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茜色の夕日に染まる廊下をタケルは急ぎ足で教室に向かっていた。もちろん、夕暮れ時に登校などではない。忘れ物の弁当箱を取りにきたのだ。
しいんと静まりかえった校舎の廊下で、タケルの上履きがエナメル質の床に摩擦してきゅっきゅと鳴る音だけが妙に響いていた。気味が悪いものだ。急がなければ、秋の日は短い。ますます、暗くなってしまう。窓の外の景色に嘆息を漏らすとさらに歩を急がせた。
「くそっ! 何で忘れてしまったんだ! というか、何で思い出したんだ!」
タケルは一人ごちた。いっそ忘れたままであればよかったのに……いや、むしろ思い出したことを今この場で忘れたいくらいだ。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った教室は誰かに見られているような不気味さがある。
5年2組の教室にたどり着くと教室の扉を開け、中央付近の自分の机までやってきた。
あった、あった。タケルは一息つくと机横のホックに引っ掻けたままの弁当巾着を手に取った。次の瞬間、何かに引き付けられるように目線を横の席に移した。
あるモノが視線に飛び込んできた。強靭な魔力と魅惑の賛美を装飾したあるモノ……正に化け物。
タケルの肢体は痺れ、足が震えた。
あるモノ――――ソプラノリコーダー。
ただの笛ではない。タケルの隣の席に座るクラスのマドンナ七瀬真美の笛。クラスの大半の男子が憧れを抱く女生徒、真美。容姿端麗、才色兼備、眉目秀麗、どんな賛美の四字熟語でも足りない。神の最高傑作だとさえタケルは思っている。未だに思いを伝えるどころか普通の会話さえままならないタケルにとって、真美の唇が何度となく触れたであろうタテ笛が目の前にある。
タケルはリコーダーを手に取り、自分の唇に無意識に運ぼうとして、手を止めた。
ボクは何をしているのだ。これは真美への裏切り行為ではないか?
心の葛藤――約30秒。結論に辿り着いた。
そもそもこれを舐めたところで真美は気付かないだろう。マイナスはない。それなのに、ボクは最高の幸せを手にいれることができる。ノーリスク・ハイリターンじゃないか。やらない道理がない。
タケルは欲望に任せて、少しの罪悪を抑え込んだ。
真美のリコーダーに口を付けた。
ひゅるるる、ぴぃ~……
情けない笛の音が放課後の教室にこだました。
「すごいや! これがマミちゃんの毎日吹いているタテ笛か!」
至福のとき、快感と充実感がタケルの心を満たしていく。まるで聖母に抱かれるような温かさに身を悶えた。
そこで、タケルは誰かがこちらの教室に向かってくる足音に気付いた。
やばい、誰か来る。隠れなくては。焦ったタケルの頭には隠れることしか思い浮かばなかった。教室後方にある掃除ロッカーが目に入った。急いでロッカーの扉を空けると、迷いなく忍び込んだ。
掃除ロッカーの扉には通気用の細長い穴が空いていて、そこからタケルは教室を眺めた。一体誰がこんな時間に用があるのだ。自分のことは棚に上げ次に来る人物を待ち受けた。
誰かが教室の扉を空けて入ってきた。
入ってきた人物はクラスメイトのマコトだった。マコトはしきりに辺りをきょろきょろと見回している。マコトの机は教室の扉すぐのところなのに、それには目もくれず、教室中央までやってきた。
「マミちゃあああんっ!」
マコトはまたたく間に真美のタテ笛を手に取ると舐め始めた。躊躇なく舐めたところを見ると、誘惑についついしてしまった犯行ではなく、明らかに計画的犯行だとタケルは確信した。まさか、自分が掃除ロッカーに隠れているなどとは知るはずもない。マコトはタテ笛を口に付けたまま、しばし目を瞑り静止している。
「ああ! すごいや! まだ温かいや! まるでさっきまで誰かが舐めていたみたいだ!」
マコトが漏らした独り言にタケルは呟いた。マコト、すまない。温かくて当たり前だ。さっきまでボクが舐めてたんだから。
「やばい! 誰か来る!」
また誰かが来る気配を察知したマコトは足早にタケルがいる清掃ロッカーに向かってきた。
タケルは抵抗する術もなく扉を開けられた。
「あれ、タケちゃん!」
「おお、マコちゃん!」
「こんなところで何しているの?」
気まずい沈黙……。
タケルは頭をフル回転させ言い訳を考えた。とにかく何か言わなければ……
「今日は掃除当番だったからさ。で、教室はいつもみんなが掃除しているだろ? どこも汚れた場所がないけど。ボクはみんなが毎日使うのに掃除しない場所を見つけたのさ、それがこの掃除ロッカーって訳。まさに灯台もと暗しってヤツだな。まあ、疲れて寝ちゃっていた訳だけれども」
苦しい、苦しすぎる。こんな言い訳が通用する訳がない。
しかし、堂々とついた嘘は真実。ここは突き通そう。貫き通そう。タケルは心に灯った弱気の火を一吹きにかき消した。そして、猜疑心を宿した瞳で見つめるマコトを真っ直ぐ見据えた。
「なるほど。さすがタケちゃん! 目のつけどころが違うな。あっ、そういえば、ちょっと入れてもらっていいかな? 誰か来るから」
「ああ、もちろんだ。入れよ」
タケルは強引な嘘が通ってしまったことに虚を付かれながらもマコトを掃除ロッカーに招き入れた。今度は二人で通気穴から外を覗いた。
「なあ、タケちゃん。さっきもこうやってボクの行動を見ていたのか?」
「ん? 何のこと? ボクはさっき言った通り寝ていた訳だから。何も見てないよ」
「なら良かった。気にしないでくれ」
安堵の表情を浮かべるマコトにタケルもまた安堵した。誰もいないが、二人がいる教室に入ってきたのは早乙女だった。早乙女京介、東洋人離れした堀の深いルックスに高身長にクールなナイスガイ、まさに全女子生徒の憧れの的――スーパーイケメン小学生。各クラスのマドンナすべての告白を断ったという噂は嘘か真か、あながち嘘だと言い切れないところが彼という存在だ。タケルとマコトは通気穴から早乙女の様子を伺った。
「なあ、あいつがこんな放課後に何の用だろう?」
「知らないよ。忘れ物じゃないのか?」
マコトの質問にタケルはぶっきらぼうに答えた。早乙女は全女子生徒の憧れなら、同時に全男子生徒の妬みの的である。
忘れ物なら自分の机に来るはずだが、早乙女は自分の席をスルーし、真美の机までやってきた。
「まさか、こいつも……」
タケルとマコトの声が揃った。
しかし、早乙女の手が延びたのは真美の隣の机だった。
「タケちゃあああん!?」
こいつ、ゲイだ! タケルとマコトは叫びそうになる口をお互いに手で抑えた。早乙女のまさかの思い人はタケルだった。マコトは意地の悪そうな双眸をタケルに向けた。
「よかったな、タケちゃん!」
「良いわけがないだろ!」
タケルは反射的に突っ込んだ。隠れていなければ声を張り上げていただろう。必死に声のトーンを抑えた。
「あれ、誰か来る! やばい」
ああ、何ということだろう。早乙女がまたしても新しい訪問者の気配に反応し、二人が隠れる掃除ロッカーに向かってきた。これにはマコトも必死の攻防を見せる。二人が力を合わせ中から必死に扉を引っ張った。
「何だ、これ固いな。あれ?」ゲイ早乙女の扉を引く力はますます強くなる。ついに扉が開かれ、タケルとマコトは早乙女の前に転がり出た。しかし、その瞬間四人目の訪問者が教室の扉を開けた。三人は同時にそちらを見た。
三人の声が重なった。
「「「マ、マミちゃん……」」」
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