第2話 赤と紅

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第2話 赤と紅

「ま、大して困ってる訳じゃなし」  糸巻彩葉(いとまき いろは)は声に出し、右手に持った傘をくるくる回した。 「だって、これから困るでしょ。就職したり結婚したりで」  友人の高倉翠(たかくら あきら)は彩葉の傘から飛ばされてきた雪粒を避けながら溜息をつく。 「だから音楽にしたのよ、将来の道。楽譜は白黒で、色とか関係無さげだし」 「そりゃそうかもだけど、看護科じゃ絶対アウトだよ。ま、あたしが治したげるけどね、どうにかして」 「ありがとね、働かない細胞たちだから、なかなか難しいと思うよ」 「何か道はある筈よ。あたしが東京から高名な医者をたらし込んで連れて来るし」 「それって翠のお母さんに頼むってこと?東京の人なんでしょ?こんな寒い雪ばっかの所には来ないと思うけどさ」  彩葉は日本海に面した大きな街に住んでいる。昨年の4月、県立西谷高校音楽科に入学した16歳である。専攻はフルート。物心がついた頃から色の識別ができないと言う大変なハンディを負っているのだが、本人は割と楽観的。どちらかと言えば、中学校からの友人・翠の方が心配している。 翠はこの4年弱、通学や学校生活面で彩葉をサポートして来た。彩葉が無事に学校に通ってこられたのも半分は翠の功績と言っても過言ではない。しかし、昨春、彩葉と同じ西谷高校の看護科に入学して以来、翠には妙なプロ意識が芽生えてきた。翠の将来目標は正看護師。しかしそれまでに付ける知識で何とか彩葉の色覚異常を治したいと思うようになってきたのだ。 「お母さんは二度と東京には行かないとか訳判んないこと言ってるから、あたしが行くのよ。ま、それはどーでもいいけど、今の彩葉の色の3段階活用をさ、せめて7段階にしてさ、それぞれの色のイメージを徹底的に頭に刻み込むの。脳って凄いからさ、そうすると後天的に色彩の区別ができるようになるかもよ」 「翠の言ってること、ぜーんぜん判んない」  彩葉は傘を傾けて空を見上げる。 「あーあ、早く雪止んで、春来ないかなあ」 「あーあ、春の色彩を見せてあげたいよ」 「私は今のままで一向に構わんのだけどねえ」 「ううん、春の色、見せてあげたいよ、チューリップの赤とか黄色とか」 「あー、信号の色と同じなのねえ。変なの」 「よし、じゃ、今から始めよう。色彩感覚獲得ステップ!」 「はい?」 「さっき言ったみたいにさ、彩葉の脳に色のイメージを刷り込んでさ、少なくとも虹の七色を識別できるようにする」 「ううむ」 「今みたいな、白と黒と真ん中じゃ青春を感じることもできないよ!」 「そんなこと…うわっ!」  反論しようとした彩葉は、歩道に積もった雪に足を滑らせ真っ白な息を吐いた。咄嗟に彩葉の腕を取った翠が諭す。 「ね。今、転びそうで危なかったでしょ。こういう時の色はね、ズバリ赤なのよ」 「赤?」 「そ。危険・情熱、そう言ったなんだろ、アツイものの象徴の色なのよ」 「信号の停まれの色でしょ」 「正解!停まれ信号の赤ね。×点描いてる信号もあるけど、普通は色で見分けるのよ」 「それは判ってる。幼稚園でめっちゃ恥ずかしい思いしたから」 「そっか、そう言うの聞くと彩葉、可哀想だったな。赤は危険を表すって言ったじゃん。だから『停まれ』は赤だし、人間も血が出ちゃうと危ないから血の色は赤。よく出来た話だよね」 「私も血は判るよ。黒いけど」 「血ってさ、静脈と動脈があるでしょ。同じ赤でも全然色違うんだよ。実習で見本を見せてもらった。動脈の色って本当にハッとする程、鮮やかな赤なのよ。でも静脈はちょっと黒っぽくて、肺で浄化されてまた鮮やかな赤に戻る」 「ほう」 「だからさ、鮮やかな真っ赤な血が出る時は本当に危ないの」 「ふうん」 「だから区別できるように、鮮やかな赤は(くれない)とも呼ぶの」 「ふうん、(くれない)ねぇ…」  彩葉は唇を尖らせて足元の雪を蹴飛ばした。 「翠先生の赤色講座は以上で終わり!」 「えー、それだけ? じゃ、真っ赤なウソってのは?」 「国語は範囲外だよ。実際に赤い訳じゃないから見えないし。でもそれだけキケンな嘘ってことじゃない?」 「ふうん」 「言葉だとさ、女子を表すのにも紅を使うでしょ。紅一点とか言うじゃん。(あで)やかなって意味もあるんだよ」 「なるほど、艶やかで鮮やかな赤が紅か」 「ほら、何となく脳に刷り込まれたでしょ」 「私は知ってても仕方ないかな」 「またそんな不憫な事言うー」  雪は依然止む気配がない。2月の日本海沿いの街での毎年の風景だ。この風景に真っ赤は似合わないかな。翠は傘を傾けて空を仰いだ。その横顔を彩葉はそっと盗み見る。 「有難う、翠」  翠の肩に散らばった雪を、彩葉は優しく払いのけた。
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