猫には内緒でキスをしよう

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「へー、仕事順調なんだ。よかったじゃん」 「ん、まあ」  大学時代の友人である千葉柊介(ちば しゅうすけ)と久々に彼の地元で飲むことになり、ひとしきり近況を報告すると、千葉はもともと細い目を更に細めて笑った。 「人間関係も悪くねえの?」 「うん。先輩、めっちゃいい人だし」 「そりゃ良かったな」  そう言う千葉自身は今だに大学院に籍を置いており、微生物だか何かの研究に余念がない。忙しい彼に合わせて下宿の近くまでやって来たはいいが、土地勘もないまま二軒目につれて行かれたのは若干あやしげなバーだった。薄暗い明かりの中で千葉のほっそりした横顔を見ながら呑んでいると、すぐに酒が回ってきた。 「あー……煙草吸いたい」  思わず光が正直な気持ちを呟くと、千葉が自分のポケットに手を入れた。 「あるぜ? 一本やるよ」 「……いや……いいよ、我慢する」 「なんで?」 「……なんでって……」  だって、あのひとが、悲しむから。一本だけ、と吸い出したが最後、結局何ヶ月も続いたこの禁煙がなし崩しになってしまうことはわかっている。光はいいよ、ともう一度首を振って、差し出してきた千葉の煙草を押し戻した。千葉がふうん、と言いながら「俺は吸うけどな」と自分の口元で火を付ける。 「……」  あのひとを。先輩を、裏切りたくない。なぜそんなふうにまで思うのか自分でもよくわからなくても、その気持ちが吸いたい欲に打ち勝った。僕、煙草吸いたかったけど我慢しましたよ、ってあとでメッセージを送ってみようかなんて思いながら、光はその後も二杯ほど呑んだ。バーを出ると、視界がぐらりと揺らめいた。 「うー、気持ち悪……っ」 「おいおい吐くなよ、しっかりしな。ほら水」 「ありがと……」  道端のガードレールに座って俯いていると、ペットボトルの水を買ってきてくれた千葉から受け取ってがぶがぶと飲む。次第にすうっと気分の悪いのが引いてきた、と思った時。(……?)遠目に、何かを見た。気がした。 「……あれ……?」  あれって。遠くに見えるドラッグストアから、見覚えのある人影が出てきた。手に下げている袋からは、猫のイラストが大きく描かれた商品が透けて見えている。(あれって……)もしかして。もしかして、あれって。 「椿、先輩……?」  光が思わず、声を零した時。明らかに慎一その人に見える美しい青年の後ろから背の高いスーツの男が出てきて、その細い腰に手を回した。ふたりは見つめ合い、笑みを交わして、そのまま道の向こうへと歩いていく。呆然とする光に、千葉が「顔色悪いぞ」と呟いた。そんなことは今は、どうでもよかった。 「……なんだよ、あれ……」    ほとんどのことは、知ってるつもりだった。なのに今、その光の目の前で、先輩と呼ぶ男は知らない男に腰を抱かれ、猫の餌を手に、夜の街へと消えていった。 
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