ゆかしき食卓

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 働き出してから六年間、ずっと使っている腕時計の針が、午後の十時を回ったところだった。教員の働き方改革が叫ばれる昨今、しかし現場はどこ吹く風だ。僕自身も高校教師の一人として、授業に部活にと、日夜、業務に奔走している。  今日はなかなか骨が折れたので、適当に外で食べて帰ろう。明かりの灯る看板を順に目で追い、牛丼屋の自動ドアをくぐった。  小さな店内には、客が一人。食券販売機の前に立ち、今の気分と体の調子とを、メニューに照合する。今日は少し奮発して、すき焼き定食かな…… そこでふと、嫌な予感が胸をよぎった。ゆっくりと手を尻ポケットに回し、その予感がおそらく的中するだろうことを知る。  いつもの場所に、ないのだ。………………財布が。  往生際悪く、ばたばたと胸ポケットや薄いカバンの中を叩いてみるが、探し求めている感触には巡り会えない。ゆっくりと記憶をたどり、そういえば残業中、校内の自販機に立ち寄ったあとなんとなくデスクの上に放り投げたっけなと思い起こす。はあ、と一つため息をついて肩を落とした。今日は自炊する気力も体力も残っていないってのに。  あー、いいや、帰ってさっさと寝よう。  やるせない気持ちで、体を出口へと方向転換しようとしたときだった。  右肩の横を、すうっと、少ししわの寄った千円札と、それから僕のじゃない腕が通過していく。ぎょっとして振り返るより先に、声がした。 「どうぞ」 「……え?」  真後ろに並んでいたらしい一人の少年と目が合う。千円札が、かすかな音を立てて紙幣投入口に吸い込まれていく。 「明日、返してくれればいいんで」 「え、明日って? ………あ、」  一瞬困惑したけれど、少年の身を包むブレザーの校章が、僕の全ての疑問を解へと導いた。
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