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 八月三一日。腕に付けた時計の時刻は、午後九時を示していた。  フクロウと虫たちの囁きが広がる、木々の生い茂った山の中。街灯なんていう無粋なものはなく、空から零れる月と星の明かり、手元の懐中電灯だけが目先のけもの道を照らしてくれていた。 「えっと……ここを右に行って……」  標識も案内もなく、行路の当ては土地勘と記憶のみしかない。少しでも向かう方向を間違えれば、帰ることの叶わない樹林の迷路を行く。他人に今の状況を語れば正気を疑われるのは必須だが、迷子にならない自信があった。  理由は、ずっと目の前に映し出されている記憶が作り出した幻影。焼き付いた思い出の蜃気楼が、ぼくを目的地へと案内してくれていた。  案内人は、十歳のぼくとその手を握ってくれている妙齢の女性。当時は、木しか見えないこの景色の違いなんてわからなかったから、向かっている方角なんて見当もつかなかったから、この道を歩くのが怖かった。  繋がれているその手が命綱で、離さないように力一杯握ることで安心を求めていた。  胸に温かさを与える記憶を散らかすように広げながら、目の前の幻覚についていく。
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