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「お金がないんだ、僕」
それが昔から変わらぬ彼の決まり文句だった。と言っても彼は特別貧乏というわけでも、また特別物を欲しがる性格という訳でもない。むしろ長い付き合いの俺でさえ、彼が物を買っている様子を見たことはなかった。だから教師も友人たちも、彼の回りの誰もが不思議そうな顔をした。どうしてそんなことを?と。けれども彼は必ず曖昧に笑うだけで答えないのだった。そうしているうちにわざわざ訊く者は一人減り二人減り、いつしか彼はそんな人間なのだと皆が納得するようになって。気づけばとうとう俺しか尋ねる物好きもいなくなっていた。
「久しぶり」
彼が振り向いた。久しぶり、と同じように返ってくる。実は着替えていた間のほんの十分ぶりなのだが。彼も冗談と分かっているからかそこは突っ込まない。お互いの顔を見合わせくつくつと笑った。箸が転がっても可笑しい年頃とはよく言ったものだ。夕焼け空、桜の木の下、部活帰り。少女漫画なら間違いなくロマンチックな展開が起こりそうなシチュエーションだが残念、現実はそうも甘くない。男二人並んで座る。最近やっと春めいてきた風が頬をかすめた。新学年の始まりを告げる風だ。また彼と同じクラスになったことを思い出すとうれしいような、くすぐったいような。なんだかえも言われぬ心地よさが胸をよぎって、素直に口にするには気恥ずかしいそれを半ば笑い飛ばすように俺は軽口をたたいた。
「しかし悲しい現実だよなあ、両方彼女がいないまま三年生突入だぜ?引退の方が先に来ちゃうかもしれないなんてさ」
せっかくモテるために入ったバスケ部もこのざまだよ、なんて。
「好きな子でもいるの?」
はにかみながら彼が問うた。いたらとっくにお前に教えてるよ、と苦笑いする。すると不思議なことに彼はキョトンとしてみせた。なぜそんな顔をするのかが分からなくて、やっぱり俺もキョトンとする。揃って豆鉄砲を食らった間抜け面の鳩が二匹。俺は困惑した。
「え?いやいや、言わないわけないだろ。幼馴染みで、万年クラスメイトで、チームメイトで部長と副部長だよな?というかそれ以前に……そもそも親友だろ?」
普通ーーいやこんなに盛り沢山な関係はそうあるものではないとも思うがーー言うだろう、そりゃあ。何せ実質家族みたいなものだ。うちに彼がお泊まりに来る回数だって昔から相当のものである。多分月に二十日ではまだ足りない。そうでない日だって彼は必ず俺の家に遊びに来て、随分遅い時間になってようやっと帰って行くような生活だ。風呂も食事も毎日一緒。子供部屋だって実質二人の部屋だ。生まれてこの方十七年間、下手をすれば親以上の時間を共に過ごしてきた人間である。いっそ双子のようなものだと言ったっておかしくはない。喜びも、悲しみも、どころか憎しみや羨望のようなとても大きな声では言えないようなものさえ含め今更俺が彼に開示していない内面などありはしなかった。強いて言うならば『そういう』本の隠し場所くらいなものである。どうかベットの下だけは覗かないでくれ、切実に。
「うん……そっか、親友、ね。うん、親友」
彼はまだ今ひとつ納得のいっていなさそうな顔ながらにそう言って頷いた。
「知らなかった、僕って親友だったんだ」
何を今更。俺は眉をひそめた。さして仲良くもないのに親友呼ばわりしたなら確かに迷惑だろうが、この場合は間違いなく俺の言い分の方が全うであるはずだ。
「もう、そんな顔しないでよ。意外だっただけだよ。普通の友達……というか、嫌われていると思ってたんだもん」
「嫌う?誰が?誰を?」
「……さすが理系男」
失礼な。いくら国語の歴代最高点が十五点だからってこの文脈なら意味くらい分かるっての。ちょっとむすっとした声音で正す。
「そうじゃなくて、何で俺が嫌ってるなんてとんでもない誤解が生じるんだよって聞いたんだよ。心外です」
長い付き合いだ、俺が若干へそを曲げたのが分かったらしく彼はごめんごめん、なんて笑って見せた。
「残念、許しません。うら若き少年の幼気な心は傷つきました。心ない言葉のナイフによってです」
巫山戯た言葉に彼は盛大に吹き出した。そしてこらえながらにそっぽ向いた俺の肩を突っつく。
「駄目なの?」
「駄目なの。因みに慰謝料はアイスとなります」
「え、アイスで傷が治るの?」
「ただ今アイスの万能薬キャンペーン中でございます」
「買った!」
もう駄目、我慢できない。とうとう俺たちは揃っておなかを抱えて呵々大笑した。なんだこの茶番。やっている本人たちさえそう思うようなくだらないやり取り。綺麗に言えば青春の一ページ、ぶっちゃけて言ってしまえばダチ同士の全く身にならない戯れだ。きっと当人たち以外に価値を見いだす物好きなんていない。観客も脚本もない、それでも役者たちはこんなにも幸せで仕方がないのだ。
「ねえ行こうよ、早くしなくちゃキャンペーンが終わっちゃう!」
一足先に立ち上がった彼が手を差し伸べ軽やかに笑う。桜の下、金に輝く夕日を背にした彼はあんまりまぶしくて。その手を取りながら俺はいたずらっぽく言った。
「そうそう、言い忘れましたがこちら、なんとあと五分きりのキャンペーンでございます」
「走らなきゃ間に合わないよ!」
「だからいつものコンビニまで競走な。因みに私に負けた場合即座に終了せていただきますのでどうぞ悪しからず」
「えええ!」
「はいスタート!」
俺と彼、一目散に走り出す。今日配布されたばかりの教科書たちももったまま、よりによってもおろしたての制服で、まだ真っ白なスニーカーで!
「はい僕の勝ち!」
彼の声が真っ赤な世界に反響した。二つの荒い吐息。二人で競走したのは数知れず、されど白星は未だ一つもない。今度こそはといくら思っても悲しいかな、これが現実だ。重い鞄ごとアスファルトに体重を投げ俺は悔しさに吠えた。
「くっそ、毎度毎度これだ!」
「ふふ、そりゃあね。僕ったらこれだけが取り柄だもの」
汗を拭いながら彼が俺をのぞき込む。そう、彼は本当に走るのが得意なのだ。それこそ、体育の授業風景を見た顧問が陸上部に入らないかと勧誘をするくらいには。聞くところによると俺と同じクラブに入るからと断ったらしい。勿体ないことだ。
「ねえ、勝ったから今日は僕がアイスのお金を出してもいい?」
……なぜだろう。彼が泣きそうな、そんな予感がした。
「いやいや、いいよ。いつも通り俺が買うからさ、半分食べてくれれば」
昔は自分で買った分は一人で食べていた。でもうだるような暑い日でさえ彼は頑として何も買わないで、ただただ俺の横でニコニコしているだけだった。だからここでお決まりのやりとりが始まる。買わないの?お金がないんだ、僕。何でそんなこと言うんだよ?うんとね、秘密。仕方がないからいつしか俺が何か買うときは必ず半分彼に渡すのが慣例になっていた。合言葉は『一人じゃ食べ切れないから半分食べて』。いくらなんでも何も食べない友人の横で一人だけむしゃむしゃとできるほど図太くはない。しかもその相手がひどく寂しそうで、しかも分け与えてやろうとするとひどくうれしそうな顔をするとあっては尚更だ。いつのまにか俺が買い食いをする理由の七割近くは彼のそんな顔を見るためになっていた。
「でも、今日は僕が奢りたいんだ。今までの恩返しって言うにはあんまりお粗末だけど」
それなのに今日の彼はやけに食い下がる。俺はそのらしからぬ様に首をかしげるばかりだ。
「いやいや、金欠の奴に奢らせるのは悪いからいいよ。必死にバイト代やお小遣いを貯めた金だろ?」
答えを貰ったことなどないが、お金ということは何かほしいのではないのか。どんなに頑張ったかを知っている身としてはむしろそちらを応援してやりたい気持ちの方が強いのだが。そう伝えると、彼はどこか晴れがましげに笑った。
「ああ……そのことなんだけどね。昨日入ったバイトでやっと目標額が貯まったんだ。その祝杯だからさ」
付き合ってよ。そう楽しそうにいわれてしまうとどうにも断れない。はいはい、と仕方なしに頷く。コンビニの軽快な音楽が俺たちの来店を歌った。アイスコーナーは入り口のすぐだ。今の季節にはまだ些か不似合いなその一角を揃ってのぞき込む。小学生から圧倒的人気を誇るようなチープな商品から高校生ではなかなか手の出ない少し高級感のある物までその種類は実に多種多様だ。俺は巫山戯てその中から一番高価な物を指さす。
「奢ってくれるんだっけか。どうせなら高いものかな?」
「いいよ、お金はあるから」
え、と。思わず顔を上げた俺、顔色一つ変えない彼。本気で言ってる?
「ついこの前までお金がなかったんだろ?」
確認してみても、もうあるから、ってそれっきり。なんだか訊くのが怖くなって、おそるおそる訪ねる。
「……いくらだったんだ?目標額」
「六百万円」
「六百万!?」
驚いたなんてもんじゃない。収入と言ったってうちの親からのお年玉、小遣い、手伝いへの駄賃、あとはバイト代くらいの物だ。確かに物は買わないくせにやたら仕事熱心だったが、それにしたって尋常でない額だと言って差し支えないだろう。少なくとも高校生がそうそう持っている値段じゃない。
「何に使うんだよそんなに……」
「秘密。……今に分かるよ」
度肝を抜かして半ば呆然となっている俺をよそに事も無げな彼は冗談で指さした件のアイスをさっさとレジへと連れ去ってしまう。それは、俺が初めて彼が『お金を払う』という行為をしているのを見た瞬間だった。
「あ、お、おい!」
ハッとしたときにはもう会計を終えたものが手の中にあった。冷たいそれがやけに重い。
「食べて」
困惑に染まる俺と穏やかな彼。まるで正反対だ。彼は繰り返した。食べて、と。俺にはその半分を割ってよこすのが精一杯だった。だってそうだろう、六百万円貯めようとするなんて生半可な覚悟ではない。このアイスは彼のその思いのいくらかでできているのだ。どの面下げて一人でのうのうと口にできるだろう。
「どうしたの?君の分だよ?もう僕に半分取られることなんてないんだ、我慢せずに食べていいんだよ?」
「……したことなんてないよ、我慢なんて」
ついでに言うなら取られたと思ったことだってない。そう言ったって彼は腑に落ちないようで、溶けるよ?なんて尚も食べるよう促してくる。長年の経験則だ、こうなった彼は本当に扱いづらい。まず意見を曲げると言うことをしない。つまるところどういうことか?俺も最終兵器を出さざるを得ないと言うことだ。仕方がない。
「あっちむいてほい!」
人間の習性のような物だ。とっさにこれをされるとついつい指を目で追ってしまう。はい俺の勝ち。チョロいもんだ。
「と、言うわけで勝者の命令は絶対な。ほら半分」
「ええ!またそういう手を使う!」
「そこの敗者、うるさい」
半分をカップの蓋に乗せ持たせる。間違えてだろうがスプーンを二つくれた店員には実に感謝だ。もう決まったこととばかり食べながらすたこら帰路を行く。同じく彼も経験則でこうなった俺が意見を曲げないことを知っているからだろう、渋々ながらついてきた。それでよしそれでよし。
「お礼がしたかったのに……」
「いや、十分だよ」
こんな高価な物、自腹では買ったこともない。
「第一親友だろ?お礼とかそんな物、いちいち気にしなくていいよ」
そもそも、半ば以上俺の押しつけだ。
「ねえ」
ふと、彼が立ち止まった。
「本気で言ってるの?」
「え?」
振り返っても彼がうつむいているせいでその表情は見えない。
「どうしたんだよ?」
「気を遣わなくていいんだよ。本気じゃないでしょう?僕は君の本心が聞きたいんだ。言ってよ。君から僕はあんなに多くを奪ってきたのに!」
奪う?何のことだかちっとも分からない。駆け寄ったらその分後ろずさられた。それは、俺が初めて彼から示された拒絶反応。彼は続ける。
「もしも僕さえいなければ、お気に入りのおもちゃは君一人きりの物だった」
そりゃあ、ヒーロー役を二回に一回しかできなかった不満はある。
でも怪獣役がいなければヒーローごっこもただのお人形劇だ。それに怪獣に扮して奇妙な声で叫ぶのだって今思えばまんざらじゃなかった。下手をすればそっちの方が満喫していたくらいだ。その勢いで近くを通りがかった母さんの足に噛みついて怒られたのは今でも忘れられない。
「もし僕がいなければ、君はお菓子だって好きなだけ食べられただろ」
確かに与えられるお菓子すべてが半分こさせられたのには不満を持ったこともある。でも美味しい!と一緒に声を上げた楽しさは格別だったのだって事実だ。あれはたくさん食べたからってそれだけで得られる感覚じゃない。まあ、どっちの方が大きいとくだらないことでけんかした数は両手両足二人分使ったってまだちっとも足りやしないが。
「もし僕がいなければ、僕におじさんやおばさんが使ってくれたお金は全部君のために使えただろ」
そりゃあ、特別豪遊させてもらえたわけではないが。父さんも母さんも特に何不自由させることなく育ててくれた。ゲームも勝ってくれたし小遣いだってくれた。正直、あれ以上もらったら子供としてまともな金銭感覚が失われること請け合いだ。それに、そもそもあの親父は子供が一人になったからって倍も金を出してくれるほど子供に甘いたちではないだろう。
彼「それに、何よりね。もし僕がいなければ、君はお父さんやお母さんからの愛情を独り占めできただろ」
そりゃあ、兄弟がいるようなものだ、甘えたくても順番待ちだったときだってある。でもその不満より二人で遊んだ幸せの方がずっと大きかった。それにうちの父親はあれで未だに息子と勝負するのが趣味な人だ。二人がかりでやっと相手できるのだから一人ではさぞかし張り合いにかけるに違いない。母さんだって彼がいた方が家事を命じられる頭数が増えてありがたいと以前言っていた。もちろん、すっぽかして逃げ出す悪知恵も二匹分になるのだが。
俺は彼に駆け寄って、有無を言わせるよりよっぽど早くその胸に飛び込んだ。
別の言い方をすれば、飛びかかっとっつかまえた。アイスが落ちたって今は気にしている場合ではない。だって彼の血を吐くような吐露に対してどうしても言いたいことがあったから。遠くで言っては絶対に伝わらない自信があった。
至近距離、互いの心音を聞きながらつぶやく。
「なあ、なんでお前そんなこと気にしてるの?」
俺は彼が奪ったというものの何倍もいいものを彼から貰っているのに。
「そんなことって……普通はできることじゃないと思うよ。僕は感謝してるんだ、おじさんにもおばさんにも……誰よりも君に。血縁でも何でもない子供を本当の家族みたいに預かってくれて、そのせいで不都合もたくさん発生しただろうに……いやな顔一つもせずにこんなによくしてくれて。おとなしく言うことを聞くこともできない、かわいげもない、おまけにお金だって満足に稼げない……僕は何の役にも立てないのに」
「ちなみにそれ以上俺の親友のことを悪く言ったら殴ります」
端的な宣言に彼がちょっと笑ったのが分かった。身を離す。
「今、笑ったな?」
「笑ってない!」
嘘だ、嘘じゃない。言い合えばシリアスな空気なんてほら、どこかに溶けて消えていく。これでいいのだ。俺たちの間にそんな深刻な空気なんていらない。こうしてずっと馬鹿をやっていられたらそれだけでいい。何なら他なんて何もいらない。望むらくはこの先十何年も、何十年も。お互いが親の年齢になっても。
「明日の練習メニューって何だろうな?」
「楽な物だといいのにね」
「あのハゲ厳しいからなあ」
「コーチにそういうこと言わないの!」
普通だった。おどけた会話の帰り道、家族四人の夕飯、ベッドの中にあったもう一つの体温。
それなのに。
ふと目を覚ましたのは朝九時のことだった。俺はぎょっとして飛び起きる。何を隠そう、実に見事な遅刻だ。一時間前に朝の練習は始まっていた。慌てて隣にいる彼を叩いた、のだが。
「あれ?」
そこはすでに無人の空間で。布団の温度から彼がここを起ったのはもうずいぶんと前のことであるのが知れた。置いて行かれた?まさか、彼に限って?疑問符を浮かべながらも起き上がりユニフォーに着替えた。何せ時間がない。ハゲの怒り狂った様がたやすく脳裏に浮かぶ。ランニング十週追加は絶対に免れないだろう。なんとか言い訳して切り抜けられないだろうか?なんて不埒なことを考えながら鞄を手にした。そこで気がつく。まずい、筆記用具を忘れた。運動部の活動とはいえ、練習メニューを打ち合わせするときや指示をメモするときにあれでなかなか必需の品なのだ。昨日彼と合宿について話したときに勉強机に出してそれっきりだったらしい。すぐさま手に取った。そして、気がつく。
「メモ帳?」
ここにあること自体は別におかしなことではない。同じく部活用のそれは、確かに昨日机上に広げた記憶がある。ただずぼらな俺はそれに付箋なんてついぞ貼ったこともない。それなのに、なぜ?考えられるとしたらあれでまめなところのある彼だ。何か合宿の指示だろうか。そう思って何気なく付箋のページを開けたら。
『まさとへ
今までありがとう。六百万円、机の中に入れてあります。三百万は鉄道会社の賠償金に、二百万は葬儀代に、あとの百万はおじさんやおばさんと旅行か何かに使ってください。高校最後の一年、彼女ができるといいね。応援しています』
読むのに十秒もかからないような簡素な文章。ぬれて乾いた跡でぐちゃぐちゃなそれを最後まで読み切ったと同時、母さんが電話片手に部屋に駆け込んでくる音が……どこか遠くに、聞こえた。
土曜日の朝――彼は電車に食い殺されたんだとさ。
飛び降り自殺だ。俺の片割れは、自分で、望んで、死んだ。
そこからはただただ実感なんてなくて、なんだか安っぽい映画を見ているような気分でさえあった。母さんから聞いた話だ。もともと近所に住んでいた彼は父親に虐待を受けていて、我が子を助けもしないくせに私も被害者よと喚く女に泣きつかれたうちの両親が彼を保護するようになったらしい。役所は証拠がありませんの一点張りで助けにならなかったから。けれどもどれだけ両親がもう大丈夫だよと教えても彼はずっと申し訳なさそうな顔をして俺を見るだけだったという。そして頻繁に言ったそうだ。家に帰してください、と。僕はここの子にはなれません、と。しかしそうは言ったって虐待を受けている子供をおいそれと帰すわけにも行かない。それでも諦めない彼との折衷案が、たまに彼の家にに帰る日だったそうだ。まだ七歳かそこらの子供が、どれほどの覚悟を持ってそんなことを言ったのだろう。どんな思いでお金を集めることを思い立ち、また実際に集めて見せたのだろう。どんな心境で『お金がないんです、僕』と繰り返したのだろう。そしてーーその横で、どんなにのんきに俺は笑っていたんだろう。一人だけ何も知らずに、それなのに何でも分かっているような顔をして、のうのうと。もっと中止していれば嗚呼、昨日止めることだってできたかも知れないのに!
ーーそれが、俺の人生で一番の後悔だった。だから。
「おいまさと!入社式始まるぞ!」
大学でできた有人が俺を呼ぶ。俺は空を見上げた。そこに、なんとなくだけど、彼がいるような気がするから。根拠はない。強いて言うなら長年の経験則だ。
「信じられるか? 今日から俺もお役人だぜ?しかも市役所!」
願わくば、一人でも多くの被虐待児を見つけて保護してやれるような、そんな役人に。だから。
「見とけよ、相棒!」
空中をビシッと指さして。俺は不敵に微笑んだ。
「……君、本当は見えてるんじゃないの?」
宙を漂う彼がそう呟いたことも知らずに。
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