猫には内緒でキスをしよう

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「……もしもし」  おそるおそる、慎一が通話に出ると、『よう、元気か』と思っていたよりずっと穏やかな声がして、慎一はぺたりと床に座り込んだ。濡れてしまうのも構わずに。 「……まあ、まあだよ……そっちは?」 『俺もそんなに元気じゃないよ。仕事が忙しくて』 「そう……」  久しぶりに聞く、何年も付き合った元恋人の声は、慎一の胸に深く刺さった。ああ、こんなふうに話す男だった。いつも自信があって、頼もしくて、横顔は精悍で整っていて。付き合えた時は有頂天だった。最初の浮気が発覚するまでは……。 「何? なにか、用……?」  ぼたり、と髪から雨の雫をしたたらせながら慎一が尋ねると、『用がなかったら電話しちゃいけないのかよ』と藤野が答えた。そういうわけでも、ないけれど。 『お前全然電話に出ないし、折返しもないし、メッセも既読になんないし……』 「それは……ごめん。こっちも忙しくて……」 『それは、いいけど。なあ、慎一』  慎一、と呼ばれてどきりとする。家族と絶縁していて、もともと友人も多くない今、慎一と呼ぶ相手はほとんどいない。「なに……?」何を言い出すのか、半分くらいわかるような、それでいて聞きたくないような複雑な気持ちで続きを促した。 『……俺が、悪かったよ。何度もお前を傷つけて……ごめんな』 「……っ」  優しい声が、耳から胸に届いた。(智也……)ずっと、そう言ってほしかった。いつだって有耶無耶にされて、なし崩しに丸め込まれて、他に誰も愛してくれないからと彼にしがみついていた自分を思い出す。ようやく、謝ってくれるのか。 「智也……ぼく……」  もしも、やり直せるなら。もう一度、すべての時間を巻き戻して。出逢ったあの日のときめきのままに、優しい関係を築くことができるのなら……。すがるような気持ちで名前を呼ぶと、藤野が言った。 『今度、俺の置きっぱなしの荷物取りに行くよ。迷惑かけて、すまないな』 「……!」  違った。(ああ……)終わっているのだ、彼の中ではもう、とっくに。忘れられなかったのは自分だけ、はっきりと突きつけられて、慎一は座ったまま項垂れた。 「……わかった。来る時、連絡して……まとめとくから……」 『ああ、ありがとう。じゃあな』  ぶつりと通話が切れて、慎一はひとりぼっちで床に座り込んだまま、ただ涙を流した。明るい光に逢いたかった。先輩は悪くないですと言ってほしかった。でもその願いは、きっと永遠にかなわない。     *    *    *    *   「え、僕が……マーケティングに?」 「そう。もしよかったら、考えてみてくれないか」  突然、チームリーダーの高瀬と、同期の陣内の先輩である坂口にまとめて呼び出されて、どういうことかと訝りながらミーティングに出ると、議題はマーケティング部への異動の打診だった。あまりのことに、うまい言葉が出てこない。 「うちとしても、お前がいなくなるのは痛手なんだが……もともと、入社時の希望はマーケティングだっただろう?」 「……あ、はあ……はい、そうですが……でも、どうして僕を……?」  ついていけずに光が尋ねると、高瀬からどうぞ、と促された鉄面皮の坂口が口を開いた。 「同期の椿から、よく君の話を聞いていてね。とても覚えが早くて優秀だと」 「……先輩が……」  こんなところでも、あのひとが。慎一が同期の坂口に、まさか自分の話をそんなにしてくれていたなんて……。思わぬチャンスに、光は唾を飲み込んだ。でも。 「マーケティングに興味は、あるんだよね?」 「え、ええ……そうですが……」 「考えてみてくれ。といっても一週間くらいしかあげられないが……」 「よく考えろよ、香澄」 「……はい……」  ミーティングルームを出て、光はまっすぐ自分の席に戻った。隣の慎一はいつになく静かで、何の話だったとも何も聞いてこないところを見ると、既に知っているのかもしれなかった。 (マーケティング、か……)  花形部署のひとつで、入社前から憧れていたことは事実だ。今も興味があるし、坂口のようなタイプの先輩の下で働いてみるのもいい経験だろうと思う。何より、このまま慎一と同じ部署で先輩後輩として今まで通り働くことが、切なく胸を痛めつける以上、行くしかないのかもしれない……。 「……ちょっと、休憩行ってきます」  混乱したまま、光はひとりでエレベーターを降り、ビルの外の喫煙所に立ち寄った。あれ以来また吸うようになった、というほどの本数ではないが、喫茶店の外で買った残りから一本を取り出して火を付ける。 「……」  異動か。たった一年で。紫煙を吐き出しながら、その向こうに慎一の顔が浮かんだ。 (光くん)  いつも優しく微笑んで、自分を助けてくれた先輩。入社してすぐの花見も一緒に場所取りに付き合ってくれて、皆より一足先に、満開の桜の下、ピンクのシャンパンで乾杯したのを覚えている。 (これから大変なこともあるだろうけど、何でも相談してね)  その言葉は決して社交辞令ではなく、どんな時も先輩として慎一は光を教え導き、守り、支えてくれた。行き違いでクライアントと揉めた時も代わりに頭を下げてくれたし、トラブルを何度も解決してくれた。 (光くんといると、楽しいよ)  何十回と一緒に客先訪問を重ねて、行き帰りにカフェに寄ったり、通う途中の道で他愛もない話をした。どんな話でも慎一は笑ってくれた。  出逢った頃からの、思い出が蘇る。花見のときに散り初めた桜の花びらが慎一の黒髪に落ちて、それを取ってあげた時のはにかむ笑顔。珍しくお弁当を作ってきた慎一からもらった唐揚げが美味しかったこと。  ワイングラスを摘む慎一のほっそりした指、その唇が赤ワインでもっと赤く染まるのを見つめた夜。会社の皆でのバーベキューで、一緒にレンタカーで歌いながら向かったこと。いつだって楽しかった。きらきらと輝く、第二の青春の日々だった。 (先輩……)  思い出が、光を苛む。(先輩)好きです。好きなんです。あなたのことが……。だからこそ僕はもう、あなたから卒業しなければいけないのかな。もう諦めて、別々の道を行くべきなのか。気づいたら、光はスマートフォンを取り出して、ある番号に電話をかけていた。出てくれる、だろうか。 『……もしもし?』 「あ……千葉? 今、ちょっと平気?」 『平気だけど。どうした?』  出てくれた。それだけでほっとして、涙が滲みそうになる。もうどうしたらいいかわからない光にとって、唯一相談できるのは千葉しかいなかった。 「実は……部署異動の打診が来たんだ。マーケティング部に来ないかって……」 『……お前は、行きたいのか?』 「わからない……興味はあるけど、今のところでやり残したこともあるし……」 『……』  千葉が電話の向こうで沈黙する。これは、お前が考えろという意味だろう。聡明で優しい千葉は、無意味なことや軽率なことは決して言わない。 「マーケティング部も、いいかなとは思うよ。でも……このまま、先輩と気まずいままで……逃げて、いいのかなって……」 『いいわけないだろ。好きなんだから』 「!」  びしりと言われて、光は目が覚める思いがした。(千葉……)お前はそんなふうに、言ってくれるのか。この自分に。こんな、情けない男を想って。 『いつかマーケティングに行くにしたって、仕事も全部やりきって、言いたいことも全部伝えて、すっきりしてから行くべきだ。じゃなきゃ、どっちにも失礼だろう』 「……うん……そう、だよな……わかった、行かないよ。今はまだ、行けない……」 『しっかりしろよ。お前は、そんなに弱くないはずだろ』  気合を入れられて、光はぐっと胸が詰まる。(ああ……)やっぱり千葉は、自分のことを理解してくれているんだな。なのに僕は千葉じゃなくて、別のひとのことが好きなのだから、人の心というのは複雑だ。それでも千葉は、こうして応援してくれる。   「……ありがとう。俺、当たって砕けてみるよ、千葉……」 『ああ。……俺はお前の、純粋なところが好きだよ、香澄』  それきり、通話は唐突に切れた。もう十分だ、と滲んだ涙を拭って、光は最後の煙草をもみ消した。もう、吸うことはないだろう。     *    *    *    * 「悪いな、慎一」 「ううん……じゃあ、これ、一緒に運ぶね」 「ああ、ありがとう」  荷物を受け取りに家まで訪ねてきた藤野は、いつもどおりスーツがよく似合う大人の男といった風情で、長い前髪を真ん中で分けた顔は今日も美しかった。 「……」  何も、語ることはない。気まずい沈黙のまま、オートロックの外のエントランスまで一緒に荷物を運んで、藤野の車に乗せた時。 「……なあ、慎一……」 「え……?」  何かを、藤野が言いかけた時。「先輩!」突然、思ってもいなかった声がした。はっとそちらを見ると、何故かそこには、息を切らした光が立っていた。 「先輩……っ、あの、僕……」 「光くん……?」 「……なんだ。もう新しい男がいるのか」 「え?」    チッ、と舌打ちが聴こえて。見やると、藤野はいつも浮気を咎められた時の、あの下衆な表情を浮かべて、別人のようになっていた。あの冷たさを思い出して、全身が凍りつく。 「なんだよ。ならそう言えよな……思ってたより軽いんだな、お前」 「……っ」  なんでそんなことを、言われなくちゃならないのか。そう思っても、ざっくりと言葉の刃で傷つけられたショックで声を失い、ただ慎一が呆然と立ち尽くした時。その目の前に、光が慎一をかばうように割り込んできた。 「謝れよ」 「あ?」 (光くん……)見知らぬはずの藤野に、光がはっきりと言った。謝れ、と。 「椿先輩に、謝れ。お前にはもう、関係ないんだから」 「何だと?」 「……っ、光くん、いいんだ、いいの……」 「よくないです。失礼過ぎる」 「なんだこいつ、……じゃあな、慎一」  チッ、とまた舌打ちをして、結局謝ることもなく藤野は車に乗り込んで去っていった。「……」残された慎一は、憤慨している光を見上げる。 「……ごめんね、変な所見せて……」  それしか言葉が出ずに、慎一は項垂れた。こんなところ、光に見られたくなかった。でも。 「……かばってくれて、ありがとう……ぼく、何も言えなくて……」  惨めで情けなかった慎一を、光はまた救ってくれた。先輩に謝れと、失礼だと、慎一に成り代わって言ってくれた。嬉しかった。嬉しかった……。 「でも……一体、なんでここに……?」 「……話したいことが、あるんです。よかったら、入れてもらえませんか」 「え……」  なんだろう。「いいよ……」わけもわからないまま頷くと、緊張した面持ちで光がついてくる。混乱した頭で、慎一はただ、光にまた会えた喜びを噛み締めていた。     *    *    *    *  「コーヒーでも、飲む? インスタントだけど」 「いえ、おかまいなく」  光が断ると、慎一はそう、と言って、光と並ぶ形でソファに腰を下ろした。柔らかな癖のある黒髪に、細く長い首、紅い唇。いつ見ても美しい人だった。 「……先輩。僕、先輩に、謝りたくて……」 「何を?」 「先輩のプライバシーに、土足で踏み込んで……すみませんでした」 「……そんなの……もういいよ」  慎一は、この前のように魂が飛んだ抜け殻めいた表情は浮かべなかった。ただたださみしげで、悲しそうで。なんとか慰めてあげたくて、光の胸はつんと痛む。 「見たでしょう……ぼくは、付き合ってた男にないがしろにされてた……ゲイだからって家族からも絶縁されてるし、それが惨めで、ずっと隠してただけ……」 「……先輩……」  そんな顔をしないで。いつものように笑って。傷は僕が、癒やしてあげるから。あなたがどんな人生を歩んできたのかを知らない。あなたがどれだけ傷ついたのか想像もできない。でも、僕がいる。そう言いたくて、じっと目を伏せる慎一を見つめた。 「……がっかり、したでしょう……? こんなぼくは、嫌いだよね……」 「いいえ」  きっぱりと言い切ると、慎一が驚いた様子で顔を上げる。いいえ、先輩。僕はそんなことで、あなたを嫌いになったりしません。そっと、ソファに置かれた手に手を重ねた。今こそ、すべてを打ち明ける時だとわかった。 「先輩、違うんです。僕は……僕は、あなたが好きなんです」 「え……?」  優しくて、癒えない傷をかかえたあなたが。他の誰でもない椿慎一、そのひとが好きなのだと告げると、慎一が大きな目を見張った。 「僕は、あなたを守りたい……あなたを絶対に傷つけたりしない、もう二度と」 「光、くん……」 「あなたを、抱きしめたい……ごめんなさい、避けてたのは嫉妬からでした」 「……っ」  ぶわ、と慎一の瞳に、涙があふれる。ああ。「先輩……慎一さん」名前を呼ぶと、うっ、と泣き出してしまう。先輩、先輩。どうか、答えをください。 「……嬉しい……嬉しいよ、光くん……ぼくは、光くんといたい……!」 「慎一さん……!」  思わず慎一の細い体を、正面から強く抱きしめた。「光、くん……!」あなたが泣く時は、いつもそばにいる。あなたが悲しい時は、僕が抱きしめる。あなたを守ってあげたい。どんなに残酷な冷たい世界でも、あなたには僕がいます。  今までのすべての道が、ここに繋がっている。僕らは出逢って、共に長い時間を過ごして、お互いを助け、惹かれ合ってここにいる。もう、離さない。 「夢、みたいだ……本当はずっと、……こうして、ほしかった……」  腕の中で泣きながら言う慎一が、愛しくてたまらない。くちづけようと身体を離すと、どこかからやってきた猫のフウタがぴょん、と慎一の膝に飛び乗った。 「あれ……」 「ごめん。この子、ヤキモチ焼きなんだ……ふふ……」  こっそり慎一の手で、フウタに目隠しをして。それを合図に顔を近づけて、初めての、先輩後輩の関係を超えるキスをする。ちゅ、と唇を吸うと苦い涙の味がして。 「……好きです、慎一さん……」 「ぼくも……」  もう一度、気持ちを確かめるように口づける。この恋はしばらくの間は、猫には内緒で。 END
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