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その2
会社から「再検査をしないなら解雇する」と脅されて、俺は渋々、糖尿病の検査を受けに行くことになった。
最近の会社はろくに金を払っていない従業員の健康にまで、うるさく言って来て、ありがた迷惑も甚だしい。死にたい奴が勝手に死んでなにが悪いんだ。
検査と言っても、その日に結果が出るわけじゃないらしく、尿をとったらあっけなく終わってしまった。
「こんな事のためにワザワザ来たのか」と心で呆れたが、まぁ仕事を一日休めたから得した気分だ。
病院を出たら最近開発が進んだ住宅街から伸びる街路樹が生い茂っており、いい天気で帰りのバスに揺られていると気持ち良くなって来た。俺は降りる駅を通り過ぎて、少し先の公園にまで足を伸ばしてみる事にした。
俺の会社の中と同じ時間が流れているとは思えないくらいに、平日の昼間の公園はゆっくりと時が流れていた。同僚のタバコの煙みたいな小声の噂話も聞こえ来ない。たまに何の鳥か知らない鳴き声が定期的に聞こえて来て、ベンチにボーッと座っているだけで心地よかった。
金を使わずに、いい気分転換ができた。たまには病院もいいもんだ。
「さて、と」
昼を過ぎて腹が減って来たので、駅まで戻りながら飯屋でも探そうと立ち上がった。
すると、隣に座っていた男と動きがシンクロして、思わずそっちに目が行った。
「えっ」
思わず声が出てしまった。
向こうも俺を見て、同じように驚いた顔をし、こっちを見て硬直している。何やら、俺とおんなじことを考えてそうな表情をしていて、余計に不気味に思えた。
俺のような四十代の、安い服を着たオッサン……いや、俺だ。
心臓の鼓動がどんどん大きくなっていく。
その男から目をそらし、俺は逃げるように公園を後にした。
まるで鏡がそこにある様だった。お互い帽子を被っていて、完全に顔が見えたわけではないのに、細胞が反応した様に「自分がいる」と瞬時に全身の鳥肌が立ったのだ。
そんな事ある筈がない。俺がもう一人いるなんて。ただ、その男の姿を見てから、帰りの電車の中、その男の事しか考えられなくなっていた。
昔にトッペルゲンガーというのは聞いたことがある。
この世には自分とそっくりな男が三人いる。その三人は決して出会うことはなくこの世を生きている、もう一人の自分。
そして、その男と出会ってしまうと死んでしまう。
「ガキみたいな事言ってんじゃねぇよ」と鼻で笑い、自分に言い聞かせて、アパートまでの道を歩き出した。
「まさか」
その時、俺の脳裏にオカルトよりは現実的な、非現実的な可能性が浮かんだ。
「アイツは、俺のクローンか?」
が、すぐに首を振った。
確かに遺伝子からクローンをつくる事は可能になった。でも、何でワザワザこんなしがない派遣社員のクローンをつくる必要がある。
業界大手で最安値を謳っているウチの会社でも、確か人間一人のクローンを作るのには宇宙に行くのと同じくらいの値段が必要だった筈だ。
実際はそんなに掛からないが、倫理上の観点とか言って、かなりのボッタクリ価格に設定されている。
そんな大金で派遣社員の糖尿病予備軍のおっさんのクローンを作って何の意味がある。
「尾上篤さん、ですか?」
「は?」
ヤスリで研磨された様な、エリートが仕事の時に使う声で後ろから呼ばれ、思わず立ち止まり振り返った。
カツカツと小気味のいいリズムで革靴の音が近づいて来る。俺の月給よりも高そうな、いいスーツを着てやがる。髪は短く、縁のないメガネにインテリぶりが出ている。
弁護士か?
こんなエリート風を吹かした奴が俺に何の様だ?
「お手紙が読んでいただけましたか?」
その一言で、ハッと思い出した。あれから今日で十日が経っていたのか。
「ブラック人間……」
俺が呟くと、スーツ野郎はラブレターを読んでもらった様な無邪気な笑みを浮かべた。
「これから、お宅に伺ってもよろしいでしょうか? 少し、込み入ったお話があるんです」
湯呑みが俺の分しかないんだが……まぁ、いいか。
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