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その日の仕事も順調に進んだ。
朝、家を出るまでは、一日ベッドで寝ていたい気持ちでいたが、来てよかったと思う。
魔導士団の若者達は皆熱心に訓練に取り組み、真剣にアデールに指導を請う。
どんなに深刻な問題がプライベートで起こっていても、このひと時だけは何もかも忘れて全力で彼らに向き合おうと思えるのだ。
昼休憩の時や、王城内を移動する時、またフィリアに会うのではないかと警戒したが、この日は平和に勤務を終えた。
「アデール様、クロード団長が帰りに部屋に寄るようにとのことです」
先ほどまでクロードに月次の業務報告をしていた兵士が、アデールへ伝言を持ち帰ってきた。
何となくまだ気まずさが残っていたが、今朝の帰りしなに彼に一言も言わず自宅へ戻ってしまったのだ。やはり礼と謝罪はしなければならないだろう。
少しの緊張と共に執務室をノックをして入室すると、普段と全く変わらぬ様子のクロードが書類を眺めているところだった。
「あぁ、アデール。帰り際に呼んでしまって済まない。あの後の君の様子が気になっていたから」
「クロード、今朝はごめんなさい。私がここで寝ていた間、あなたどこかで時間を潰しててくれたのよね? 部屋を追い出すようなことをしてしまって……」
目の前のクロードは疲れた様子もなくいつも通りに見えたが、ただ一つだけ違ったのが前髪だった。
普段の彼は長めの前髪をバックに撫で付けるようにしているのが、今日は洗いざらしのまま自然におろしていた。前髪をおろしていると思いのほか少年のように見えて、アデールの目には新鮮に映った。
アデールの視線の先に気付いたか、クロードは苦笑する。
「……そもそも仕事が立て込んでいたから、昨日はここに泊まり込むつもりだった。整髪料はここには買い置きしていないからな。気にするな。……エリクとはあのあと会話したのか?」
「いいえ、私が眠ってしまったこともあってほとんど……。ぎくしゃくしたまま日を越してしまって、正直今後彼とどう接したらいいか分からないの。……仮に今回のことを許したとしても、以前と同じように彼と暮らせる自信はないわ」
「アデール。これは君たち夫婦の問題だから俺は何も手助けしてやれない。だけど、君は自由だ。選択肢はいくつもある。エリクを許して夫婦として生きることもできるし、別れて別の人生を歩むこともできる。……その時は、俺を選んでほしい」
クロードは立ち上がると、切なげな表情をして、立ちすくんでいるアデールを今度から正面からきつく抱きしめた。
「クロード……!」
「卑怯なのは分かっている。だが、悪いが俺にとってはまたとないチャンスだ。5年前から今まで、俺は君がエリクを見つめ続けるのをただ遠くで見ているしかなかった。どんなに君を大事に思おうと、君はいつだって見ないフリをしてきただろう……?」
クロードは、いつもの堂々とした振舞いとは打って変わり、自信のなさそうな声で小さくアデールに問いかける。
アデールはその腕を振りほどくこともできず、クロードの体の熱をその全身で受け止めていた。
確かに、クロードの気持ちには5年前に気付いていた。
彼とは良き仲間でありたかったから、それを見なかったことにもした。
しかし今、クロードがまだそんな気持ちでいてくれたことに、アデールは確かに喜びを感じてしまっている。
エリクの愛が信じられなくなり、彼女の存在意義が透けるほど薄くなってしまった中で、クロードの力強い告白に確かに小さな喜びが芽生えたのだ。
自分を抱きとめるこの大きな腕をどうしよう――そう考えていた時、背後から静かに声がかかった。
「クロード、アデールは俺の妻だ。軽々しく触れるな」
殺気を放つ唸るような声に、弾かれるように振り向けば、そこには苦し気に顔を歪めたエリクがいた。
「エリク!? どうして……」
エリクはアデールの言葉を無視してクロードに詰め寄る。
「分かっているのか。これが一般の兵士だったら切り捨てられてもおかしくないんだぞ」
エリクは鼻先が触れそうなほどクロードとの距離を詰める。
一方、そんなエリクをクロードは涼しい顔をして見つめ返す。
2人は共に長身だが、クロードの方がやや上背があり、それがエリクを見下しているように見える。
エリクはそんな彼の様子にますますいら立っているようだ。
勤務時なので、今はエリクも帯剣している。本当に抜刀してもおかしくない。
「俺の不適切な行動は謝るよ、エリク。君の奥方に対して失礼なことをした。但し、お前にそんなことを言う権利もないようだがな」
「貴様!!」
「エリク、お願いやめて!」
エリクがクロードの胸ぐらを掴んだところでアデールは駆け寄った。
「アデール、君こそどういうつもりだ? 仕事復帰をしたいと言ったのはやはりこういう理由だったのか? 俺のことを君は糾弾できるのか?」
クロードを睨み続けたまま、エリクはアデールに辛辣な言葉を浴びせる。
「はっ……何を言ってるの? あなたと一緒にしないで!! 私にはやましいことなんてない! 自分の問題を棚に上げてよく言うわね!」
エリクがキッとアデールを睨みつける。
そんな恨みの込もった目で彼から見られたのは初めてだ。
固まるアデールにエリクは乱暴に手を引く。
「君と話をしようと思って迎えに来たんだ。帰るぞ」
「えっ!?」
「クロード、お前とはまた後日決着をつける」
エリクは吐き捨てるようにそう言うと、アデールを引きずるように部屋から出た。
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