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光 明
前方にパトカーが停まっている。
ふいに婆の足がとまった。葉那子も立ち止まって、婆の顔を見上げた。
一瞬、蜥蜴が婆の頬を伝っているように少女には見えた。ちょうど、道に迫り出した木の枝が、朝焼けの色に染まった木漏れ陽をのせて婆の顔に陰影をつくっていた。
風に揺れる枝の影が、生き物のようにゆらめいて、蜥蜴が這う様を少女に連想させた。それは婆の心理の奥底を映し出したものだったかもしれない。
「ねえ、葉那子ちゃん、お別れよ」
婆の声は澄んでいた。
自分の名を呼ぶ婆が、本物の、まだ若い祖母のようにも思われてきて、少女をつかの間の感傷が襲った。
「あそこまで行けば、無事に、保護してくれるわ」
婆が言った。
すると、意外にも、少女は初めて逆らった。婆の左手を掴むと、イヤイヤと首を横に振った。声にはならない。まるで、昨日までの婆のように、喋れないふりをしているかのように、言葉にはならない感情の束を噴出させた。
しゃがんで両の手を葉那子の肩にのせ、婆は言った。
「┅┅話してあげた、わたしの娘の春奈は、未来の┅┅未来ちゃんのママなの」
少女が理解したのかどうかは婆には判らない。それでも、婆は喋り続けた。口を動かすことで、この先待っているだろう過酷な審判に備える覚悟のようなものを芽生えさせようとしていたのかもしれない。
「春奈が死んだとき、未来ちゃんは五歳だったの。それからあいつが┅┅未来ちゃんのパパがすぐに再婚して、未来ちゃんに新しいママができてから、一度も孫に会わせてもらえなかった┅┅」
┅┅何度も交渉したが断られた。孫の未来に会いたい一心で、小学校で待ち伏せたこともあった。ところが、そこで未来が不登校だと聴いた。どうやら自分の子ができた継母との関係がうまくいっていないようだった。興信所に調査を依頼し、そのことが裏付けられた。その頃、婆が出会った男の悪い仲間が、海原家の資産を狙って詐欺まがいの投資を持ちかける計画を練っているらしいことを聴いて、決心が固まった。男たちの計画に変更を加えることを提案した。空き別荘も紹介した。喋れないふりをしたのは男たちを安心させるためだけでなく、口調や声の抑揚から自分の真の計画を悟られないようにするためだった。
すべては、孫の未来を救うためだった┅┅。
男どもの隙をついて未来と二人で、遠くへ逃げる計画。そのための準備は万端だった。ふもとの駐車場に、逃亡用の着替えや食糧を積んだ車を用意していた。でも、連れてこられたのは未来ではなかった。
┅┅そこまで一気に喋ったところで、葉那子にはそれを受けとめるだけの判断の容量はないだろうと婆は知っている。自首したときの口上の練習のようなもので、理解できないまでも少女には伝えておきたかった。そうせずにはいられなかった。
「┅┅一番悲しかったことは、あれほど、春奈の影響で、花好きだった未来ちゃんが、花を見るたびに気鬱になったってこと。花が大好きだったママを思い出すのが、つらかったのね。たぶん。それなのに┅┅間違われて誘拐されたあなたの名前が葉那子だなんて、ほんとに、もう、どう言っていいか┅┅」
ひとしきりぼやいたあとで、婆は立ち上がり、少女を急かして歩きだした。
婆は知っている。
マーガレットの花言葉。
真実の愛。信頼。だから、せっせと柵の傍らにマーガレットを植えた。娘の春奈が一番好きだったホワイトとピンクを選んだ。
それもすべてが無駄になった。
けれど、いまとなっては、葉那子を傷つけずに救うことができたことがなによりの誇りにおもえた。
花言葉なんて、所詮、都合よく人間が考えたものだと、いまも、婆はおもう。それは変わらない。だから、自分なりのマーガレットの花言葉を思いついた。〈予期せぬ出逢い〉
それでいい。それがいい。ふふんと笑った婆の表情が引き締まった。
検問の警官が歩み寄ってくる┅┅。
すると、いきなり葉那子はしゃがんで道端の土をつかんだ。
そして、掌にのせて、自分の頬と額をなでた。これで、野球帽を深くかぶれば、男の子に見えるにちがいない┅┅。
葉那子は婆の手を強く握った。
警官に喋りかけようとした婆を制するように、叫んだ。
「婆、早く、おうちに帰ろう!お腹がすいたよぅ、顔を洗いたいよう、早く、は、や、く!」
それを聴いた警官が、野球帽とベストの胸に光る保安官バッジをみた。疑うそぶりもなく、二言、三言、婆に話しかけてから、通行止めのチェーンをはずして二人を通した。
唖然としたまま婆は歩く。
葉那子は、リズムをとって謳うように、
「早く、は、や、く」
を繰り返している。
そのとき、婆は、こう考えた。
やはり。
マーガレットの花言葉は〈信頼〉でいいかも、と。花言葉に、意味を持たせるのは、つまるところ、こちら側の気持ちのありようなんだ、と。
遠ざかる二人の背を射った朝焼けの名残りが、消えることなく、まだそこかしこに留まっている。
唐突に葉那子が叫んだ。
「ねえ、知ってる?とかげは、しっぽを切られても生えてくるのよ」
( 了 )
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