0人が本棚に入れています
本棚に追加
多摩川河川敷公園の一画、冬の天気がいい日であれば富士山が見えるほど眺望のいい展望台広場。早朝から藤枝を中心に十人のホームレスが輪を作っていた。
6月。本格的な夏には少し早く、今にも雨が振り出しそうな厚い雲が頭上に広がっている。
藤枝はよっこらせと腰を上げた。ひょうひょうとした細い体から、歳の割には歯切れのいい高声で集まった者たちに指示を出す。
「そうですね。今日は天気があまり良くありませんので。こんな日は傘が良く売れるでしょう……よし、吉村さんと山田さんは若いから傘売りでお願いします」
この世界では十分に若手と言われる五十代のホームレスに藤枝がいうと、吉村と山田は傘が大量に積まれたリアカーの取手を跨いだ。
「天気予報では午後十八時から雨だそうだから、そうですね。国技館前なんかがいいんじゃないでしょうか? 大相撲を見ている間に雨が降って傘が欲しい人がいるだろうし」
藤枝は簡単に候補場所を決めると二人に提案した。
吉村と山田は会釈を返すとリアカーを引いて歩きだした。
中古傘一本五百円――決して安くはない。しかし、急な雨で本当に欲しい者。需要がある者なら五百円くらいであれば案外買っていく事も多い。晴れた日には百円でもいらない傘も雨宿りで困っている人間にとっては五百円でも欲しい。商売なんてものは所詮、需要と供給の関係でしかないと藤枝は考えている。
次に藤枝は年老いたホームレスには別の指示を出す。
「米田さん、大林さん、西原さんは移動式神社でいきましょう。やはり場所は巣鴨あたりが本命でしょうが。本人にお任せします」
三人の老ホームレスは藤枝に深々と頭を下げると、三人は春日造の立派な祠とお賽銭箱を荷台に取り付けた三輪自転車をそれぞれこぎ始めた。
垂れ幕には交通安全、健康長寿、必勝祈願などそれらしいご利益の言葉が並ぶ。藤枝が独自に開発した移動式神社は、街中のあらゆる場所に置いておくだけで賽銭を回収出来る上に、自転車なので家賃も掛からない。とりわけ、信心深い老人が多い巣鴨などで調子がいい日であれば、千円近くの不労所得を得ることもある。傘販売ほどの爆発力はないが、自転車の駐輪と回収のみの簡単で利回りの大きい商売だ。
「あとの方々はじゃがバターと野菜販売ですね。場所は各々に任せます。でわ、頑張ってくださいね」
にっこりと微笑むと藤枝はそれぞれの持ち場に向かう十人の背中を見送った。
多摩川公園の河川敷で、みんなで栽培している農作物は冬にはじゃがバター、夏場は冷やしきゅうりなど、加工してリアカーで売り歩く。また人参や大根などの根菜は量り売りしている。これらの野菜も土地代が掛からない他、毎年の収穫した野菜から苗を作るので元手は掛からない。
藤枝は指示を出すがマージンを取る訳でもなければ、自転車の使用料を取ることもしない。頻繁にお礼にと現金を渡そうとする者がいるが、頑なに断ることにしていた。
口癖は――いいの、いいの。困ったときは助け合いだから。
ホームレスのスタンダードジョブである雑誌拾いや段ボール、アルミ缶の回収、それらにはある程度の知識や経験、時には他者との奪い合いの為に腕力がいることもある。体力がなかったり、新人でどうしていいか分からなかったり、そんな輩に藤枝は無料で仕事を紹介している。
今や多摩川河川敷のホームレス村二百人から絶大なる信頼を得ている。
三年前に刑務所を出所した藤枝がやってきてからというもののホームレス村は少しずつ活気づいてきていた。
「藤枝さん、両替して貰えるかい?」
ふりかえると五人ほどのホームレスが藤枝に話しかけてきた。
「ああ、両替ね。ちょっと待ってくださいね」
藤枝は肌身離さず持ち歩いている金庫から、モルドバ・レイ紙幣を取り出すと次々に日本円と交換していく。
藤枝考案の通称――藤枝通貨。
日本銀行発行券、すなわち日本円を使うと税金を取られる。消費税に限らず贈与には贈与税。自分たちのような弱者はどうしても国のシステムにより搾取される。だから、独自通貨を使って税金の掛からない取引を目的に藤枝通貨は流通した。
もちろん、日本国の法律で独自通貨の発行は禁じられているし、藤枝に偽造不可能な通貨を作る技術もなかった。そこで、思い付いたのが海外のマイナー国家の通貨をそのまま流用することだ。
ヨーロッパの東部ルーマニアとウクライナに挟まれた小さな国モルドバ。そこで発行されているモルドバ・レイ紙幣とバニ硬貨を使った。
1レイ=100バニ、紙幣は10レウ、5レウ、1レイ(レウはレイの複数形)、硬貨は50、25、10、5、1バニがある。
出所後すぐにモルドバに渡り、三万円分のモルドバ・レイをアタッシュケースに詰め、藤枝は日本に持ち帰った。
三年前の交換レートは1レイ=6.5円だったため、モルドバ・レイは累計で4600レイある。これを藤枝はホームレス村で1レイ=100円で換金している。
「これでまた、たらふく酒が飲めるな。いしし」
両替を終えたホームレスは嬉しそうに藤枝通貨を握りしめ、卑しく笑った。
「やはり人間、お酒がなくっちゃね」
藤枝もにっこりと答えた。
もちろん、税金が掛からないという名目だけで新しい通貨が流通することなどはなかっただろう。そこで、藤枝が通貨流通の為に始めたのが酒屋だった。
ホームレスたちにとって食料や飲み物は炊き出し、パン屋やコンビニの廃棄弁当で何とかなるが。酒ばかりは買う他なかった。それでいて嗜みとしてのアルコールは根強い人気がある。
何事に関しても法に触れることを極力避けている藤枝が唯一犯している罪――酒の密造。
藤枝が作った多摩川の陸橋下の酒工場では、日々60リットルの清酒を造っている。
そして、藤枝酒店ではワンカップ一杯を日本円で三百円、藤枝通貨60バニで売っている。つまり藤枝通貨に両替してから買うとワンカップ一杯六十円、コンビニやスーパーとは破格の値段で一杯の酒を買うことができる。
このシステムこそが藤枝通貨普及を大きく躍進させた。
金庫の中に現金をしまうと藤枝は満足げに笑んだ。
このシステムのミソは円からレイへの換金はしているが、レイから円への換金はしていないことである。つまりは藤枝が密造酒でレイを消費させて集めることにより、村の住民たちは外貨(日本円)でレイを買う。両替でどんどんと藤枝の元に現金が貯まっていく寸法である。
「また両替があったら私のところに来てくださいね。あとバッテリー充電は酒屋の方で行っていますので」
藤枝はいかにも親切といった風を装い、自らの食いぶちの種を宣伝しておいた。
「まったく、藤枝さんが来るまではいちいち車のバッテリーを使い捨てていたからね。本当に助かります。また頼みますね」
両替を終えたホームレスが口々に感謝を述べた。藤枝はホームレス村に来る前に大型のガソリン式発電機を持ってきた。そして、バッテリーへの充電を一回2レウで請け負っている。ホームレスたちにとって車のバッテリーから電源をとることにより、テレビやコタツを使うことができるため、重宝されている。
藤枝はホームレス村の電力会社であり、銀行であり、酒利権を牛耳る王である。
藤枝はたんまりと現金を溜め込んだ手提げ金庫に蓋をすると、河川敷の自宅へ歩き始めた。
ワンカップの売り上げは1日約300杯で一万八千円、充電はおおよそバッテリー満タンで一週間持ち、150人がバッテリーを持っているため。月に900円×150人で十三万五千円の収入になる。
月々六十七万五千円から従業員として一日15レウで二人雇っているが、人件費とガソリンや米、麹、水などの諸経費を差し引いても藤枝の元には日本円で毎月五十万円が無課税で入るようになっている。まさにホームレスの王、それでいて誰の反感を買うこともなく。むしろ信頼と感謝を得ている。
「藤枝さん、今日もよろしくお願いします」
「ああ、おはようございます。こちらこそお願いしますよ」
とぼとぼと歩く藤枝に話しかけてきたのは坂本と美濃部だった。二人とも七十歳近い藤枝と同い年のホームレスだ。藤枝は酒工場で麹から清酒を作る作業を坂本に、酒店での販売と発電機のバッテリーへの充電作業を美濃部に任せている。
「しかし、藤枝さんには頭が上がりませんよ。自分の儲けなんて関係なく、毎日、動いてくれているんだから」
美濃部が目を細めると、藤枝は謙遜するようにいやいやと手をひらひらさせた。
「私はみんなが幸せならそれでいいんですよ。ホームレス村でもっともっとお店が増えて活気に溢れるいいなと思ってるんです」
藤枝は柔らかい声で美濃部の肩を叩いた。本物の王は自分が支配者であることにすら気付かせない。それが藤枝のモットーだ。
この地位を安泰なものにする為には何としてでも自分の元へ外貨を運んで貰わなければならない。率先して仕事を斡旋するし、仕事も与える。
「あっ! そう言えば。これ食べて下さい」
「これは何です?」
「廃棄の弁当をいつものコンビニで多めに貰ったのでよかったら藤枝さんにどうかなと思いまして」
美濃部が寄越した袋には今日の朝で賞味期限がきたハンバーグ弁当が入っていた。
「あらら、すいませんね。いいんですか? 私なんかに……」
藤枝が申し訳なさそうにいうと、美濃部は再び頭を垂れてどうぞどうぞと手を添えた。
藤枝は美濃部から貰った廃棄弁当を掲げ、多摩川河川敷に立てた自宅に戻ってきた。
王の宮殿――プレハブ小屋。
この王国で中流階級でもせいぜいブルーシートの家。しかし、藤枝のプレハブ小屋は雨風を凌げる上に、強度も他の家に比べれば天と地である。
ただ、これも名目上は運良く建設業時代の知人が譲ってくれたということになっている。しかし、真実は金にものを言わせて業者から二十万円で購入した。
藤枝はプレハブの奥部、表状は物置となっている扉を開けると、もっとも落ち着ける自分だけの空間に入った。置いている高級ソファにもたれると目を瞑る。ソファにもたれる勢いで先ほどの弁当の入った袋を横のゴミ箱に放り込んだ。さて、今日は何を食べよう。松阪牛のステーキ、伊勢海老はもう食べ飽きたし、あっさりしたものがいいかな。一日の食費は五千円までと決めている。
毎月の出費は食費が十五万円、携帯代が一万円、病院代が一万円、保険料が二千円、家賃が七千円、残りの三十万円は貯蓄に回している。
家賃の七千円は藤枝が健康保険の加入や銀行口座開設などの為に住所が必要になり、埼玉の田舎に借りている格安平屋物件の家賃だ。風呂、便所共同のボロボロで電気もガスも通していないし、郵便物を受け取る為にたまに行くくらいだ。
「藤枝さん! 大変です!」
プレハブ小屋の玄関で坂本の騒ぐ声が聞こえて藤枝は渋々立ち上がった。
「おやおや、どうしました? ちょっと待って下さいね」
外面用の柔らかい口調を意識し、優しい作り笑顔の仮面を被ると外に出た。
坂本は藤枝が絶大なる信頼を置く右腕中の右腕である。信頼を置くといっても本当の意味で信用できるわけではないが、お人好しさ加減、バカさ加減から裏切る度胸もないだろうと踏んで酒工場を任せている。
「藤枝さん! 酒工場を見たいという警察官が来ました」
「何ですって!?」
藤枝の声は狼狽のあまり上ずった。
「それで坂本さん! どうしたんです? まさか見せたんじゃ?」
「いえ、とりあえずボスに聞いてみるって言って、今です」
「それなら良かった」
藤枝は安堵の溜息をついた。とりあえずは万事休すか。警察官も礼状等はないだろう。任意である以上は自分が出向き、きっぱりと断れば済む話だ。それには今から出向いて、窮地を脱しなければならない。
「そういうことでしたら、私がちゃんと言ってきますので待っててください」
坂本にいうと藤枝は駆け足で陸橋下の酒工場へ走り出した。内心、藤枝は焦っていた。その警察官は本当に黙って待っているだろうか? もし、酒工場の中に入ってしまったら……蒸篭かわりのドラム缶に麹、何と言っても出来立ての清酒。いいわけがつかない。刑期を終えてから自分が王になるまでに培ってきたもの。すべてが走馬灯のように藤枝の脳内を駆け巡った。刑務所を出る時に受け取った三年間の労働給料の二十二万円。それを元手に密造酒を作る為のドラム缶や中古発電機、モルドバでの紙幣集め、やっと築きあげて貯め込んだ一千万の貯金。まだまだこれからって時に!? 何て運がないのだ俺は!
陸橋下にたどり着いた藤枝を待ち受けていたのは誰も居ない酒工場だった。その入口に張られた張り紙が、ふと藤枝の目に留まった。
拝啓、藤枝様
あなたは善人の面を被り、皆から利益を吸い上げ、私腹を肥やす悪魔です。この時代、どこの世界にも影の支配者は存在するものですね。しかし、天下の大泥棒石川五右衛門しかり、王の首を取るのは盗賊ではないでしょうか。あなたが人から騙しとり、肥えた私腹はわたしが頂戴します。お人好しを装い、バカを装い、側近となって、やっと回ってきたチャンスを活かすことができて光栄です。
坂本
藤枝は一千万の現金を溜め込んだ金庫をプレハブ小屋に起きっぱなしできたことを思い出した。
そして、同時に手遅れであることに気付いた藤枝はその場にうなだれた。
最初のコメントを投稿しよう!