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安らぎの場所。
私、里田美恵は、美容室『AYA』に来た。
ヘアーサロン『AYA』は、幼なじみでもある同級生の鳴沢綾が、地元で営む2席だけの小さな美容室である。
室内は、グリーンを基調とした温かみのあるカントリー調で、所々に季節の花や小さな絵が飾られている。
ここでは、何十年ぶりかに同級生や近所のおばちゃんに遭遇したり、また時には、訃報などの情報も、ここで得ることもある。
そして、余談ではあるが、大人の恋バナも忘れてはいない。
私の実家は、『AYA』から徒歩5分くらいのところにあり、兄が一人で住んでいる。私の父親は8年前に亡くなり、母親は認知症で施設に入っている。隣町の母親の面会に行くことはあっても、兄とは疎遠がちで、実家への足は遠のいていた。ここは、唯一、過去の記憶と繋がれる場所なのである。
高校卒業まで、この町で生まれ育った18年、また離婚後の9年間、娘たちと暮らした町でもある。どの町で暮らした日々よりも、私にとっては、代えがたい貴重な時間だった。
ここでは、遠い記憶の中にある景色の中を漂いながら、懐古する場所でもある。人は懐かしさだけで涙し、心穏やかになれるのである。
そして、何より、綾は私の波瀾万丈な人生を、一番よく知る友人でもある。
「こんにちはぁ。お願いしまーす。」
先客か、小学生らしい男の子が私が入って来たのにも気づかず、ソファでスマホの画面に集中していた。
「いらっしゃい。」
綾は、張りのある声と、いつもの笑顔で、椅子をクルッと回し、迎えてくれた。
私と同じ離婚歴があり、華奢な身体で娘2人を育て上げ、自分の店を持ったのである。大したものである、と常々思っている。これを綾に言うと、こんな田舎だし、自分は大したことはない、美恵の方が頑張ってるじゃないと、お互いを労う合戦が始まり、これが、私たちにとっては、心の栄養になっているのである。
「あの子は終わったの?」
「うん、おばあちゃんがお迎えに来るから、待ってんのよ。」
「新学期だからね。最近、誰の子とか、全然分かんないわ。」
「あの子は、ほら、神社の近くに斉藤明っていたでしょ。そのお孫さんよ。3年生だったかな。」
「お孫さん?斉藤さんて2年ぐらい先輩だったけ。だから、57歳か。へぇ、もうお孫さんいるんだ。そっか、自分たちも、そんな歳なんだね。」
と、ドアベルが鳴った。
「綾ちゃん、遅くなって、ごめ~ん。あら、ヒロ君、スッキリしたじゃない。良かったね。良い感じ。」
「ねぇ、ねぇ、ばあちゃん、今度の水曜日、スーパームーンだって。」
「なんだい、そのスーパームーンって。」
「ばあちゃん、知らないの?いつもの満月より、もっとおっきな、月が見えるんだよ。」
「そうなのかい。満月のことなのかい。なんだかね、横文字なんて、情緒も何もないね。ヒロ君、この歌知ってる?う~さぎ、う~さぎ~何見て跳ねる~十五夜お月さん、見ては~ね~る。」
祖母は、財布から代金を綾に手渡しながら、楽しそうに口ずさんだ。
「知ってるけど、ウサギなんているわけ無いやん。」
「嫌だね、夢も何も無い世の中になったのかね。月を愛でるなんて日本人らしい心は、若い子たちには無いんだろうね。なんだか、寂しいねぇ。」
微笑ましい祖母と孫の会話を、私は、複雑な気持ちで聞いていた。
ふと、目の前の鏡に映るヒロ君の姿が視界に入った。祖母の上着の裾を引っ張りながら、私の方を、じっと見つめていた。
鏡越しに、手を振って見せるが、男の子は祖母の陰に隠れて足早に出て行ってしまった。
あら、嫌われちゃったかしら…。
「美恵、珈琲淹れるね。」
いつもとは違うタイミングだが、二人が帰ったあと、綾は、そう切り出した。
「あぁ、ありがと。ごめんね。」
「いいのよ、砂糖、ミルク要るんだよね。」
そう言うと、綾は、お土産でもらったというクッキーを添えて、芳しい薫りを漂わせながら珈琲を運んできた。
「ありがと。やっぱり、ここは落ち着くね。」
「そう、良かった。3ヶ月ぶりくらい?白髪けっこう出てきたねぇ。でも大丈夫?なんかやつれたように見えるけど。」
鏡越しの綾の声。
私は、そんな気遣いが嬉しかった。
「ちょっと痩せたわ。何にもやる気が起きなくてね。仕事にも影響出てきたから。迷惑かけてしまって。3ヶ月の診断書出て、今、その3ヶ月目。綾に言おうとも思ったんだけどね、なんかね、自分の中が整理つかなくて大変だったのよ。」
「そうだったんだ。そうか、美恵は頑張りすぎなんだよ。あれから、ずっと忙しい感じだったし。」
私は、中規模の病院で看護師をしている。中間管理職を任され、多々の仕事を兼務していた。綾には、度々、そのハードさを話しており、私の一方的な話も、しっかりと聞いてくれた。
「そうかもしれない。5年前も、上司に促されたのもあるけど、仕事をしてると紛れるからって、あれから、ほとんど休まないで突っ走ってきたからね。だから、エネルギー切れかも。元々、不安定な足場で踏ん張ってたところに、上から圧され、下から突かれてたもんだから、大した支えも無かったし、一つ崩れたら、すべてが総崩れしたみたいになちゃってね。真っ暗な日本海溝の海の底まで転げ落ちた気分ね。自分では大丈夫、なんとかやれるって思ってたんだけど。こんなに脆かったなんて思わなかったわ。ずっと心のどっかに、香里の事があったからかもね…。
あ、でも、さっきはありがと。もう、5年経つけど、やっぱり思い出してしまうわ。お月さんは全然悪くないんだけどね。でもなぁ、やっぱり月はねぇ…。」
こんな私の話を、何でも聞いてくれる綾がいたから、頑張って来れたのかもしれない。
「しかたがないよ。急だったし。私も、いつも、ここで香里ちゃんの髪やらせてもらってたし、5年前にも、成人式の頭と着付けしたの、忘れられないもの。」
私は、成人式の晴れ姿と同時に、あの壮絶な記憶が蘇っていた。
その記憶は、常に出番を狙っているかのように、隙あらば、私の中に入り込んでくるのである。
それは、避けることができないほど強引だった。
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