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第8話:胸の奥で生まれた無自覚の感情
ただ黙って立っているだけというのも、結構疲れるものだと初めて知った。
縁談を薦めてくる取引相手の男との会話は予想どおり棘が含まれたもので、翔流の心は激しく消耗させられた。その中でも特に酷かったのは、目の前で翔流を恋人だと紹介しているのにも関わらず女性との結婚のよさを説かれたことだ。
男同士では子供は作れない。
会社のためには世継ぎが必要だろう。
せっかくの優秀な遺伝子を無駄にするなんて、勿体ないとは思わないか。
翔流への中傷も巧みに織り交ぜながら男は終始、女性との縁談を薦め続けた。
ただ、そんな話をされても心が折れなかったのは、冬馬が宣言どおりずっと守ってくれていたからだ。どれだけ否定されても、常に最善の言葉を選びながら相手の尖った感情を鎮める。そのおかげで、悪夢になりそうなほどの衝撃を受けずに済んだ。
しかし、そうは言っても一方的に悪意をぶつけられた精神的疲労はやはり酷く、二十分ほどの会話で頭痛を引き起こしてしまった翔流は、取引先の相手を見送った後、冬馬の許可を貰って一時会場を離れた。
「はぁ……」
外の空気を求めて出たホテルの庭園を、翔流は一人で歩く。
九月も下旬になって、夜風が心地好くなってきた。気分を休めるには、ちょうどいい気温だ。せっかくだから園内を見て回ろうと、翔流は夜の淡い照明の中、園の広場へと続く階段を降りていく。
するとその時、コツンコツンと響く自分の靴音に別の靴音が混ざった。
誰か自分と同じように、広場へと行こうとしているのか。そう思った時、不意に名前を呼ばれた。
「神尾さん」
振り返り、名を呼んだ相手を視界に捉える。と、翔流が降りていた階段の上段に、見覚えのある女性が立っていた。
「えっと貴女は……確か、亜輝菜さん……?」
彼女は先程、冬馬と二人で話していた女性だ。思い出して名を口にすると、何が悪かったのか、急に亜輝菜の顔が険しくなった。
「貴方に、気安く名前を呼ばれたくありません。私から冬馬さんを奪った貴方に!」
「え……」
唐突に敵意を向けられたことに驚き、翔流は言葉を失う。
「奪った……って……」
「彼とお付き合いするのは、私のはずだったんです。なのに急に貴方が現れて彼をそそのかしたから……」
「そそのかしたなんて、オレそんなこと……」
「いいえ、貴方が優しい冬馬さんを騙しているのは誰もが知る事実です!」
翔流が冬馬を騙している。そんな嘘が出回っているなんて知らなかった翔流は酷く混乱した。そのせいだろうか、上手く言葉が出てこない。
「何も言わないということは、やはり貧乏を理由に冬馬さんを利用しているという噂は、本当なんですね」
沈黙を肯定と取った亜輝菜が、さらに顔を顰める。
「今すぐ彼と別れて下さい。貴方はあの方に相応しくありません!」
亜輝菜から強い感情が、勢いに乗って伝わってくる。恐らく彼女は本気で冬馬のことが好きなのだろう。それは分かった――――が、翔流は緊張しながらもゆっくり首を振った。
「それは……できないよ」
「どうしてですっ? 貴方が彼の恋人なんておかしいし、男のくせに彼の財力を狙うなんて恥ずかしいと思わないんですかっ!」
亜輝菜が怒鳴りながら責めてくる。
彼女の願いを拒絶したのは、勿論根底に契約があるためだ。しかし、それとは別の思いもあった。
「だって、オレを選んだのは冬馬だから」
そう、水面下にどんな理由があったとしても、翔流を恋人にすると選んだのは冬馬だ。
自らの信用を賭けながらも、必死に前へと突き進む。そんな彼の勇気を見ているからこそ、自分は絶対に引けない。
「なっ……あ、貴方、自分が何を言っているのか分かっているの? 男のくせに……」
「男とか、そういうのは関係ない。これはアイツが決めたことだ。だからオレは別れないし、それに……」
覚悟を決めて、亜輝菜を真っ直ぐ見つめる。
「オレを否定するってことは、冬馬を否定するのと同じだよ」
言い切ると、亜輝菜は僅かに双肩を揺らして唇を噛んだ。さすがに彼女も、好意を寄せる相手を否定することはできないようだ。
「ごめん……亜輝菜さんが望むような言葉が言えなくて……」
「っ、貴方に名前を呼ばれたくないって、言ってるじゃないですか!」
よほど憎いのか、それとも他に責めて立てる言葉が浮かばないのか、亜輝菜は声を張り上げると同時に階段を駆け降りると、やにわに翔流の身体にめがけて両腕を突き出した。
ドンと胸の辺りに衝撃が走る。
「う、わっ」
瞬間、世界が回り、直後に左半身に衝撃と強い痛みが走った。
「痛ってぇ……」
そうだった、自分は今、七段ほどある階段の中腹に立っていたのだった。引っ切りなしに襲ってくる痛みで現状を悟った翔流は、人に突き落とされたという事実に動揺を覚えた。
まさか亜輝菜が、こんなことをするなんて。信じたくない思いを胸に上半身だけを起こして、彼女を見上げる。
そこには怒りを残しながらも、瞳にいっぱい涙を浮かべた亜輝菜の顔があった。
「私は冬馬さんを奪った貴方を、絶対に許さないっ。貴方なんて……っ、貴方なんて早く彼から捨てられればいいのよ!」
降ってきたのは、まるでテレビドラマで聞くような台詞だった。
しかし――――何故だろう、彼女の言葉が全く別のものに聞こえる。
翔流のことを批難しながらも、その裏で必死に冬馬への愛を叫んでいるようにも聞こえるのだ。そして、それだけ強い感情がこもった言葉だからだろうか、ぶつけられると同時に酷く胸が痛んだ。
自分達は彼女が言うような、捨てたり捨てられたりする関係ではない。なのに、どうして怖いという気持ちが湧いてくるのだ。
言いたいことだけ言った後、翔流を置いて走り去って行った亜輝菜の背を無言で見つめながら考える。
すると、彼女と入れ替わるかのように、誰かが慌てた様子で翔流の下に駆け寄ってきた。
「神尾君っ!」
名前を呼ばれた翔流はハッと顔を上げる。
「梶、浦さん……?」
「大丈夫ですかっ」
目前まで辿り着いた梶浦が、手を伸ばしてくれる。翔流はその手を借りて立ち上がろうとしたが、瞬間的に足首へと激痛が走った。
「っ……ってぇ……」
「足を捻ったんですか?」
「そう、みたい……」
「……ドジですね」
呆れたように笑われ、そのまま階段に腰を下ろせと言われる。そのとおりにすると、梶浦も膝を着き、翔流の足に触れて怪我の具合を確認し始めた。
「で、梶浦さんは何でここに?」
「貴方が体調を崩したと聞いたので、様子を見に来たんです」
「……そっか」
わずかの間、夜の静寂に包まれる。
「恐らく捻挫ですね。大丈夫だとは思いますが、冬馬様に伝えてから病院に行きましょう」
「冬……っ……」
亜輝菜の言葉で敏感になっている時に冬馬の名を出されたからか、驚きに肩がビクンと震えた。
途端に目の前にあった梶浦の眉間にみるみる皺が寄る。
「それで、西條のお嬢さんと何があったんです?」
「え、西條?」
「亜輝菜さんのことです。お父上とは先程、冬馬様とご一緒に話をしたでしょう?」
冬馬に縁談を進めてきた取引先の男のことだと言われて、やっと記憶が繋がる。
「ああ、さっきの? ……ってことは、彼女が冬馬の縁談の相手だったんだ……」
思いがけず知った亜輝菜の正体に、翔流は目を丸くする。しかし、その瞳はすぐに辛い色に染まった。
「そっか、だからか……」
「だから、何です?」
「あ、いや……何でもな……」
「今さら隠しても無駄ですよ。実は先程、女性の怒鳴り声を聞いたすぐ後に、真っ青な顔をした亜輝菜さんとすれ違ったんです。これはきっと何かあったんだろうと辺りを探したら、ここで尻餅を着いている貴方を見つけた」
これらの様子から二人の間に問題が起こったことは明白で疑う余地もないと、梶浦は言い切る。
「一体、彼女に何をされたんです?」
「や、ちょっと……オレが彼女から冬馬を奪った、みたいなこと言われただけで……」
「冬馬様を奪った?」
梶浦が怪訝な表情を浮かべる。
「今の話、詳しく説明してください」
「別に、そんな大したことじゃ……」
「冬馬様の名前が出てきた時点で、見過ごすわけにはいきません」
さぁ早く、と今にも怒りそうな顔で迫られ、翔流は長い息を吐く。どうやら逃げられそうにない。
「彼女、冬馬のことが好きなんだよ。でもオレがいるから付き合えなくて……それで、別れろって言われた。あとは――――」
翔流が貧乏を理由に、冬馬を唆しているという噂が立っていること。
亜輝菜に思わず言い返してしまったこと。
その挙げ句に突き飛ばされたこと。
小さな話から大きなものまで、翔流は起こったことを余すことなく話す。
「――――そうですか、これはすぐに冬馬様に報告しなければなりませんね」
「え、今のこと全部話すの?」
「当然です。冬馬様の知らないところで偽りの噂が流れているなんて、危険極まりない。後々の問題にならないよう早めに対策を打って置くべきです」
「まぁ、そう……だよな。でもさ、オレが突き飛ばされたことは黙っててくんないかな」
噂のことは仕方がない。が、亜輝菜のことは言って欲しくないと願うと、梶浦の目が訝しげに細くなった。
「どうしてです?」
「何かさ……ちょっとだけ可哀想で……」
階段から突き落とされたことは正直許せないが、彼女の行動は全て冬馬への気持ちが行き過ぎてしまっただけのこと。
それに梶浦とすれ違った時に真っ青な顔をしていたということは、多少なりとも後悔しているはずだ。ならばこれ以上、彼女を追いつめることはしたくない。
亜輝菜の涙を見て生まれた気持ちを伝えると、梶浦は厳しい顔で首を横に振った。
「何を言ってるんですか。貴方は彼女に怪我を負わされたんですよ?」
「そりゃそうだけど、彼女だって最初からオレに怪我をさせようなんて考えてなかったはずだろうし、何より……」
冬馬に真実を伝えても、誰一人として幸せにならない。
「……なぁ梶浦さん、オレが彼女に突き飛ばされたことを知ることって、冬馬にとってプラスになることかな?」
「どういう意味です?」
「アイツってさ、やることは大胆だし、たまに暴君にもなるけど、根は優しい奴だろ? だからこのこと知ったら、きっとすごく悩むと思うんだ」
大事な取引先の人間と、その娘。この先も関わっていくであろう相手とどう接すればいいのか、完璧主義者の冬馬は最善の解決法が見つかるまで考え続けるだろう。
「これがアイツの将来の関わることなら仕方ないけど、そうじゃないなら出来るだけ余計な心労を増やしたくないなって」
「神尾君……」
「オレさ、頭悪いから経営とか戦略とか、よく分かんねぇ。でも、会社や草隠のために頑張ってる冬馬の迷惑や負担になりたくないって気持ちは、梶浦さんと同じだよ」
強い目で見つめ、自分の言葉がその場を凌ぐ言い訳ではないと訴える。
「私と同じ、ですか……」
「うん」
「貴方はおかしな子ですね。たまたま目に付いたからと恋人に選ばれ、こんな騒動に巻きこまれたら普通、冬馬様を恨むはずなのに」
「ハハッ、確かにな! けど、この二ヶ月ずっと冬馬と一緒にいて、アイツがどれだけ真剣に取り組んでるかってのを見てきたから、今は応援したいって気持ちが強いんだ」
どんなに嫌な奴でも、直向きに努力している姿を見ると心が動かされると聞いたことはあるが、まさに冬馬がそうだった。出会った時と今では真逆といっていいほど、抱く感情が違う。そう本心を伝えると、わずかだが梶浦の表情が柔らかくなった。
「そうですか。貴方もだんだん冬馬様の魅力に、惹かれ始めてきたんですね」
貴方も、ということはきっと梶浦もそうなのだろう。彼はいつも冬馬第一で動いているし、言葉遣いからも強い敬愛を感じる。
しかし、何故梶浦はそこまで冬馬を敬っているのか。ふと気になった翔流は、問いを投げかけた。
「ね、梶浦さんと冬馬の出会いとか、聞いてもいい?」
「何です、藪から棒に」
「冬馬の魅力に気づいた人間の一人として、気になってさ」
自分と冬馬の出会いのように、彼等にも物語があったはず。気になった翔流が期待の眼差しで待っていると、梶浦がやれやれといった顔で短い溜息を吐いた。
「冬馬様が御両親を亡くされたのが高校時代だということは知っていますよね? 私はその頃には既に、ビューティージェムで働いていました」
それから語り出した、梶浦と冬馬の出会い。それは翔流が想像していたものよりずっと重く、そして深いものだった。
「あれは確か先代と奥様の葬儀後すぐでしたでしょうか、亡くなった社長の後任を誰にするのか取締役会で話し合いが行われたのですが、その時に選ばれたのが高校を卒業したばかりの冬馬様だったんです」
本来なら未成年である冬馬が選ばれることはないはずなのだが、兼ねてから冬馬の父が跡継ぎに指名していたこと、そして彼自身も頭脳明晰だったことから満場一致で承認されたのだという。
「ですが、それは全て罠でした」
「罠?」
「ええ、当時の役員達は冬馬様を持ち上げる素振りを見せながら、裏で虎視眈々と社長の座を奪う算段を立てていたんです。その計画に気づかなかった冬馬様は就任から四年後、突然、役員達から辞任を要求された……」
齢二十二でまだ経験の浅い人間を、年だけ立派に重ねてきた人間達が寄って集って攻撃する。それは当時、総務部にいた梶浦が見ても非道な光景だったと語る。
「何だよ、それ……ひでぇな……」
「ええ。ですから冬馬様は辞任を拒絶し、裏切った人間達と最後まで戦う決意をされた」
「たった一人で?」
「一応冬馬様を支持していた私と、少数の人間で秘密裏にお手伝いをしていましたが、実際は、お一人だったも同然です」
だが、それでも冬馬は一定以上の結果を残し、社長としての威厳を見せただけでなく、裏切った人間達の不正まで暴いて糾弾した。そうして社と自らの地位を守りきったそうだ。
「ただ、何とか反乱因子は排除できたものの、一連の騒動のせいで社は大きな代償を払うことになりました」
「代償?」
「社内で内部分裂が起こったのは冬馬様の指揮力不足のせいだとみなされ、取引先からの信用を失ってしまったんです」
今でも思い出すと悔しいのだろう。梶浦が眉を寄せ、怒りを表情に浮かべた。
ただでさえビューティージェムは田舎の企業と言われ、化粧品業界内で冷遇を受けていたのに、不祥事のせいで見る見るうちに業績が悪化していく。このままでは倒産するかもしれない。冬馬を信じてついてきた社員も、不安が隠せなかったそうだ。
「そんな中、冬馬様は起死回生の策として男性用化粧品の開発を決定した。その時に私を、秘書として選んでくださったんです」
梶浦は失敗の許されない計画に、一番必要な人物だ。当時の冬馬はそう言って手を伸ばした。それが嬉しくて堪らなかったのだと、梶浦は語る。
「そっか、そりゃそんな風に手を差し伸ばして貰えたら、冬馬のこと大好きになるよな」
「ええ、だから私も社員も、草隠町の多くの方々も皆、冬馬様のことを慕ってます」
「草隠町の人もって……あっ」
梶浦の語った言葉が、不意に翔流の記憶を揺さぶる。
「冬馬が前に『あることで落ちこんだ時、町の人に励まされたことがあった』って言ってたんだけど、もしかしてこの時の話?」
「恐らくそうですね。あの時、冬馬様の窮地を知った町の人達は、各々の繋がりを駆使して社の宣伝を手伝ってくれました」
親戚や仕事関係の人間に頼んで商品を宣伝したり、広告を置かせて貰ったり、中には他の街でイベントを開いた人間もいたそうだ。
「冬馬様は、今でも感謝が足りないぐらいだと言ってます」
「アイツ、昔から町の人達に好かれてるんだな」
「あの町で育った冬馬様を、皆さん、自分の子供のように思ってくださってますから」
まるで家族のように愛してくれる人達だからこそ、自分も精一杯の愛を返す。何て素敵な関係なのだろうかと、心が温かくなった。
「何か羨ましいな、町の人もそうだけど、特に梶浦さんと冬馬は、二人がお互いを信じ合ってるって感じでさ……」
辛い過去を乗り越えた二人は、信頼という絆で繋がっている。決して自分みたいな紙一枚の間柄ではない。
そんな事実にふと気づいてしまった翔流の胸が、チクリと痛んだ。これはさっき亜輝菜の言葉を受けた時に感じた時と同じものだ。
『貴方なんて、早く彼から捨てられればいいのよ!』
強固な絆を持たない自分は、いつか必ず冬馬から繋がりを絶たれる。確定している未来がちらりと顔を見せた途端、翔流の中で恐怖と不安が溢れかえった。
いつか――――それはいつなのだろう。
明日か、一ヶ月後か、半年後か。
「どうしたんです? 急に暗い顔をして」
考えこんでいるところに声をかけられ、翔流は慌てて首を横に振った。
「いや、何でもないよ。あー……そうだ、そろそろ冬馬のところに戻らねぇ? もしかしたら心配してるかもしれないし」
「そうですね。では冬馬様には貴方は慣れない靴で歩いている途中に転んだと報告しますので、ちゃんと口裏を合わせてくださいね」
「あれ、オレの頼み聞いてくれんの?」
「総合的に判断したら、こうなっただけです」
返ってきた声の色は冷たかったが、歩くのを手伝うために伸ばされた梶浦の手からは柔らかな感情が滲み出ていた。
ああ、今の梶浦からは以前のような敵意は感じられない。悟った翔流は嬉しくなって、笑顔でその手を取った。
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