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第7話:少しずつ動きだした感情
菜園で作った野菜を食べ始めてから、冬馬はすっかり元気を取り戻した。
まるで落ちこんでいたのが嘘のように記者達にも毅然とした態度を見せ、翔流との関係の疑いを否定した。そして同時にブログサイトで恋人との日常を紹介するという手段を使い、世間の疑念を払拭させたのだ。
どうやらこの作戦は、「いざという時は顔出しをしてもいい」という翔流の言葉から思いついたものらしい。しかし日常を紹介するといっても、ネットに載せるのは菜園で穫れた野菜やその料理の写真、あとは翔流が撮影した冬馬の休日の姿を中心にしたものばかり。そこに翔流の顔が写ったものはなく、あったとしても梶浦が二人の背後から撮ったもののみだった。
この方法なら世間も納得するし、翔流のプライバシーも守れる。細かなところまで練られた戦略は、実に頭の切れる冬馬らしい。
こうして冬馬の危機は無事に幕を降ろし、二人は平穏な日常を取り戻した。
しかし、そんな束の間の安息もむなしく、今度は翔流の方に新たな難題が降りかかった。
「……やっぱり行かなきゃ駄目?」
手触りのいい上質なスーツを纏い、冬馬の信頼するスタイリストによって綺麗にヘアセットして貰った翔流が弱々しい声を出す。けれど隣に控えていた梶浦は、問答無用と言わんばかりに冷たい視線をこちらに向けた。
「もう冬馬様は会場入りされています。貴方も支度が済んだのなら、さっさと会場に入って冬馬様のお役に立って下さい」
ワガママなど一切許さない。梶浦の顔にはくっきりそう書かれていて、翔流は不満をこめた舌打ちを密かに鳴らした。
「何でオレが金持ち達の宴会なんかに……」
「宴会ではなくパーティーです。田舎者と笑われますよ。それにこれは契約書に記された仕事の内です。きっちり役目を務めて下さい」
「……ワカリマシタ」
確かにサインした契約書には、公の場に参加することもあると書いてあったような気もする。だが何も知らされないまま東京の高級ホテルに呼ばれ、突然パーティーに参加することになったと言われれば、誰だって文句の一つも言いたくなるはずだ。
「さぁ、こんなところで駄々を捏ねてないで、会場に入って下さい。これ以上時間を遅らせると、冬馬様に迷惑がかかります」
会場へと続く扉の前で顔を強張らせていると、梶浦から容赦ない言葉が飛んできた。
さすがは冬馬第一の優秀な秘書。一応は恋人役を頑張っていることもあって、最近は砕けた物言いでも怒らなくなってきたが、基本的に翔流をあまり良く思っていないことに変わりはない。多分、そんな梶浦にとってこちらの戸惑いなど塵屑なのだろう。
「…………じゃあ行ってきます……」
どこにも味方がいない中、小さく溜息を吐いた翔流が恐る恐る扉を開け、場内へと入る。
「う……わ……」
次の瞬間、目に飛びこんできたのは、見たことないほど煌びやかな世界だった。
色とりどりのドレスや、雅な振り袖で着飾る大勢の女性に、育ちの良さが一目で分かる紳士達。皆、大きなテーブルに用意された絢爛豪華な料理と、シャンパングラスに注がれた美しい色の酒を楽しみながら上品に談笑している。
今夜のパーティーは報道関係者がいないということで多少気を抜いていたが、それは完全に間違いだった。はっきり言って場違いだ。できるものなら逃げ出してしまいたい。
しかし会場から飛び出したところで、きっと外で待っている梶浦に連れ戻されるだけ。簡単に予想できた翔流は、震えそうになる身体を何とか抑えて歩き出した。
冬馬はどこだろう。早く見つけて気持ちだけでも楽になりたい。そう思いながら探していると、十メートルほど先に目的の顔を見つけた。
青みがかった灰色のスーツに、黒のベスト、そしてシンプルだがセンスが際立つストライブ柄のネクタイ。軽く撫でつけた髪も相まって、何度も顔を合わせている翔流でさえも一瞬見惚れるほど彼は格好よかった。
見つめるだけで、心臓がドクンドクンと大きな鼓動を打つ。が、その高鳴りはたった数秒で別の意味の心拍音へと変わった。
冬馬の隣に、女性がいたからだ。
目的の場所に向かって動いていた足が、五メートルの距離で止まる。本当なら即座に駆け寄って声をかけるべきなのだが、彼の隣で微笑む女性の姿に言葉が出せなかった。
艶やかな黒髪のロングヘアーに、零れそうなほど大きな瞳と桜色の唇。美人というよりも可愛いという印象を抱く女性は、冬馬と並んで立つ姿がとても似合っていた。それに心なしか二人の周りを包む空気も、甘い。
そんな状況を前に、胸がズンと重くなった。
何だろう、この寂しさと苛立ちが混ざったような複雑な気分は。これ以上、あの二人が並ぶ姿を見ていたくない。
醜い感情に囚われた翔流はキッと顔を上げた後、靴音を鳴らしながら二人に近づいた。
「ああ、翔流。来たか?」
翔流の思惑どおり、足音に気づいた冬馬がこちらを向く。
「……ごめん、遅くなって」
「いや、急に呼んだのは俺の方なんだから気にするな」
こちらの心中を知らない冬馬は、当たり前のように恋人の顔で優しく手を差し伸べてくれる。その手を取りながら翔流は己の器の小ささに罪悪感を覚え、すぐに後悔した。
隣の女性はもしかしたら重要な取引相手かもしれない。それなのに一瞬湧いた身勝手な感情で会話の邪魔をしてしまうなんて、身の程知らずにもほどがある。
「翔流、どうした?」
「あ、や、何でもないよ。オレ……話が終わるまで離れてようか?」
話しながらチラリと女性を見遣る。
「いや、大丈夫だ。――――では亜輝菜さん、待ち人も来ましたので私はこれで」
普段、翔流といる時には使わないような外向けの喋り方で挨拶をし、冬馬が頭を下げる。すると亜輝菜と呼ばれた女性は、話し足りなさそうな顔をこちらに見せた。
けれども冬馬はそんな様子に全く気づかず、歩き出してしまう。翔流は思わず彼女のことを伝えようと口を開くも、そこから続くはずの言葉は知らぬ間に集まっていた好奇の目や嘲弄を宿した視線によって、瞬時に打ち消された。
「な、なぁ、もしかしてオレ、今日は冬馬の相手として皆に見られるのが仕事か?」
「いや、結果的にこうなってしまったが、翔流に頼みたいのは別のことだ」
不意に立ち止まった冬馬が、近くにいたウェイターのトレイからオレンジジュースの入ったグラスを一つ取り、こちらに渡してくる。
「実は翔流との関係を発表した後も、しつこく縁談を薦めてくる取引先の人間がいてな」
その都度断っているのに諦めてくれず、さらに先日の偽装恋人報道のせいで縁談攻撃がより激しいものになった。だから最終手段として、翔流を呼んだのだと説明される。
「え、じゃあまさか、今からオレ、その人とご対面するの?」
「察しがいいのは、ありがたい」
「こっちは、ありがたくも何ともねぇよっ」
周囲の人間に聞こえぬよう、声を最小限に落として文句をぶつける。
冬馬に縁談を薦めるということは、即ち翔流を認めていないということ。そんな人間の前に出て行くなんて、真っ裸で敵地に突っこんでいくようなものだ。きっと、夢にまで出てくるぐらいの嫌味で集中攻撃されるに違いない。想像しただけで気が滅入ってしまった翔流は、今度こそ逃げ出したいと切に願った。
「サンドバック係とか、勘弁してくれよ……」
「心配するな、翔流はただ俺の隣に立っているだけでいい。話は俺が進めるし、もしも変なことを言われても絶対に守るから」
それが当然だという顔で、冬馬は断言する。
するとどうだろう、胸の中の不安が幾分か軽くなった。守るという言葉一つで人を安心させるなんて、冬馬はすごい。
「それでも、まだ怖いか?」
「ん、まぁ冬馬がそこまで言うなら……オレも頑張ってみる」
「そうか、なら一緒に頑張ろう」
「おうっ」
冬馬の心を煩わせる相手との対面に覚悟を決めた翔流は、気持ちを落ち着かせるために持っていたジュースを一気に煽る。そして、よしっというかけ声と共に大きくと頷いた。
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