残酷な記憶のリピート。

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残酷な記憶のリピート。

「美恵、大丈夫?」   「え、あ、ごめん。」    ちょっとした隙間に入り込むあの悪夢のようなあの光景が、時折、勝手に頭の中で  記憶の再生を始めてしまう。     「ね、そうだ、私が娘の彼氏のことで悩んでた事あったでしょ。その時ね、ここに行ってみたらって、友達から教えてもらったのよ。なんでも、悩み事を解決してくれるらしいの。私は、そこまでの悩みじゃなかったし。良かったら、行ってみたら?」    私は、綾から渡されたメモを見た。   「へえ、浜辺の唄かあ、素敵な名前ね。民宿?」   「うん、夫婦でやってるんだけど、民宿の敷地内に居酒屋もやってるんだって。    料理はおいしかったし、そこの大将が、なんか不思議な人だったとか、なんとか。」   「ありがとう、そうね、ゆっくりできることも、もうないかもしれないし、行ってみようかな。」    渡されたメモを見ながら、また再生が始まりそうな私を見透かすように、綾の声が引き戻してくれた。   「ねえ、美恵、今月まだ休みなんでしょ。そしたらさ、絵を描いて欲しいんだけど。小さいのでいいから、あの花の絵、レジ横の絵が評判良くて。お願いできる?」   「良いよ。どこに飾るの?」   「この鏡の横に飾ろうと思って。」   「分かった。今月中でいいかな。」   「急がないから、描ける時でいいよ。」    綾が気を遣ってくれたのが嬉しかった。      本当に手のかかる友人だな、私は…。        帰りの車の中、頭の中で、また再生が始まっていた。      警察署の狭い待合室の中。    香里を待ってると、あの刑事が入ってきた。     「佐藤です。」    佐藤刑事は、一礼をし、向かい合うソファに座った。   「香里さんのご遺体は間もなく到着します。解剖の結果、急性膵炎だったそうです。」   「は?急性膵炎…ですか。」    思いもよらない病名に、それ以上の言葉が出なかった。    佐藤刑事は続けた。   「他の臓器は、きれいだったそうです。薬剤による中毒もなく、ピンポイントで、膵臓だけが出血と壊死を起こしていたそうです。」    あの時とは違い、丁寧な口調だった。   「そうですか…。急性膵炎…って。何が何だかわかりません。」    アルコールなんて、そんなに飲んでないし、他に何が?    いくら記憶をたどっても、思い当たることがなかった。     「死因が分かったけど。自殺ではなかったけど。何でなのよ。」    私は、顔を覆った。    両手の中で、堪えてた涙が一気にあふれ出た。   「若い人の突然死は、たまにあることですが、お辛いですね。」    佐藤刑事は、私と美保に、そう言葉をかけ、テッシュと一緒に『ご遺族の方へ』というパンフレットを差し出した。    病死が判明し、犯罪性はなかったということでなのか、佐藤刑事は、あの時とは真逆の印象を見せた。    刑事とはそういうものなのか、ガタイの大きさ、いかつい顔貌と威圧的な物言いで、あの時は犯罪者扱いともとれる態度に嫌悪感を覚えたが、今のこの腰の低さはなんだ。かえって、あの時の嫌悪感を増幅させ、腹立たしささえ感じる。      テッシュを数枚、手に取り、涙を拭き、鼻をかみ、泣きはらした目で、テーブルの上のパンフレットを見た。    息を深く吸った。    ご遺族…。    否応なく残酷な現実を突きつけてくる三文字。      パンフレットには、医師による死亡診断書(死体検案書)の受領、役所への死亡届の事などが書かれていた。        佐藤刑事が部屋を出たあと、私は泣き続けた。    この日の、あらゆる感情の制御が壊れたかのように、泣き続けた。    涙が枯れるなんて誰が言ったのか。      泣いても泣いても、涙は出てくる。    そんな私の隣で、美保は、泣くこともなく、ただ私を見ていた。    それから30分ほど、待ったであろうか。    香里が到着したと、女性職員が伝えてくれた。    依頼し待機していた葬儀社が、寝台車に乗せるため今から処置を施すので、もうしばらく待っててほしいとのことであった。    と同時に、その職員から、一枚の紙を受け取った。    薄いハトロン紙が何であるかは、私の仕事柄、死亡診断書であることが、すぐわかった。    しかし、死亡診断書いう文字には二重線が引かれ、その用紙が、その横に括弧書きで併記してある死体検案書であることを示していた。    死亡診断書でさえ他人事。死体検案書なんて、法医学ドラマのような現実世界とはかけ離れた言葉が、衝撃的に自分事となって、突き刺さってきた。    すでに書かれていた領収書と引き換えに、文書代として35000円を支払った。    こんな事態でも、事務的な淡々とした行動をとっている自分。    もっと、取り乱して、もっと悲痛な思いを出すことが正解なのでは。    この冷静は、なんか、罪悪感…だと思った。    人って、どんなに酷い状況でも、冷静な部分を持ち合わせているもの。そうでないと壊れてしまうのだという。    いつだったか、そんな記事を何かで読んだことがあった。それが、今なのか。    そう思うことで、私は、この冷静さを罪悪感とする事から逃れていたのかもしれない。    このあと、香里が1歳から10歳まで過ごした、私の実家に連れていくことにしていた。    寝台車の手配や、必要箇所への連絡。    私が感情を抑えつつ、すべき事をこなしていることも、その記事の内容を裏付けしていた。      私は、葬儀社の出発準備が整うのを待つ間、死体検案書に目を通した。   『直接死因 急性膵炎。死亡時間 午前4時頃。    発病から死亡までの期間 約1時間。    膵重量68gで全体が浮腫状、壊死、及び出血を有していた。肺重量、左296g 右342gでうっ血及び浮腫を認めた。』    と記載があった。    すべての文字が、信じたくない内容の羅列であった。    何より、娘の身体が切り刻まれたことを意味していることになる。    胸が張り裂けそうだった。    読み進めるうち堪え切れす、私の感情は冷静さを打ち消し、部屋の外にも聞こえるくらいの声で、号泣した。              そんな頭の中の映像と連動した涙は、運転中の視界を塞いでしまった。    コンビニの駐車場の端に車を停め、気持ちを静めた。    こんなことが度々あるのである。    酷な光景をリピート再生してしまう。    5年も経ったのに。    いや、まだ…5年なのかも知れない。
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