316人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ
第10話:「恋人」という言葉の意味
つい先日、菜園に木製の長椅子が置かれた。
冬馬曰く、畑手入れの際の休憩用にあった方がいいだろうとのことだが、たまにこうして二人で菜園を眺めたりする時にも使っている。
「翔流、もう少しくっつけ」
「何だよ、オレは暖代わりか?」
「違う。……翔流が言ったんだろう、お前の前なら弱虫になってもいいと」
それは以前、菜園で翔流が言った言葉だった。外で強くいなきゃいけないなら、自分の前では弱虫でいろと。それを実行するということは、今、冬馬は甘えたいということ。やっと理解した翔流は目の前の男の願いどおり、首に腕を絡めて身体を密着させた
「これでいい?」
「ああ」
冬馬は小さく頷きながら翔流の背を抱く力を強め、頬を擦り寄せてくる。
頭にかかる可愛らしい重みに、自然と口元が緩んだ。
「――――翔流が草隠から出ていったら、寂しくなるな」
顔を翔流の肩に埋めたまま、冬馬がこちらまで寂しさが伝わって来る声で呟く。
もしも彼の言葉が本気なら、これほど嬉しい言葉はない。だが指南書を読んでから行動に移したということは、これも恋人の振り計画の一環なのだろう。そう受け取って、翔流はいつもの態度で返答をかえした。
「何だよ。んな風に言いながら、実はオレが草隠に居ない方がいいって思ってるくせに」
「は? 何故そうなる?」
「だってさ、この契約が終わったらオレは冬馬の『元恋人』になるだろ? 普通だったらそういう存在は遠ざけておきたいって考えるもんだぜ」
「それは他人の場合だろう。俺はそんな風に思うことはない。たとえ……この契約が終わっても、俺にとって翔流は大切な存在だ。だから会いたい時に会う」
大切な存在。言われて、嬉しさに胸がギュッと締まった。
契約終了後も二人で会いたいと思う気持ちは、こちらも同じだ。叶うのであれば、そんな未来に進みたい。
だが、いくら強く願ってもそれは叶わない。
「そう言ってくれるのは嬉しいけどさ、冬馬がよくても周りが許さないって。特に将来、冬馬の本当の恋人になる人は、オレが近くにいるのを絶対に嫌がるだろうぜ」
多くの女性は、恋人の過去を気にする。時に小さな手紙一つ残っていても喧嘩の原因になるというのに、元恋人が近くにいてあまつさえ大切な存在だと言われたら、堪ったものではないはずだ。
「本当はオレだって冬馬に会いたいよ。でも、オレの存在が冬馬の将来の邪魔になるなら…………オレ達は会わない方がいい」
そう告げると、冬馬の気持ちを表すかのように翔流の身体を抱く腕の力が強くなった。
「そんなことを言うな。誰が何と言おうと翔流は掛け替えのない人間だし、俺との関係は誰にも文句を言わせない」
「冬馬?」
どうしたのだろう、今日はやけに食い下がってくる。寂しいと言ったり、翔流を掛け替えない存在だと言ったり、これではまるで本物の恋人のようだ。
本物の――――。
「っ……!」
瞬間、途轍もないことに気づいてしまった翔流は、思わずアッと声を漏らしそうになった。咄嗟に口を閉じたものの、それでも驚愕は抑えられなかった。
恐らく今、冬馬は本気で二人の将来の在り方を考えている。
けれど、それは決して本心ではない。
そう、彼はとんでもなく大きな勘違いをしているのだ。
冬馬は以前こう言った。『人を騙すのなら、自分すら騙すつもりで』と。きっとバカがつくほど真面目な男は、現実性を求めるあまり、とうとう自分まで騙しきってしまったのだ。
さらにもう一つ。その衝撃的な真実は、まるで追い打ちをかけるかのように、翔流に厄介な感情を自覚させた。
冬馬の愛が錯覚だと知った自分は、泣きたいほど傷ついている。こんなことなら何も知らないまま、契約を終えてしまった方がよかったと酷く後悔している。
亜輝菜の言葉に胸が痛くなったのも、これからのことに恐怖を覚えるようになったのも、恐らくこの感情が原因だ。
ああ、なんてことだろう。自分は一番抱いてはいけない感情を、いつの間にか芽生えさせてしまっていた。冬馬のことを――――本気で愛してしまっただなんて。
胸の内から飛び出してきた答えに、翔流は歯を食いしばりながら双眸を閉じた。
夜の澄んだ空気を大きく吸いこむと、鼻の奥が締まるように痛む。
「翔流?」
いつまでも反応を示さない翔流に不安を覚えたのか、冬馬が体勢を変えないまま名を呼んでくる。
「黙ったままでいるのは、俺の言葉が信じられないからか?」
「……いや、そういうわけじゃないよ。ただ、冬馬は優しいこと言ってくれるなぁって」
肩にグリグリと額を押しつけられる小さな痛みと、こめかみに触れる冬馬の髪のくすぐったさに愛おしさを抱きながら、翔流は冬馬の頭を撫でた。
「当たり前だ、俺はお前の恋人だぞ」
「そうだな……冬馬はオレの恋人だもんな」
恋人同士の甘い囁き合いのように語らう。
しかし、どれだけ仲睦まじく思いを重ねようとも、これは未来永劫『本物』にならない。そしてこれから先、自分は別離の時が訪れるまでずっと冬馬の勘違いに悲しい相槌を打ち続けなければならない。
決して信じないよう、自分に強く言い聞かせながら。でないと冬馬の神経毒のごとき甘い囁きに、心を殺されてしまう。
切なくなるほど愛おしい冬馬の体温を感じながら、翔流は自分の想いをそっと凍らせた。
最初のコメントを投稿しよう!