その3

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その3

 自販機で買ったコーヒーを缶のまま出しても、スーツの男はニコニコと飲んでいた。どうやら俺は、このエリートにとって部下では無く、お客様の立場の人間らしい。 「で、なんだ、この手紙?」  俺は十日前にポストに入っていた手紙をテーブルの上に置いた。 「ワザワザ保管していただいていたなんて、ありがとうございます」  男はそう言ってメガネを外し、ポケットから出したハンカチでレンズを拭き出した。  その時、俺は「しまった」と思った。  手紙を出しただけで、スーツの野郎の緊張が緩んだってことは、俺の欲を見抜いたって事だ。 ──人生を変える──  この一言がどうしても頭から離れなかった。こんな手紙を大事にとっておいたなんて、内心がバレバレだ。  スーツの男は、俺の心をすでに手玉にしたのを確信したように、見すぼらしい部屋をグルッと見渡した。 「それでは返事を聞かせていただきましょうか」  「もう勝負はついてますけど」と言いたげな余裕の口調だ。をテーブルの上に置いただけで、俺とスーツ野郎の立場は一転してしまった。 「その前に一つ、聞きたい事がある」 「ブラック人間の事でしょうか」  もう、俺の心を全て掌握しているように、話がポンポンと次へ進んでいく。 「俺は他の人間と何が違う?」 「何も違いません。至って普通の人間。そして、糖尿病の気が少しある、安い金で雇われているエンジニアというだけです」 「それなら『ブラック人間』なんて辺鄙なモンではないんじゃ」 「いえ」  スーツの男は姿勢を正した。 「あなたは『ブラック人間』です。これから真実をお話してもいいですが……知ってしまったら、私のお願いを聞いていただく事になりますが、よろしいでしょうか?」  俺は一瞬、躊躇したが冷静に部屋を見渡したら、これ以下になる人生なんてホームレスくらいしか想像できなかった。  というかスーツの男は、ネクタイを緩め、すでに話を始める体勢に入っていた。インテリさんは流石というしかない。俺よりも早く、俺の心をわかってやがる。 「二十年前にアナタが働いている系列会社で大きな赤字が出たことはご存知ですよね?」 「ああ、遺伝子事業で、あの無能社長が暴走してやらかしたんだろ?」 「その時に会社は莫大な赤字を被りました。そして、当時の社長は、個人でも莫大な借金を背負う事になり、倒産、自己破産の危機に陥りました」  末端の俺の話のはずが、突然スーツ野郎は頂点の社長の話を始めた。足が痛いってのに頭を調べられてる様な気分だ。 「社長は今、関係ねぇだろ。俺の話だ」 「いえ、大切なのは当時の社長の話です」  当時の?  さっきからこの男が使っているこの言葉が引っかかる。その二十年前から社長は確か変わっていないハズだ。 「倒産間近になりましたが、国からしては今後、マーケットが確実に見込める分野の大手企業を潰したくはありませんでした。そこで、当時の社長は、政府から資金を援助してもらいある一計を案じました。それはある種、賭けではありましたが……」 「賭けだと?」  何が賭けなものか。  それから、俺ら末端社員が身を粉にして働いて傾いていた会社を世界的な企業にまで押し上げたんじゃねぇか。  その当時、学生のクソガキだったであろう、コイツに何が解るんだ。  俺たちは当時、その現場で死ぬ思いで働いていたんだ。    俺は心のイライラを我慢しながら、コイツに話を続けさせた。 「社長には経営の才能はありませんでしたが、遺伝子操作の技術、プログラミングの能力は超一流でした。もともと、そういう技術畑から実績を残して社長にまでなった方でしたから」 「それは知ってるよ。確かにエンジニアとしては優秀なやつだったとは思うよ」 「そこで社長は閃いたのです。『自分のクローンを千人作り、そのクローンを働かせ自分の借金を払わせる』というアイデアを」  は?  脳裏に公園で見た、もう一人の俺がフラッシュバックして来た。 「尾上さん、アナタが派遣社員なのには理由があります。アナタの半分の給料は社長の借金返済に当てられているからです」  なんだと…… 「アナタの給料は本来なら、今の倍の額です。が、系列会社ではアナタ、『ブラック人間』は半額の給料で雇え、もう半額は本社の社長の個人的な借金返済に当てられるんです」
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