57人が本棚に入れています
本棚に追加
第3話 謎のフードの男と凶漢のトラブル、そして炊きたてご飯の焼き鮭定食
この世界の、この街の人たちはみんな朝も夜も早い。
わたしが元いた世界の日本でもかつてはそうだったのだろうけれど、夜ふかしせずに日の出前には起き出して働くのが普通のようだ。
傭兵酒場「白夜」に集まる人たちもそうなので、正確な時間はわからないけどお店はおそらく午後5時くらいからオープンして、9時頃には仕舞いにしていると思う。
この街は比較的北方に位置しているようで、今は秋が深まりつつある時期だという。
北国育ちのわたしにとっても朝夕は肌寒く、2重の窓を設えた故郷の暖かい家をついつい思い出してしまう。
冷涼な地方ではあるけれど、ありがたいことに街中には天然の温泉がいくつか湧き出していた。
公衆浴場が何軒もあり、白夜での仕事終わりにひと風呂浴びるのが、いまのわたしには何よりの楽しみだ。
夜の一人歩きは危険なので、いつもリジュと連れ立って出かける。
大判のショールを頭からすっぽりかぶって、なるべく明るい通りを選んで歩く。
時おり酔客がちょっかいを出してくることがあるけど、リジュがエルフだとわかると皆おとなしく引き下がった。
浴場はなんというか、イメージの中の銭湯にそっくりで、ノスタルジックな雰囲気に安心してしまう。
夜分の女湯にはわたしたちのような飲食関係の従事者が多いみたいで、来店した客の噂話がにぎやかに飛び交うのが常だ。
リジュに連れられて初めてこの浴場に来たとき、わたしはあっという間に先客の女性たちに囲まれてしまった。
「なんてきれいな髪なの!」
「みない顔ね。東の方の人?」
「ねえねえ、お名前は?」
わたしのような黒髪・黒瞳の人種はとても珍しいようで、この街の人たちの懐っこい気風も相まって質問攻めにあったのだった。
でも異世界に飛ばされて混乱していた心に、遠慮のない好奇と厚意の目はむしろありがたかった。
リジュが代わりにわたしの身の上を説明してくれ、記憶の一部を亡くして夫と従姉を探している、異世界からのマレビトだということはすぐに周知された。
それ以来、浴場ではもちろん、昼間に市場などで出会うと彼女らは何くれとなく世話を焼いてくれるのだった。
「イオ、髪流してあげるわ」
ふと我に返ると、リジュが手桶にお湯を汲んで待ち構えていてくれた。
「ありがとう。じゃあ流しっこね」
これもすっかりいつものやり取りになって、リジュが流してくれるお湯の温かさにゆるゆると身を委ねる。
「ほんとうにきれいな黒髪……。旦那さんもきっと、イオの髪を忘れはしないわ。
ね、こないだの騎士様から聞いた"黒髪の剣士"。うちの店にも来るかもしれないね」
手入れが大変だけど、別れたときの姿をなるべく変えないほうがいいという勧めに従って髪はロングのままだ。
わたしは夫の記憶の大部分を封じられているけど、もし再会できたら彼はわたしを覚えているだろうか。
今はただ、黒髪の剣士と呼ばれる人が、何かの手がかりをもたらしてくれることを祈るばかりだ。
翌日の「白夜」オープンから間もなくのこと。
「イオ、この食材を使ったことある?」
リジュが困惑したような顔でキッチンに現れ、布袋を差し出した。
「さっき来たお客さんの持ち込みなんだけど……。
"固めに炊く"か、できなければ多めの水で"カユ"にしてほしいって……。
意味わかる?」
袋のなかを覗いてみて、わたしは思わず声をあげそうになった。
お米だ。
それも、ちゃんと精米した白米。
2~3合ほどあるだろうか。
慌てて布仕切りの隙間から、そのお客さんの様子を確かめてみる。
こちらに背を向けた席で、しかも深くフードをかぶっているのでどんな人かわからない。
でもお米を炊いてほしいというオーダーなんて、この辺りの人でないのは明白だ。
本当はすぐにでも確かめに行きたいけれど、絶対に客の詮索をしないのが傭兵酒場の掟だ。
「これ、おコメだわ。わたしの国では主食にする大事な穀物なの。炊くという調理法もポピュラーだし、カユはこっちでいうポリッジのことね。
だから、もしかしたらあのお客さんは……」
「ええ!たいへん!
わかった、イオ。じゃあわたし、あの人のことすっごく見とく!
とりあえずその"オコメ"は調理できるって、返事しに行ってくる!」
そう言ってすっ飛んでいったリジュは、また飛んで戻ってきておコメは全部炊いていいこと、時間はいくらかかっても待つという返事をもらってきてくれた。
やはりフードで顔はよくわからなかったけれど、わたしと同年代くらいの若い男性に見えるとのことだ。
今日は傭兵たちの斡旋業が休息日なこともあり、客足はまばらだ。
そのためお店はリジュに任せて、マスターは酒場ギルドの会合に出席して不在だ。でもこの調子なら切り盛りは大丈夫だろう。
先ほどのフードのお客さんはお酒を注文しなかったので、とりあえず湯冷ましの水と常備のスープや串焼きでしのいでもらっている。
でもまさか、異世界で白いご飯を炊くことになるなんて……。
おコメはひと粒もこぼさぬよう、丁寧に研いだ。
そのまま飲める水は貴重だけど、十分に使ってしっかりと。
白く濁る研ぎ汁がとても懐かしく、目頭が熱くなってしまう。
直火でご飯を炊いた経験は、林間学校の飯ごう炊さんくらいなものだ。
それを思い出しながら、鉄鍋に洗米を移して水を張っていく。
おコメの縁から人差し指の第一関節よりやや上くらいまで。
本当は30分くらい置いて水を吸わせるといいのだけど、気が急いてしまって早めに火にかけた。
まずは強火で加熱して、沸騰から5分で火から下ろして10分蒸らす。
今度は弱めの中火で5分加熱し、やはり鍋を下ろして10分蒸らす。
時間はすべてカンだ。
「はじめチョロチョロ、なかパッパ」
の意味はやっぱりわからないけど、「赤子泣いてもフタ取るな」は重たい鉄蓋のおかげて守れそうだ。
加熱と蒸らしの合間に、今朝の市場で仕入れた鮭の塩漬けを取り出す。
そのままだとしょっぱすぎるので、塩水に漬けてほどよく塩気を抜いておく。
炭火で炙るとご飯の炊ける甘い匂いと絡み合って、異世界の酒場が一気に「日本の食卓」の風情を醸し出した。
常備菜のピクルスを切って小皿に盛り、味噌汁というわけにいかないのが残念だけど作りおきのスープをマグによそう。
十分に蒸らした、そう信じて鉄鍋のフタを取るとノスタルジー全開のご飯の湯気が立ち上り、危うく泣きそうになってしまう。
ぷつぷつと音を立てて輝くご飯をさっくりかき混ぜ、芯が残っていないかほんのひとつまみを味見してみる。
ああ……おいしい……!
わたしは今度こそ、ちょっぴり涙が出た。
ともあれ、早くお客さんにお出ししなくては。
実はご飯を蒸らしている頃から、フードのお客さんがソワソワしだしたのに気付いていたのだ。
彼にとっても、それほど郷愁に満ちた香りなのに違いない。
「リジュ、お願い!」
待ってましたとばかりにリジュが料理を受け取り、颯爽とホールに運んでいく。
「お待ちどおさま!」
その瞬間、フードの人が声にならない声を上げた。
あとはもう、夢中でかきこむ後姿が見えるだけだった。
食べるのに一応フォークを添えておいたのだけど、どうやら自前の"お箸"を使っているような雰囲気だ。
これはもう、確実にわたしの世界とも関わりのある人物なのでは……そう確信して、戻ってきたリジュと視線を交わし頷きあった。
が、その時。
ホールから物がひっくり返るけたたましい音と、怒号が鳴り響いた。
わたしは突然のことに仰天したけど、リジュはさすが傭兵酒場のウエイトレスなだけあり、落ち着いていた。
「喧嘩かな。イオはここにいて。絶対に出てきちゃだめよ」
リジュはそう言って長柄箒を握りしめ、ホールに出ていった。
わたしはというと突然のことにびっくりして怖くって、恥ずかしいことにすっかり足がすくんでしまった。
ようやく布仕切りの隙間から様子を覗くと、テーブルがひっくり返されていて、大柄な強面の男が抜身のサーベルのようなものをフードの人に突きつけているのが見えた。
ほかのお客さんたちも立ち上がり、それとなくリジュを庇うようにして成りゆきを見守っている。
そういえば店内で乱闘にならない限り、軽々には仲裁しないのが彼らの流儀だと聞いた気がする。
「探したぜェ!"黒髪"ぃッ!!」
怒髪天を衝くという言葉がぴったりなほど猛り狂った男は、獣のようにそう吠えた。
一方フードの人はというと散らばったご飯に目を落とし、ワナワナと身体を震わせて絞るような声を出した。
「お……おのれ……なんと……なんと、もったいないことを……」
この一言が火に油を注ぎ、凶漢の目にさらなる憎悪が燃え上がった。
「表に出やがれ、黒髪!誰も手出しするんじゃねえッッ!!」
ドスのきいた声でそう叫ぶと、フードの人を引っ立てるようにして外に出ていった。
最悪の事態を止める意味もあるのだろう、お客さんの傭兵たちが手元に自分の武器を引き寄せ、ともに店外についていく。
リジュまでも行ってしまったので、わたしは震えるひざに力を込めて、がくがくしながら彼女の後を追うのだった。
最初のコメントを投稿しよう!