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第22話 パンくず床のお漬物、最後の上陸と野戦風海鮮スープカレー
「イオさん、これは何をしてるの?」
司厨手伝いの少女たちが、珍しそうにわたしの手元をのぞき込む。
ぺとぺとのペースト状になったパン粉にきゅうりやにんじんなどの野菜を埋めていく様子は、さぞや奇妙に違いない。
「これはねえ、わたしの故郷の保存食よ。ピクルスもおいしいけど、こうするとお野菜がきれいな色でひと冬保つんだから」
わたしがつくっているのは、ぬか漬けならぬパン粉漬け。
以外にも結構な量になるパンくずは、ひき肉のかさ増しやスープの実にもしている。けれど波しぶきを浴びてふやけるなど、お魚の餌にするしかない部分も多くてもったいないと思っていたのだ。
思いついたのは、パンの耳をぬか床代わりにしてつくるお漬物のレシピだ。
パン耳をビールに浸し、塩で調味して漬け床とし、目についた野菜を埋めておくのだ。
ぬか漬けとはまた異なるさっぱりした風味で、ほんのりビール酵母の香りのするおいしいお漬物ができあがる。
この世界ではビールではなくエールが一般的のようだけど、きっとピクルスとはひと味違った保存食になると思ったのだった。
船団が南へと進むにつれて徐々に気温も高くなってきたから腐敗には注意しなくてはならないけれど、しばらくみずみずしい野菜を保たせることができるだろう。
早い段階でリジュや航海魔導士たちから注意を受けていたとおり、徐々に島影がまばらになってきていた。
予定では次の上陸を最後に、どんなに早くても10日ほどを船上ですごさなくてはならないという。
そして、いよいよもうひとつの巨大都市・帝都へと至る。
ウォルが「新帝都」と言っていたように、かつての帝都は先の戦で放棄され、新たな都が別の場所に築かれたのだという。
王自らが返礼のために赴くのも、そういった復興への祝賀の意味も込められているのだ。
久しぶりに目にした大きな島がこの往路での最後の寄港地で、沖に碇泊した船団から無数のボートが降ろされていく。
きれいな入り江には弓なりに白い砂州が広がっており、ここをラストにしばらく陸地とはお別れしなくてはならない。
船には当直のクルーを残し、わたしたちは島へと上陸した。
ここでキャンプを張って食事をとり、生鮮食料や真水などを補給して帝都までのラストスパートをかけるのだという。
あちこちでまたたく間に天幕が設営され、司厨のスタッフみんなが手際よくかまどを組んで特設の野外キッチンができていく。
と、ひときわ大きめのボートからウォルや市之丞らが降りてくるのが見えた。
彼らの姿を目にするのも、なんだかすごく久しぶりな気がする。
そうこうしているうちにリジュと瑠依ちゃんも駆け寄ってきて、大げさなようだけど「再会」の文字が脳裏をよぎってちょっと涙が出そうになった。
すると王付きの侍従も一緒にやってきて、丁寧な様子でわたしに尋ねてきた。
「失礼、魔女どの。王よりの御下問です。夕食に"カレー"を用意して頂くことはできますか?」
「カレー……もちろんできますが、王選のときのレシピ通りでしたら全員分には足りないかもしれません」
「たとえば多少薄めてでもよいので、皆にあの料理の風味を味わってもらいたいとの仰せでございまして……」
薄める、と聞いてわたしには期するところがあった。
「では薄味になるとは思いますが、リクエストにお応えします」と元気よく回答して、わたしは皆と別れて野営のキッチンに立った。
カレーの基本は先日の王選御前試合と同様だ。
けれど今回は、浜や磯で捕れたばかりの豊富な貝類があった。
わたしはこれらに砂抜きの下ごしらえをほどこして、ルーとスープの準備を始めた。
他の作業は司厨さんたちもすでにマスターしており、実に手際よく調理が進んでいく。
煮込みに入って一段落したとき、ふと遠くを見やると市之丞や護衛の騎士らが居並ぶ前で、ウォルが剣術の稽古をしている姿が目に入った。
あれは市之丞の流派の技だろうか、木刀らしきものをまっすぐに振り下ろすウォル。
その動作は、市之丞が最初に基本の手ほどきをした時とは見違えるほど速く力強くなっている。
船の上やこれまでのわずかな上陸時間でも、きっと訓練を続けていたのだ。
わたしの素人目にも剣士としての風格が備わったように感じられ、何やら胸が熱くなってしまう。
ひとしきりウォルの一人稽古を見守った市之丞は、今度は自身が木刀を手にして広場に立った。
それに相対したのは、長い金髪をなびかせた女性の護衛官だ。
彼女はフェンシングで使うような細身のサーベルを胸の前で構え、市之丞と試合形式の稽古を始めた。
それは王選で市之丞が決勝で敗れた女騎士で、"菫のレイゼンノール"と名乗る人だった。
市之丞は自身の流派にはない彼女の技におおいに思うところがあり、あのようにしばしば手合わせを願っているのだと出航前にも言っていたのだ。
目の前でいい匂いをさせている大鍋に向き直り、わたしはアクをすくっては何度目かの味見を試した。
たっぷりの貝からとれたエキスを加えたので、旨味はばっちりだ。
シーフード風味のカレースープといったところか。
でも、やや物足りない感じがするのはやはり仕方がないかもしれない。
そう思い切ろうとしたとき、横からぬっと伸びてきた手がおたまを掴んだ。
「へえ。いいダシ出てるじゃねえか。けどちいっともの足りねえな」
カレーをすすってそう言ったのは、市之丞と同門対決を繰り広げた旧陸軍の軍人、勇作だった。
たしか輜重兵中尉を名乗っていたので、補給部隊のエキスパートなのだろう。
「伊緒、っつったな。嬢ちゃん。これ使ってみねえか」
そう言って油紙のようなものを開くと、そこには茶色い粉末があった。
すすめられておそるおそる味見してみると、なんとしたことか懐かしいお醤油の味がするではないか。
「帝国陸軍の大発明、粉醤油だぜ」
勇作が差し出してくれたのは、戦闘糧食の一種の粉末状醤油だった。
「でも……。貴重な、大切なものなのでしょう」
「ははっ。俺一人で後生大事に抱えてても仕方ねえや。お嬢さん方に喜んでもらえりゃあ、こいつも本望だろうよ」
「ありがとう、中尉さん。きっとこの料理にすごく合うわ。これはわたしの故郷で生まれた、"スープカレー"といいます」
「スープカレー、か。野戦にうってつけかもな」
受け取った粉醤油をカレーに加えるわたしに勇作はそう言って笑うと、ふいに遠くを見るような目をして呟いた。
「負けたんだろ。日本」
何と答えるべきか言い淀んだけれど、彼はそれを手で制すようにしてもう一度笑った。
「いや、わかってる。勝てるわけがねえよ。でもな、嬢ちゃんたちは俺らのずっと後の世から来たんだろ。おめえたちがいるってこたあ、それで十分だ」
そこまで言うと勇作は少し俯いて、
「この妙な世界に飛ばされたもんは、一番大事なものを忘れちまうそうじゃねえか。だが、俺は、国のことを忘れちゃいねえ。俺の一番大事なもんって、なんだったんだろうな」
絞り出すようにそう呟くと、スープカレーをひとさじすくって味見をした。
「うめえや」
勇作は破顔し、わたしの頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「ダンナ、早く見つかるといいな」
おどけたように軽く敬礼すると、何か古そうな曲の鼻唄を歌いながら、ウォルや市之丞たちがいる方へと歩んでいくのだった。
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