ノルニ村1

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ノルニ村1

 日がほとんど落ちたところで僕はさらに念入りにクリームを塗って、肌を隠すコートを被り、家を出た。正直言ってここまでする必要はないらしいけれど、外出するときはこれにすっかり慣れてしまっていて……もうじきに夜だからといって変えることはない。  夏が終わったばかりで空気は随分と暖かい。しばらく歩いて軽く汗ばんでも、コートを脱ごうとは思わなかった。  手に持つ暗めのランプで足元を照らす。が、それさえも異様に眩しく感じられて舌打ちをする。杖で縁石を探り、なんとか道を見分けて歩く。忌々しい身体だったけれど、僕の為に命懸けでこの国に辿り着いてくれた母さんのことを想えばその気持ちは遠くなった。  村の中心近くにある商店に顔を出すと、片付けをしていたパウロさんがこちらを見て手を挙げる。僕も会釈を返した。   「やあ、フィン。転んだりしてないかい?」   「平気です。今回の分、お願いできますか?」   「ああもちろん。中で見せてくれ」    パウロさんは奥さんのカーラさんと二人で村唯一の商店を営む壮年の男性で、母さんと僕は仕入れ中の彼に助けられ、この村に辿り着くことができた。村長に引き合わせ、最初の方は衣食住の面倒まで見てくれた夫妻だ。母さんが亡くなってからも、特殊な身体の僕を心配して何かと気にかけてくれている。  パウロさんが呼ぶと店の奥からカーラさんが出てきて杖を預かり、僕の手を優しく引いた。  弱視の僕は有り難く従い、食事の支度の邪魔をしたことを詫びた。   「いいのよ、フィン。気にしないで。眩しくはない?」   「大丈夫です。ありがとうございます」   「とりあえず、籠の中身を見せてくれる?」   「はい。今回新しく縫えたのがこっち、依頼されてた直しがこれです」   「……まあ!相変わらず綺麗ね。直しも丁寧だわ」 「ああ、完璧だな。新品は高値で買い取ろう」    僕は弱視だが、不思議と魔力はよく視えるので、糸と針、布に薄く魔力を流しさえすれば黙々と作業ができる裁縫で生計を立てていた。一般的な下着や上着を縫うこともあれば、凝った刺繍をすることもある。また、村人の依頼で色んなものを直すこともあった。その時々の需要や依頼は夫妻を通して聞いていた。そうしてできたものを、五~十日ほどの期間で納品し食材や日用品を買うのだ。  一方、工程の多い凝った料理は苦手で……というよりは、刃物を持ったり眩しい火のそばで何度も作業を繰り返すのが怖くて、僕はいつも簡単なスープとパンを食べていた。  今日も納品が終わると、それを知っている夫妻から食事に招待された。僕は大人しくご馳走になる。光に弱い僕が来る時だけ、食卓の灯りを少し落としてあるのは気が引けたけれど、何日かに一度の楽しみを断ることはできなかった。   「じゃあフィンを送ってくるよ」   「ええ。いってらっしゃい、あなた。フィン、日用品は本当に足りているの?遠慮をしたらだめよ」   「石鹸は前回貰ったし……うん、大丈夫です。何かあれば、また朝か夕方に来ますから」    子供がいない夫妻は僕を我が子のように可愛がってくれている。  こんな見た目の僕を。        母さんがどこの国出身なのかは、よく知らない。聞いても教えてくれなかった。でもどうやら僕の魔力量の多さは母譲りのようで、体質的にもこの国の血は何処かで引いているらしかった。  嘘か真か、このリグトラント王国は精霊の血を引く国だと言われている。国民のほとんどが魔力を持ち多少なりとも魔法が使え、そのうち四半分ほどが魔力の扱いに長けた優秀な魔導師であり、さらにその半数は見目麗しい精霊の愛し子だという。精霊の愛し子と呼ばれる人たちは、魔力が多く精霊に愛されているが故に、見た目も整っているそうだ。他国では単純に美人を呼ぶときの例えの一つだが、この国ではそのままの意味だ。精霊が愛しているからこそ魔力も多く、より多くの力を精霊たちから貸してもらえるのだという。  そして愛し子たちは皆、最も愛されている精霊の色を鮮やかに纏っている。火の精霊に愛されているなら赤目や赤髪、水なら青。整った目鼻立ちに派手な色を纏う華やかな人種。それが愛し子だ。    魔力量こそ美人の母譲りで優れている僕は、村の大人に愛し子と呼ばれることもあったが、色という点ではあまりにも異質だった。  自分でどうにかできる前髪以外を切る機会がほとんどなく、長く伸びた柔らかい白銀の髪、血の色が透ける薄赤の瞳、異様に赤い唇、血管が見えそうなほど生白い肌。瞳の色に遮光性がないので目も悪く、何もかもが酷く眩しく感じられる。肌も日光に極端に弱く、どんなに暑い季節でも肌をすっぽり覆い隠すコートを羽織らなければ、たちまち肌が火傷をして爛れてしまう。  そんな色合いなのだ。顔もそのせいで、なんだかお面のようというか、生気がなくて気味が悪い。  幸いにも魔力の光には目が眩んだことはなく、そのおかげでなんとか裁縫だけは覚えることができた。それでも長時間続けると目が霞んで、しばらくは微かな色味が分かるだけの視界になってしまう。僕はそうならないように適度に休憩を挟みながら、一日の殆どを裁縫をして過ごしていた。        パウロさんに手を引かれ、何とか家に戻ると、中から明かりが漏れていた。驚いて思わず足を止めてしまい、パウロさんもそれで気付いたようだった。  そもそも一応の用意こそあれ、ここまでの明かりを僕が煌々と付けることはない。   「……鍵を掛けなかったのかい?」   「……は、はい。大してなんにもないし……この村で、誰もいない家で待つほど僕に用がある人間なんて、居ませんから……」    しかし、こうして眩しいほどの明かりをつけているということは、僕に対して気遣いのある訪問者ではないということだ。身内しかいないような田舎の村ですっかり油断していた僕は、自分の家に誰かがいることよりも、送ってくれたパウロさんを危険に晒すかもしれない恐怖で足が竦んでいた。只でさえおんぶに抱っこで普段から依存しているのだ。その上怪我でもさせて、この夫妻の暮らしに何かあったら申し訳が立たない。 「まず私が入ろう。フィンはすぐ後ろに居てくれ」   「う……は、はい。ごめんなさい」    反省は後だと言われ、僕は口を噛み締めて背後についた。パウロさんがドアを開けて中を覗くと、僅かに体内の魔力の揺らぎが視える。緊張が完全に解けたわけではないようだが、中の人物は知り合いなのかもしれない。  だが、聞こえた声で僕のほうがすっかり身体を固くする羽目になってしまった。   「……よォ、パウロ。フィーは後ろか?」   「ルドラ。いくら村長の息子とはいえ、勝手に他人の家に入るのは感心しないね」   「他人?フィーは幼馴染で、もうじきオレの半身になるんだぞ。何も悪い事はねェよ」    半身……その言葉に僕はうんざりした。この国は総じて華奢な魔導師が多く、膂力に優れる守り手は多くない。その為、守り手になれる素質のある人間は同じ色の魔力の持ち主と組ませる、という風習がこの村にもあった。  同色の魔力はお互いを行き来する毎に増幅され、守り手に必要な魔力を補い、肉体の回復をする効果がある。大抵は騎士と魔導師が組み、お互いの足りない部分を補うらしい。  生涯を添い遂げる二人はお互いを半身と呼び、性別の垣根も越えて結ばれることもあるとか。半身となるほどの魔力交換には粘膜接触を伴う。大して心が繋がっていない二人でも、村での呼び方は片割れとか、連れ添いとか……つまりは他国の伴侶のような扱いなのだ。    僕はこれが嫌で嫌で堪らなかった。不幸なことに、僕には色がない。透明なのだ。誰にでも、どんな色にでも染まる事ができる特殊体質らしい。  母さんはこの国でなら、異様に白く虚弱な体で特殊な魔力をもつ僕も奇異の目に晒されず生きていけると思ったのかもしれない。確かに珍しがられることはあるが、差別されたりいじめられた事はない。でもその代わり、僕は性別関係なく将来の相手を決められなければならないという。冗談じゃない。    何もかもをすっ飛ばしていきなり僕を半身呼ばわりするのは、赤みがかった茶色の目と髪で村一番の力自慢、ルドラだった。ルドラはフィシェルという僕の名前を短く呼ぶとき、他の人とは別にフィーと呼ぶ。これもまた嫌で仕方が無かった。只でさえこの見た目でフィシェルなんて女のような響きの名前なのに、フィーなんて益々女の子みたいで不快だ。僕は男だし、将来を共にするなら当然女性がいい。透明だから男と番えなんて御免だ。    パウロさんがため息をついて黙り、僕も眩しい室内にどうすることもできず立ち竦むと、ルドラが苛々と机の足を蹴った。安物の机が悲鳴を上げる。   「やめないか!他人の持ち物だぞ!」   「だから!他人じゃ無ェって!」   「仮に……君がフィンと半身になる未来があるとしても、今はまだ他人だ。人の家で勝手をしていい理由はない」    パウロさんがきっぱりと言い放つと、ルドラは面白くなさそうに鼻を鳴らした。   「じゃあお前はフィーのなんなんだ、パウロ」   「私はフィシェル・フィジェットの後見人で、彼の仕事の取引相手だよ。少なくとも、君よりは信頼を得ている」   「フン!後見人だと?それは村長であるオレの親父だろ!」   「その村長……ラウェに任されているのが私達夫婦だよ。後見人として言わせてもらうなら……せめて、この時間にフィンが私の家へ納品に来ることがあるというのは、知っていて欲しいね」    ルドラはいよいよ鼻白み、僕の遠目からでも体内の魔力が怒りにうねっているのが分かった。今にも火の魔法を飛ばしてきそうな気がして、僕は慌てて口を開いた。   「る、ルドラ。せっかく来てくれたのにごめんね。なにか用があるなら、明日にしてもらってもいいかな?今日はちょっと目が疲れていて、頭痛がするんだ」    ルドラはゆっくりと近付くと、立ち塞がるパウロさんを押し退けて、未だ家の外にいる僕の目の前に立った。身体が大きい。パウロさんだって僕からすれば随分がっちりしているのに、やはり村一番の力自慢は伊達ではない。   「顔見せな、フィー」    眩しい部屋の明かりはほぼルドラに遮られているので、僕は大人しく目深に被っていたフードを取って顔を上げた。  ルドラの魔力はすっかり落ち着いていて、体外に漏れ出そうな気配もない。僕はホッとして身体の力を抜きかけたが、視界に飛び込んできたルドラの強すぎる視線に、一気に血の気が引いて思わず後退った。そこへすかさずパウロさんが割り込んでくれる。   「……チッ!邪魔すんじゃねェよ」   「今日はもう帰りなさい。聞いただろう、フィンは体調が万全じゃないんだ。君は今すぐ帰って、お父さんにフィンの体質について詳しく聞きなさい。半身などと宣うのはせめて、フィシェル・フィジェットという人間をよく理解してからにしてくれないか」    一息に捲し立て庇ってくれるパウロさんに申し訳なくて、思わずため息が漏れる。それが合図となり、ルドラはまた舌打ちを一つすると、「明日また来る」と僕に告げて、大股で帰っていった。   「……やっと帰った。フィン、青砂でも撒いとくか」   「僕も気分的には撒きたいです……」    しかし明日も来るのであれば、やめておくべきだろう。地面の上に魔除けで有名な青砂が撒かれているのなんて見たら、ルドラがどれほど怒るか分からない。ルドラの力に敵う人間はこの村にはいないのだ。ルドラは未だ成人前のため、村では村長のラウェさんが主に守り手をしているが、純粋な膂力ではとっくにルドラが勝っている。  パウロさんとため息をつき、眩しい部屋に足を踏み入れる。気を利かせて、明るい卓上ランプを真っ先に消そうとしてくれたパウロさんがうめき声を上げたので、手を影にしながらそちらを見る。   「ああ、いいよ見なくて。ごめんね。ルドラのやつ、光量調節のツマミを強引に捻ったようなんだ。イカれちゃって戻らない」   「えっ……こ、壊れちゃったんですか!?」  魔力灯はこんな田舎の村ではそう簡単に新調はできない。特に僕の場合は光量調節の為の細工も必要な上に、稼ぎもそこまで多くない。僕は絶望的な気持ちで足元を見ていた。   「これじゃあ分解するか、中の魔力が切れるまでこのままだな。フィン、魔力を足したのはいつ?」   「出掛けにやったので、ついさっきです……」   「じゃあこれは私が持って帰ろう。直して持ってくるよ」    他にどうしようもないので、僕は素直に頷いた。パウロさんが直してくれるなら、新しくランプを注文するよりずっと安く上がるはずだ。いつも甘えてばかりで申し訳ないけれど、頼らせてもらおう……    パウロさんに手伝ってもらって戸締まりを確認し、見送って家に一人になると、疲れがどっと押し寄せて本当に頭痛がしてきた。普段なら寝る前にも少しは裁縫をするのだけれど、仕方がないので修繕依頼の束を仕分け、戸棚にしまう簡単な作業だけして、早々にベッドに潜ることにした。        翌朝、適当に折ったり千切ったりした野菜や干し肉を突っ込んで、その上から塩を振っただけの簡素すぎるスープとパンの朝ご飯を用意していると、ドアを慌ただしくノックされた。  まさかパウロさん、もうランプを修理したんだろうか?   「はーい!」    もう日は昇っている。一応コートを被り、僕はドアを開けた。  視界に入る赤茶の毛に息が詰まる。   「……ルドラ」   「朝飯?」   「う、うん。おはよう」   「ああ、体調はもういいのかよ」    僕としては頭痛も治ってすっかり元気だったが、活力の塊のようなルドラと同列に語る気にはなれなくて、曖昧に頷く。  それをどう取ったのかは分からないが、ルドラはそうか、と静かな声で言った。    ルドラは僕のことを幼馴染だと言ったが、僕らは実際には大して関わりはない。幼い頃から同じ村に住んでいるから、たしかに幼馴染といえばそうかも知れないが、僕はこの体質の為に引き篭もりがちだったし、ルドラだって僕のことを見かけた事はあっても、いつもフードで顔の見えない陰気なヤツくらいにしか思っていなかっただろう。  それが、もうすぐ成人の儀を迎える今年になって一変した。ルドラを村の守り手にという話が出たとき、村の中に片割れになれそうな人間が誰もいなかったのだ。  薄い赤髪や赤目で、火の魔力を持つ者はいたが、幼かったり既婚者だったりした。そこで白羽の矢が立ってしまったのが、透明の僕だ。  ルドラはフードの陰気な少年はどうかと言い渡されて激怒し、僕を探して顔を見せるように言った。あまりにしつこいので一度見せて以来、すっかりこの調子で半身呼ばわりだ。  そのくせ大して僕のことを知りもしないので、日中連れ出そうとしたり、僕用に調節した暗めのランプを壊してしまったり、面倒なことこの上なかった。   「なんでオマエ、オレを見ないワケ?」   「え……っと」   「そんなにイヤかよ?女みたいなのに、全然可愛くねェな」   「…………」    僕は言葉が見つからなくなって、口を噤んだ。ルドラと話すと大体いつもこうなのだ。  彼の体内魔力は段々苛立ちに棘を見せてくる。こうなると顔は怖くて見ることができない。あのギラつくような強い視線が恐ろしかった。   「チッ!またダンマリかよ!陰気くせェ暗い部屋で飯食ってるから、そんな根暗になんじゃねェの?」   「ぼ、僕は……人より、光に弱くて」   「ああ、聞いたぜ。でも本当にそんな人間がいるか?なァ、オイ!いい加減コッチを見ろよ!こんな……まだ当分冬はこないってのに、当てつけみたいなコートを着やがって!!」    首まで覆うコートを掴まれ、強引にフードを取り上げられる。外はまだ大して明るくないが、左の頬に日光がかかって焦る。  驚いて目を見開いた僕は、珍しく動揺するルドラと目があった。ルドラは僕の、細かな血管が透ける薄赤の瞳を覗き込んで息を呑む。   「……ッ」    互いの息使いさえも聞こえる距離に、僕は背中に嫌な汗をかいた。  ルドラは僕の顔を食い入るように見詰め、部屋に押し入ってくる。  日光から隠れられてホッとしたのも束の間、掴まれている首元が苦しくて眉根が寄る。   「う……ル、ドラ」    赤茶の眼が近付いてきて、思わず顔を背けようとしたが、間に合わなかった。  唇は引き結んだが、その隙間からじわりと染み込むような火の魔力に、体中の産毛が逆立つ。無我夢中で暴れ、自分の魔力でルドラの魔力を全力で押し返していた。   「ッ、ごほっ」    締められていた喉が苦しく、解放された途端僕は咳き込んだ。   「うぇ……っぐ……」    ルドラもルドラで、追い返すときに入り込んだ僕の魔力に顔を顰めている。透明な僕の魔力を力任せに注ぐのは、血液を薄めるような行為だ。さぞ気分が悪いだろう。  ルドラは青い顔で悔しげに僕を睨み付けると、よろよろと家から出ていった。    僕は僕で、無理矢理染められそうになる恐怖にすっかり身体が竦んでいた。あんな行為を、成人したらルドラとしなければならないのだ。最早同性だからとか、そういう嫌悪を通り越していた。  自分が何色かに染まるなんて考えられない。例え女性でも嫌だと思った。僕はいくら透明だからといって、そんなことの為に存在しているわけじゃない……  すっかり食欲が失せてしまった僕は、手付かずのスープを皿から鍋に戻し、パンに布を被せて棚にしまった。  洗面所で口を丁寧に洗い、僕は再びベッドに潜り込む。暗いほうが落ち着くために油断すると夜型になってしまいそうな生活をしているので、普段は昼寝をしないように気を付けていたが、今日は身体が重くてとてもじゃないが活動できる気がしない。  やらなければならない作業は沢山あるが、寝てしまおう。修繕依頼を優先して終わらせ、次回は少し期間を伸ばすか、新品の納品分を少し減らすしかない。起きたら急ぎの依頼がないかもう一度確認しなくては……        どれくらい経ったのか分からない。僕は強烈な吐き気で目が覚めた。慌ててトイレへ駆け込み、胃液を吐き出す。それと共に、赤い魔力の光がキラキラと落ちていって、僕は瞠目した。嘔吐で体力は持っていかれたが、吐き終えた頃にはあれほど重かった身体がすっかり軽くなっていた。  再び洗面所で口を濯いでから水分を摂ると、忘れていた空腹を思い出して、僕はスープを温め直した。乾いたパンをスープに浸しながら食事を取る。  食器を片付けるときに確認すると、外の木影の傾き加減で昼過ぎだと分かった。案外寝過ごさなかったようだ。少し食休みを挟んでから裁縫箱を取り出し、僕は修繕依頼に取り掛かった。    依頼は大抵カーラさんのメモがついている。誰の依頼でどんな希望があるかが大きめの文字で書いてあるので、僕はそれを必死に読み取りながら作業をする。   「マーサさん、スカートの裾が切れたので直してほしい……刺繍を入れてくれたら追加料金、か。急ぎの依頼は……なさそうかな。良かった……」    僕はマーサさんの姿を思い浮かべつつ、ロングのスカートを広げて図案を考えた。薄緑の生地に合いそうな絵柄を少し思いついて、僕はお手本を確認しに寝室へ向かった。  寝室のタンスの中には、母さんの持ち物だった服がいくつも眠っている。母さんは旅芸人なのか踊り子なのかよく分からないが、刺繍の入った派手な衣装をいくつも持っていた。手触りから相当上等なものだと分かるので、もしかしたらこれを路銀に替えながらここまで旅をしてきたのかもしれない。  僕は絵柄にそっと触れて、刺繍糸の部分にだけ魔力を流した。かなり繊細な作業だったが、もう慣れたものだ。数分で僕の目にも蔓草が絡む鮮やかな花々がはっきり見えるようになった。   「うん、やっぱり……これがいいな」    これをあのスカートに全部再現することは不可能だが、簡単にアレンジして刺せばきっと素敵なものになる。僕はお手本をタンスにしまい、部屋に戻って作業を再開させた。  母さんは自分でも刺繍をするようで、弱視の僕でも刺せるよう色々と方法を考え、技術を伝えてくれた。その時に図案も色々と教わり、それが今の僕の生活を支えている。    僕が作業に没頭していると、いつの間にか日が傾いていた。僕は本来は外出用に使っていたランプに小さなあかりを灯し、伸びをする。今朝はどうなることかと思ったが、作業は波に乗っている。少し遅れがあるとはいえ、意外といつもと変わらない程度には刺せるかもしれない。  僕は目を休めるために瞼を下ろし、椅子に座ってのんびりと過ごした。食事はいいや。ああそうだ、少し休んだらシャワーを浴びよう……そう考えていたときだった。  トントン。ノックの音が鳴り、僕は驚いて体を跳ねさせた。誰だろう?まさかまたルドラ?思わず身を硬くしたが、聞こえた声に慌ててドアへ駆け寄った。   「こんばんは、フィン。作業中だったかな?」   「こんばんはパウロさん。丁度休憩中でした」    パウロさんは直したランプを持ってきてくれた。昨日の今日で驚いたが、店番の合間にコツコツやっていたら閉店間際に終わってしまったらしい。それですぐに届けてくれたそうだ。 「ありがとうございます。あの、いくらくらいでしょうか?」 「いや、いいよ。請求するとしたらルドラだしね。それより、ちょっとだけ話したいんだが……いいかな?」    僕も今朝のことをパウロさんかカーラさんに言ってしまいたい気分だったので、快く部屋に通した。   「すみません、出しっぱなしで……片付けて、お茶を淹れますね」   「ああ気にしないで。すぐ済むことだ」    椅子にも座ってくれないようなので、僕も慌てて振り返る。そんなに急ぎの話なのだろうか?となれば聞くしかない。悲しいことに、僕がお茶を淹れる手際はすこぶる悪い。   「実は今日来てくれた行商人から、王都のお触れが届いてね。ここはかなり辺境だから、そもそもお触れが出てからかなり時間が経っているようだった。早めに答えを出さないといけない。王命は絶対だから……」   「王命……ですか」    僕は手のひらが嫌な汗でじっとりと湿るのを感じた。僕にこんな話をするなんて、関わりがあること以外に考えられない。   「"熱砂の王子の半身のため、至純を探し出せ"……これがお触れの内容だ」   「しじゅん……?」   「至純というのは、無色透明の、極めて純粋な魔力を持つ者のことだ。つまり……フィン。君だ」    僕は脚の力が抜け、慌てて背後のテーブルに手をつこうとしたものの、最終的にその場にへたり込んでしまった。まさに今、ルドラの片割れなんて嫌だと、そもそも誰かの色に染まるのが苦痛なのだと、パウロさんに打ち明けようとしていたのに。  助け起こそうと差し出された手を取ることもできなかった。   「フィン……」   「ぼ、ぼ、く……今日、朝、ルドラに……無理矢理キスをされて。魔力を流されて……」   「なっ……!?いや……染まってしまったようには見えないが……?」   「押し返しました。その後、身体に残った赤い魔力は……吐きました」   「そうか……良かった」   「よく……ないです。僕、分かったんです。ルドラは関係ない。そもそも、染まってしまうこと自体嫌なんです。あんなに、あんなに恐ろしいことだったなんて」    涙で視界がぼやけ、只でさえ弱視の僕の瞳はいよいよもってあやふやな世界を映していた。パウロさんがどんな表情をしているのか分からない。でも、ぼやけた視界にも感情による魔力の流れは鮮やかになだれ込んできて、僕は堪らず目を瞑った。  後悔、落胆、諦め。その割合を見ても、パウロさんは僕を王子に差し出さない選択は取らないのだと分かってしまう。   「フィン……」   「もう、先触れを、返事を……してしまったんですね……」   「ああ……すまない。王命だったのもあるが、君がこの村で暮らすよりはと……思ってしまったんだ」    パウロさんがそう決めたのなら、僕は従うしかない。母さんと僕を救ってくれた恩人だ。断れるはずもなかった。それにこの村にいたところで、僕はルドラから逃れることができない。 「僕は……いつまで、ここにいられるんでしょうか」   「行商人はできるだけ飛ばして大きな街に行ってくれると言っていた。そこから早馬を雇って、報せを届けてもらう。フィンの体質のこともちゃんと伝えておいた。準備をして来てくださるだろうから、早くてもひと月ほどはかかるだろうな。もしくは先に、確認のための使者でもくるのかもしれんが」   「ひとつき……」    僕は思わず、机の上に広げている修繕依頼の束を見上げた。パウロさんは視線を追って苦笑する。   「これは……別にもう、やってもやらなくてもいいんだ」   「そんな……」    ここでの暮らしを否定されたような気持ちになって、僕は呻く。   「う……でも、至純は他にもいるんでしょう?僕じゃなくても……」   「……そうだな。そういう可能性もあるか。私も気持ちが急いていたようだ。すまない。すでに受けた分はできるだけ仕上げてくれるかい?」    諦めが渦巻く体に向かって、僕は力なく頷いた。    
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