの問いかけの声に、俺はカウンター向こうの壁に並べられたウォッカの瓶を見た。  『カメーリヤ』はいわゆる大衆向けの酒場だ。当然並ぶ酒も大衆向け、すなわちルージア連邦で広く好まれるウォッカが多い。  クリコフスカヤにサイティエフ、ジュラフスカヤにマゴロフ。メジャーどころのウォッカが並ぶ中で、俺は左端の水色をした瓶に目を向ける。 「『クリコフスカヤ』、ストレートで貰おうか」 「ほう、これまた珍しい。王道も王道、お前さんなら飲み飽きているだろうに」  俺の選択に目を見張るフョードルだ。  俺の酒の好みを、彼もよくよく知っている。変わった酒、特徴的な酒を好むという、俺の嗜好(しこう)を。  その点、ルージア連邦の首都クリコフスクの名を冠するクリコフスカヤはその逆、ド中道を行く。  しかし俺はくいと片方の口角を持ち上げて、そのド中道を受け入れる。 「王道を知ってこそ、覇道(はどう)の良さも知れる。たまには立ち返るのもいいものだぞ、サマリン」 「三十かそこらの若造が、知った風な口を聞いてくれやがって」  軽口を叩きながらクリコフスカヤの瓶を取るフョードルだ。しかしこれも、俺のことを知っているから出来る話。  市内の酒場に顔が割れている俺は、どのくらい酒に精通しているかもそれぞれの店主に知られている。  何しろ俺の表向きの(・・・・)仕事は、酒や酒場について紹介する広報記事やエッセイを書くエッセイスト。酒に詳しくなければこんな仕事、誰が続けていられるか。  メジャーカップにクリコフスカヤを30ミリリットル注ぎ、それをショットグラスに移したのを俺の前に出しながら、フョードルはニヤリと笑った。 「で、だ。お前さんが酒場にカウンターで一人きり、とくりゃあ……だ。  隣の席は空けたままに(・・・・・・・・・・)しておくかい?(・・・・・・・)」  不敵な笑みを浮かべるフョードルの差し出したショットグラスを手に取って。  俺も持ち上げた口角を更に上げた。 「ああ、頼む。  たまにはこの店も、『仕事場(・・・)』に使ってやらないと、一番街の顔役をしているあんたに示しがつかん」  そう言いながら、クリコフスカヤのグラスに口をつけて。  満足そうにウォッカをやる俺に、瓶を戻しながらフョードルが言いつつ笑う。 「そいつはどうも。ならもうあと五分、早く来てくれたらよかったんだがな」 「ほう?」  ショットグラスを手にしたまま目を開く俺に、フョードルが肩をすくめた。その様子はなんとも、呆れ半分喜び半分といった様子で。 「客だよ。人間の『エージェント(・・・・・・)』が一人、この店に来ていた。見ない顔だったから、どこか他所から来たんだろうと思うがな」  フョードルの発した言葉に、目をぱちくりとさせる俺だ。  俺の裏稼業(・・・)目当てに、俺を探し求めるエージェント連中は少なくない。エージェントと俺は切っても切れない関係だ、求められるからには応えるのが仕事である。  俺もそれがあるからこそ、毎夜酒場を渡り歩いている。しかしそこで、何処の酒場に行くか(・・・・・・・・・)が、俺を探すにおいて非常に重要だ。  ショットグラスを口から離し、顎の下に置きながら、顔も名も知らぬ人間のエージェントを思って、俺は深くため息をつく。 「俺の噂を聞いたにせよ、真っ先に『カメーリヤ』に探しに来るようでは、程度が知れる」 「同感だよ。挙句の果てにゃ、あそこのテーブルに座るアンドレイに声をかける始末だ。お前さんがテーブル席に座ることなんて、ほぼほぼないというのにな」  苦笑すら消して、フョードルがくいと顎をしゃくった。視線の先にあるテーブル席では、俺と同じ獅子獣人のアンドレイ・ブーリンが他の飲み仲間と一緒にウォッカを呷っている。  本当に、俺のことを少しでも知っているなら絶対に声をかけることのない手合いだ。俺と見紛うなど、ヤノフスキーの人間ならまず有り得ない。  理解の及ばない客の不手際に、小さく肩をすくめる俺だ。何しろ、俺の存在が招いた客だ。 「悪いな、サマリン。俺目当てにやってくるエージェントのせいで、お前の店にも毎度、迷惑をかける」 「いいってことよ。お前さんがこの店に出入りする噂が広まりゃ、この店に金を落とす連中も増える。お前さんが稀にしか(・・・・)来ないとなれば、益々いいってもんよ」  俺の言葉に笑みを見せながら、フョードルはゴフレットを洗い始める。  こうして話している間にも酒は出て、ゴフレットやグラスは戻ってくる。それをカウンター内で洗うフョードルの手は、休まることがなかった。 「それにだ。お前さんの『本業(・・)』でうちを取り上げてくれたおかげで、ここのところは黒字続きなんだぜ。歓待しなくてどうするよ」 「そうか……それなら、いいことだ。大見出しを打って記事を書いた甲斐もあったというものだ」  先日に『本業』のために書いた、『カメーリヤ』の紹介記事を思い出しながら、俺はくいとショットグラスを傾けた。  いい仕事の結果を受けて、仕事の相手が儲かるのを聞くのはいいものだ。そういう話を聞きながら飲む酒は、殊の外美味い。  俺はこういう瞬間が大好きだ。自分の仕事の成功を噛み締めながら、ぐっと一杯の酒を呷る、この瞬間が。  俺がカウンターにショットグラスをトンと置くのを見ながら、フョードルが尻尾と頬の毛を揺らす。 「本業の記者業も順調、裏稼業でも有名。相当儲けてるんじゃないのかい、お前さん」 「儲けた分、こうして飲み歩くのに使っているんだ。勘弁してくれ」  腹を揺らして笑うフョードルにもう一度ため息をつきながら、俺は短い顎を、組んだ両手の上に乗せた。  実際、仕事はどちらも順調だ。それなりに儲けてもいる。そしてその儲けは、九割がた酒へと消えている。  有名人ならそれなりに儲けているだろう、とは言われる。言われるが、日々こうして市内の酒場に顔を出している時点でお察しである。  そんな俺の懐事情(ふところじじょう)を察したフョードルが、また笑いながらカウンター奥のウォッカを取ろうとこちらに背を向けた。 「はっは、そうだな。で、次はどうする。また『クリコフスカヤ』にするか?」 「そうだな、次は――」 「あ、あのー……」  俺が次のウォッカをどうしようか、と思案しようとした矢先、俺の後方から声がかかる。  そちらに顔を向ければ、クラシカルなドレスに身を包んだ妙齢の兎の獣人が、つば広の帽子を手に持ちながら恐縮していた。  見るからに、良いご身分のお方だ。こんな大衆向けの酒場に顔を出すようなご婦人ではない。 「ん?」 「あの、獅子のお方……『ヤノフスキーの夜鷹(よたか)』と仰るのは、貴方様でございましょうか?」  突然のことに目を見開く俺に、投げかけられた言葉。  それを耳にした途端、俺の脳天から尻尾まで、すぅと冷たい空気が走っていった。  鋭く目を細めながら、ご婦人に問う。 「俺が『そうだ』と言ったら……次にあんたはどうするか、知っててそれを問うているんだろうな?」 「あっ、も、勿論でございますとも!  今ご注文為されようとしていた一杯、(わたくし)奢らせてくださいまし(・・・・・・・・・・)」  俺の視線に気圧されたか、少したじろいだ兎の女性が仰る。  なるほど、ルールには則っている(・・・・・・・・・・)。このご婦人は噂話を頼りに、酔狂で俺に声をかけてきたわけではないらしい。  くい、と首を戻してこちらを見やるフョードルに一声かける。 「サマリン、『サイティエフ』をストレートで。彼女の伝票に付けてくれ」 「あいよ」  俺の言葉に何を言うでもなく、彼は伝票にペンを走らせた。  それを確認し、フョードルがメジャーカップにサイティエフを注ぐ音を聞きながら、俺の隣の椅子を引いて粛々と腰掛ける女性に、念押しのように言う。 「俺は、真に俺のネタ(・・)を任せられる相手にしか売らないぞ。あんたにそれが出来るのか?」 「勿論、私自身の手でカタをつけるつもりですわ。一応エージェントの端くれでもございますし……何より、クルプスキー男爵家(・・・・・・・・・)の名誉にも関わりますもの」  女性がその名を、自らの家の名を(・・・・・・・)出すのを聞いて、いよいよ俺は肝を据えた。  このお方、本気(まじ)本気(まじ)だ。本気で俺に『仕事』を持ち込もうとしている。俺の『裏の仕事』を欲している。  額に指をトンと置いて、俺は傍らの女性に呆れを孕んだ目を向けた。 「やれやれ……クルプスキー家か。三番街ハモン通りのだろう?  息子のために、アデリーナ夫人がこんな思い切った行動を取るお方だとはね」  兎のご婦人――エージェントとしての顔も持つ、クルプスキー男爵夫人、アデリーナ・クルプスカヤを前に、俺はいっそ清々しいくらいのため息をついて、スマートデバイス片手に傍らの女性を見た。  アデリーナ・クルプスカヤ。三級エージェントとして、ルージア連邦のエージェントデータベースにしっかり名前が載っている。ライセンスも失効せずにきちんと更新がされているから、間違いない。  俺の視線と、俺の手元に表示された自身のプロフィールを受けて、アデリーナはふっとため息を吐きながら頭を振る。 「私の家の腐敗を、外部のお方に処理していただく方がよっぽど申し訳がありません。それで、どうですの?」  俺の言葉に同じく呆れた表情をして、アデリーナはまっすぐに俺の顔を見た。  心底から、彼女の抱える問題について憂いていて、自身だけでは処理しきれなくて、もう外部の人間を頼るより他に手はないことを理解している顔だ。  こんな顔をされたら、俺も真剣に仕事(・・)をする他ない。   「男爵夫人」 「はい」 「あんた、『サイティエフ』に合わせてつまむなら何にする?」  真剣な顔をして問いを投げる俺に、アデリーナがキョトンとした表情でこちらを見返してきた。  ウォッカに合わせてつまむなら。我ながら難易度の高い問いかけをしていると思う。だが、これを聞かないことには。これを聞かないことには俺の仕事は成し得ない。  俺の言葉に考え込むようにして、アデリーナは眉間にしわを寄せた。 「……合わせて、つまむなら、ですか」 「ウォッカの中でも『サイティエフ』はクセがない。香りもさして立たない。何にでも合わせられるが、逆にこれと言った決まり手がない。  故に、俺はこれに客がどう答えを出すかを見るのが、面白いと思っている。あんたのように高貴な世界の客なら、特にな」  そんなことを言いながら、俺は手元に注がれたサイティエフに口を付ける。  正直、柄でもないと思う。普段なら俺の客に、こんなヒント(・・・)を出したりしない。  だが、他ならぬクルプスキー男爵夫人の依頼だ。その依頼とあれば、どんな情報を求めているかなんて知れている。  たまにいるのだ、「何でもいいから情報を」というのでなく、「この情報を欲しい」という客が。そういう客とあれば、見方も変わるというもの。  やがて、ずっと思案にふけっていたアデリーナがポツリと言葉を零した。 「……ニシン」 「ほう?」  その言葉に、グラスに二度目の口づけをした俺が目を見張る。  ニシン。ニシンと来たか。  その後を継がずに答えを待つ俺に、アデリーナは真剣な目をして俺に語りかけてくる。 「油漬けにしたニシン。あれが私は、ウォッカと合わせる前菜に最良と思いますわ。  油っぽさをウォッカで和らげ、ウォッカに塩気と香味を足して落とし込む。そうしてまた次の酒を入れる。  これでいかがでしょう、獅子のお方」  彼女の、心の底からの言葉を受けて、俺の表情がふっと和らぐ。  きっと、傍らにいるフョードルから見たら、目を見開くほどに俺の笑みは柔らかだったことだろう。  彼女の言葉を受けてオイルサーディンの蓋を開け、俺の前に出すフョードルを横目に、カウンターの下に手を伸ばしながら、俺はアデリーナに言葉をかけた。 「……そうだな。よし、少し待ってくれ」  俺の言葉にアデリーナが首を傾げる。それを他所に鞄の中をまさぐって、取り出すのは俺の愛用している手帳だ。  一枚一枚のページがミシン目が入って切り取りやすくなっているそれを何枚か繰って、一枚を切り離す。  そのページの下部にペンを走らせると、そのままの勢いでアデリーナに差し出した。 「ご子息(しそく)のよく飲んだくれている店のリストと、概ねいる時間帯だ。よく通る裏路地も記してある。仕事の手段(・・)は任せる。  俺の口座と連絡先はこれだ。三日以内にここの額を振り込んで、結果の成否にかかわらず実行したら連絡をくれ」  これが、契約締結のサイン。  俺の情報屋としての(・・・・・・・)仕事が、成されたことの印だ。  メモ書きをうやうやしく受け取りながら、アデリーナが目元に涙を浮かべる。 「あぁ……ありがとう、ございます」 「礼はあの放蕩息子を始末してからにしてくれ。いい加減、あのバカ騒ぎと節操のなさに、俺もうんざりしてきていたんだ」 「あのバカ野郎、うちの看板娘にも、散々色目を使ってくれたんですぜ、アデリーナ夫人」  俺の言葉と同調するように重ねてきた、今までずっと押し黙って店の仕事に専念していたフョードルの発言に、アデリーナはいよいよ頭を下げた。  クルプスキー男爵家の次男、ロマンが手の付けられないほどの悪童(あくどう)で、あちこちで醜聞(しゅうぶん)を撒き散らしていることは、彼女だって知っていることだろう。  ヤノフスキー市に貢献していきたい男爵家からしたら、目の上のたんこぶなんて言葉じゃきっと足りない。  だから、だからこそだ。アデリーナは俺の渡したメモ書きを大事そうに懐に入れて、数枚の銀貨をカウンターに置くと、そっとカウンターチェアから降りた。 「ありがとうございます、獅子の方。必ずや、吉報を手にまた伺いますわ!」  そう一言残して、アデリーナは店の出口へ向かっていく。その背中と、パタンと閉じる店の内扉を見ながら、小銭を数えるフョードルが呆れを孕んで言葉を零した。 「やり遂げると思うかね? クルプスキー男爵家なら、何も自分の手を汚さなくたって、下手人を雇うことも出来るだろうに」 「俺はやると思うね。あれは、自らの手でカタをつけないと気が済まない目だ」  そして、『カメーリヤ』の二重扉を見ながら、俺はニヤリと笑いながらオイルサーディンをフォークで突き刺した。  その、一週間ほど後の水曜日。  早朝の二番街、ルブレフ通りにて、クルプスキー男爵家次男、ロマン・クルプスキーが、刺殺体として発見された。  ロマンの体内から大量のアルコールが検出されたこと、財布がなくなっていたこと、凶器のナイフがその場に落ちていたことから、警察は泥酔したところを狙った物取りの犯行と判断。  その犯行時刻当時、アデリーナ・クルプスカヤは一番街のポターニン通りを歩くところを目撃されており、アリバイは完璧。  一切嫌疑(けんぎ)をかけられることなく仕事(・・)を完遂し、喜びの電話をかけてきたアデリーナに、俺は電話口で笑いをこらえるのに必死だった。  なにせ俺の隣では、アデリーナに身代わり(・・・・)を頼まれた、彼女と同じ兎獣人で背格好のよく似た女性エージェントが、アデリーナからの成功報酬を元に祝杯を挙げているのだから。
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