私が見た景色

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私が見た景色

 あの日、私が見たのは、空。空。空。  真っ青な青空。  ただ、それだけ。 ∞  私が見た景色 ∞ 「「「「いっせーの、せっ!」」」」  あの日、初めてその場所に集まった時、私たちはあまりにも何も持ってはいなかった。 「出た?」 「出てない」 「えー」 「やっぱり?」 「うん」  楽しい学校生活とか、  幸せな家族の食卓とか、  将来の夢だとか。  そんなもの、誰も持っていなかった。 「ナオちゃんは?」 「‥‥ちょっと」 「本当? すごい!」 「見せて! 見せて!」 「でも、ほんのちょっとだよ」 「あ、本当だ」  落としてきた。  どこか、どこか、遠い過去に。  忘れてきた。わざと。 「掠り傷みたいだねえ」 「うん」 「あんまりでないんだねえ、血って」 「ね」 「むずかしいんだねえ」  私たちは、十二歳だった。   十二歳に、なっていた。 「――死ぬの、って」  あの日は、夏だった。  とても暑い夏だった。  いつもと同じような、夏。  いつもと同じような日々が繰り返されるのだろうと思っていた、夏。  夏休み。  夏休みの、最初の日。  扇風機。 食べかけのアイス。  スクール水着と、隠したままの成績表。  そんながらくたばかりしかない部屋を、私はこっそり抜け出した。  制服を着たまま、二階の窓から飛び降りて。 走ったら、スカートの下の素足がちょっとひんやりした。 風にはためいたら、捲れあがって、ハシタナイ姿をさらすんだろうか。  その発想に、少しときめく。  足を広げて、思い切りジャンプをしてみようか。  お母さんが卒倒するようなハシタナイ恰好で。  あはは、と笑いがこみ上げた。  ‥‥笑っていたのは、私一人じゃなかった。 「どうしよう」 「どうしよう、って」 「だって、終わらないよ、宿題」 「うん」 「先生も、自分で考えなさいって」 「ね」 「解らないから、聞いたのに」 「難しいよね」 「ね。子供に聞くことじゃないよ」 「だよね、だよね」 「え、私たち、子供なの?」 「子供だよ。だって成人してないじゃん」 「でも、もう生理も来てるのに」 「私まだ来てないもん」 「じゃあ、ユキちゃんだけ子どもなんだ」 「違うよ、違うよ。成人してなきゃ大人じゃないもん」 「大人だもん。生理が来たら女になる、ってママが言ってたもーん」 「女だけど、大人じゃないもん」 「大人だもん! 私は大人なんだもん! 私は大人がいいんだもん!」 「私は子供でいいけどなあ」  学校。学校。学校。  私たちは一目散に学校を目指した。  私たちの学校。  鍵をこじ開けて、ガラス窓を蹴破って、一目散に、上へ。 あの屋上へ。 「なんでえ?」 「だって、何でも半額でいいじゃん」 「こどもりょうきん、らんちぷれーと、しょうねんほー」 「でも、恋もエッチも、大人にならないとダメだって、ママが」 「え? そうなの?」 「ほら、やっぱり大人がいいじゃん。ね?」 「‥‥わかんないよ。私、まだ、恋したことないもん」  屋上へ通じる扉のノブを金属バットで叩き壊した時。私たちはただひたすら笑っていた。  向こう側に見えた青空を突き抜けてしまうんじゃないかと思うくらい、笑っていた。 「あ、出た。血、出た」 「本当?」 「ほら」 「あ! 本当、血が出てる」 「すごおい」 「痛そう」 「痛くない?」 「痛い」 「ちょっと?」 「すっごく」 「あーあ。駄目かあ」 持ってきたアイスはぐちょぐちょに溶けていた。  私たちはそれを互いに投げつけながら、また笑った。  みんな白いぐちょぐちょに染まりながら、高く高く声を突き上げていた。 「難しいんだねえ、死ぬの」 「当たり前じゃん」 「当たり前なの?」 「だって、生むの、あんな大変なんだよ。私見たもん。ママが弟生むの。立ち会い、したもん。あんなに苦しそうに生んでるのに、死ぬのが一瞬だったら割合合わないよ」 「わかんないよ。案ずるより産むがやすしっていうじゃん」 「ばか。一回生んでみなって。そしたらわかるから」 「チカちゃんだって産んだことないでしょ」 「あるよ」 「え? 嘘!」 「‥‥嘘」 「ばあか!」  宿題をしなきゃ、と誰かが言った。  私たちの宿題。  夏休みの宿題。  先生にまた怒られちゃう、とまた誰かが言った。  私たちはカッターナイフを取り出した。 「どうにかしなきゃなあ。宿題。どうにかしないと」 「どうにかなりそう」 「無理。痛いもん」 「だよね」 「包丁持ってくる?」 「やだあ。魚切ったので切りたくない」 「じゃあどうする?」 「どうする?」 「どうする?」 「どうする?」 「どうする?」 「どうにかしないと」 「どうやって」 「どうやって」 「どうやって」 「どうやって」 「こうやって」 チキチキチキ。 チキチキチキチキチキチキチキチキ。 「わ!」 「蟻、潰れちゃった‥‥」 「ないね」 「何が?」 「イノチ。ちっちゃすぎてわかんなかったね」 「え?」 「あ」 「そっかあ。そうすればいいんだ」  チキチキ。  チキチキチキ。  チキチキチキチキチキチキチキ。  みんなの音が重なっていく。 「ほら、ね、こうでしょ」 「わー、アンちゃん上手」 「やっぱりちっちゃくて見えないね」 チキチキチキ。 チキチキチキ。 チキチキチキ。 チキチキチキ。 「じゃあ、もっと大きなのでやる?」 「え」 「でも」 「それって‥‥」 「なに?」 「怒られちゃうよ」 「大丈夫だよ」 「でも」 「戦争、ってあったじゃない」 「え」 「社会の授業。やったでしょ。教育って大切なんだよ。先生も、戦争に勝ったアメリカだって言ってたよ。戦争よりも大切だって。その戦争でたくさんの人が死んだんだよ。もっと大切な教育のためには、もっとたくさんのイノチが必要だよね?」 「‥‥」 「ね、宿題、しよう」 「‥‥うん」  チキチキチキチキ。  方眼用紙を切る時より、少し長めに出した刃を、その銀色の刃を――手首に当てて。  ――いっせーの、せっ!
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