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姉の小さな手 3
「よう、岩崎」
肌寒かった背中が、不意に熱を持つ。
振り返らずとも、大学の授業で一緒のグループになっている青木が徹の背中にのしかかっていることが分かった。
「おまえ、確かこの前二十になったんだよな」
グループのメンバーのもう一人の男子、植村が、徹の横に居ることを確かめてから、青木の声に頷く。今週のグループワークの課題は、既に提出したはずだ。ちゃらい見かけに反し、この二人は授業にも真面目に出席し、個人レポートに関しても多いと文句をこぼしつつも一人で仕上げてしまう。この二人と同じグループで良かった。それが、徹が大学生活でほっとしている、殆ど唯一の事柄。
「今日、暇か?」
青木の声に、再び頷く。
「だったら、俺たちと合コンにつきあってくれ」
合、コン? 突然の、きらきらとした言葉に、思わず目を瞬かせる。
「急に用事ができたとかで、一人面子が足りないんだ」
青木の言葉を補足する植村の言葉に、徹は小さく首を捻った。今日は、徹が夕食当番。二人に付き合うのであれば、姉の許可が要る。
「ちょっと待って」
背中の青木の重みを感じながら、上着のポケットから携帯端末を取り出す。武骨な指で素早くメッセージを作成すると、止まる指に違和感を覚えながら姉の連絡先を指定した。
すぐに、メッセージが戻ってくる。
「合コン? 良いじゃない」
あくまで明るい文章に、徹の唇は知らず知らず歪んでいた。
「今日は外で食べて帰るわ。合コン、楽しんで」
メッセージの半分で、携帯端末を乱暴にポケットにしまう。
まだのしかかっている背中の重みに向かって、徹は承諾の頷きを返した。
青木と植村に連れられて向かった居酒屋は、禁煙のはずなのにどこか紫煙の匂いが漂っていた。
その、視界がぼける場所にある掘り炬燵風のテーブルに座り、男子二人が次々と発する注文にかくかくと首を縦に振る。初めて口にしたビールは、どこか生温く、そして一息で飲み干せないほど苦かった。テーブルに並ぶ食事も、普段食べるものより塩気が多い。美味しくない。ストレートな感情を隠すために、徹は少しべとつくメニューを手に取った。
「お酒、何か頼むの?」
不意に横で響いた、明るい声に、顔を上げる。先程までは確かに徹の向かいに居た、ほっそりとした頬に柔らかい前髪を垂らした女子が、徹の横で徹が手にするメニューを覗き込んでいた。
「意外にカクテルの種類多いね、この店」
確か、授業では徹たちのグループの隣に座ることが多いグループ所属の女子の一人。名前は、何だったっけ? メニューをなぞる細い指の煌めきを見つめないよう、徹はそっと、メニューからテーブルの方に目を移した。
「ジン・トニックみたいにすっきりしたものの方が良いかなぁ。でも、もう食後って感じもするからカルーア・ミルク頼んじゃおうかなぁ」
「詳しいの?」
それでも、しなやかな女性が発する、小さいが明瞭な知識に好奇心を覚え、思わずそう、口にする。
「何飲んでるか分かった方が楽しいじゃん」
ある意味不躾な徹の問いに、赤い唇が微笑んだ。
「カクテルっていうのは、#基本__ベース__#となるお酒にジュースとかシロップとかを混ぜたものね。この辺り、オレンジ・フィズとかはジンってお酒がベース。ラムやウォッカ、ワインがベースのカクテルもあるのよ。飲む目的や所要時間によってもグラスとか、色々違ってくるし」
ジンは、杜松の実を加えた蒸留酒。ラムは、サトウキビから作られる蒸留酒。姉が良く読む外国文学にしばしば出てくる単語だ。
「カルーア・ミルク、のベースは?」
「カルーア・コーヒー・リキュールっていう、コーヒーの風味にバニラの甘みを加えたリキュールがあるの」
まだ手にしているメニューの上を踊る細い指に、姉の小さな指を重ねる。その指に踊るきらきらとした光は、ネットでたまに目にする『ネイルアート』と呼ばれるものなのだろう。白い部分が見えないほどに短くしている姉の、手と同じように小さな爪は、光らない。それでも、飾り気の無い姉の爪の方が愛おしく思えてしまうのは。
「ねえ、何か飲んでみる?」
不意の声が、耳を叩く。
「あ、うん」
忙しなくなった鼓動を押さえながら、徹は、細く光る指に小さく頷いた。
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