姉の小さな手 3

1/1

0人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

姉の小さな手 3

「よう、岩崎(いわさき)」  肌寒かった背中が、不意に熱を持つ。  振り返らずとも、大学の授業で一緒のグループになっている青木(あおき)が徹の背中にのしかかっていることが分かった。 「おまえ、確かこの前二十になったんだよな」  グループのメンバーのもう一人の男子、植村(うえむら)が、徹の横に居ることを確かめてから、青木の声に頷く。今週のグループワークの課題は、既に提出したはずだ。ちゃらい見かけに反し、この二人は授業にも真面目に出席し、個人レポートに関しても多いと文句をこぼしつつも一人で仕上げてしまう。この二人と同じグループで良かった。それが、徹が大学生活でほっとしている、殆ど唯一の事柄。 「今日、暇か?」  青木の声に、再び頷く。 「だったら、俺たちと合コンにつきあってくれ」  合、コン? 突然の、きらきらとした言葉に、思わず目を瞬かせる。 「急に用事ができたとかで、一人面子が足りないんだ」  青木の言葉を補足する植村の言葉に、徹は小さく首を捻った。今日は、徹が夕食当番。二人に付き合うのであれば、姉の許可が要る。 「ちょっと待って」  背中の青木の重みを感じながら、上着のポケットから携帯端末を取り出す。武骨な指で素早くメッセージを作成すると、止まる指に違和感を覚えながら姉の連絡先を指定した。  すぐに、メッセージが戻ってくる。 「合コン? 良いじゃない」  あくまで明るい文章に、徹の唇は知らず知らず歪んでいた。 「今日は外で食べて帰るわ。合コン、楽しんで」  メッセージの半分で、携帯端末を乱暴にポケットにしまう。  まだのしかかっている背中の重みに向かって、徹は承諾の頷きを返した。  青木と植村に連れられて向かった居酒屋は、禁煙のはずなのにどこか紫煙の匂いが漂っていた。  その、視界がぼける場所にある掘り炬燵風のテーブルに座り、男子二人が次々と発する注文にかくかくと首を縦に振る。初めて口にしたビールは、どこか生温く、そして一息で飲み干せないほど苦かった。テーブルに並ぶ食事も、普段食べるものより塩気が多い。美味しくない。ストレートな感情を隠すために、徹は少しべとつくメニューを手に取った。 「お酒、何か頼むの?」  不意に横で響いた、明るい声に、顔を上げる。先程までは確かに徹の向かいに居た、ほっそりとした頬に柔らかい前髪を垂らした女子が、徹の横で徹が手にするメニューを覗き込んでいた。 「意外にカクテルの種類多いね、この店」  確か、授業では徹たちのグループの隣に座ることが多いグループ所属の女子の一人。名前は、何だったっけ? メニューをなぞる細い指の煌めきを見つめないよう、徹はそっと、メニューからテーブルの方に目を移した。 「ジン・トニックみたいにすっきりしたものの方が良いかなぁ。でも、もう食後って感じもするからカルーア・ミルク頼んじゃおうかなぁ」 「詳しいの?」  それでも、しなやかな女性が発する、小さいが明瞭な知識に好奇心を覚え、思わずそう、口にする。 「何飲んでるか分かった方が楽しいじゃん」  ある意味不躾な徹の問いに、赤い唇が微笑んだ。 「カクテルっていうのは、#基本__ベース__#となるお酒にジュースとかシロップとかを混ぜたものね。この辺り、オレンジ・フィズとかはジンってお酒がベース。ラムやウォッカ、ワインがベースのカクテルもあるのよ。飲む目的や所要時間によってもグラスとか、色々違ってくるし」  ジンは、杜松の実を加えた蒸留酒。ラムは、サトウキビから作られる蒸留酒。姉が良く読む外国文学にしばしば出てくる単語だ。 「カルーア・ミルク、のベースは?」 「カルーア・コーヒー・リキュールっていう、コーヒーの風味にバニラの甘みを加えたリキュールがあるの」  まだ手にしているメニューの上を踊る細い指に、姉の小さな指を重ねる。その指に踊るきらきらとした光は、ネットでたまに目にする『ネイルアート』と呼ばれるものなのだろう。白い部分が見えないほどに短くしている姉の、手と同じように小さな爪は、光らない。それでも、飾り気の無い姉の爪の方が愛おしく思えてしまうのは。 「ねえ、何か飲んでみる?」  不意の声が、耳を叩く。 「あ、うん」  忙しなくなった鼓動を押さえながら、徹は、細く光る指に小さく頷いた。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加