猫には内緒でキスをしよう

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光くんが、妙だ。このところ様子がおかしいと、慎一の勘がそう告げていた。 「ねえ、光くん」 「! あ、はい?」 「ごめん、集中してた? お昼一緒にどうかと思ったんだけど……」  隣のデスクでPCに向かっていた光に慎一が声をかけると、必要以上にびくっと反応した光がこちらを見る。が、その目は微妙に泳いでいる。そんなことは、今まで一度もなかったのに。先週の月曜からずっとこの調子だ。 「あ、えっと……今、ちょっと手が離せなくて……」 (ほら)やっぱり、断ってくるよね。これで三回連続だ。明らかにエクセルを開いたままぼうっとしていたように見えたのに、光はいつもなら二つ返事でついてくるはずの慎一の誘いをさり気なく断った。 「そう? わかった……何か買ってこようか?」 「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」 「ん……」  仕方ない。財布とスマートフォンを片手に立ち上がる。光はもう目線をPCの画面に戻していた。つれないな、と思う。出逢ったその日から、人懐っこい光は先輩お昼一緒に行きましょうよ、なんて自分から慎一の後を追ってきていたのに。 「……」  適当に入った蕎麦屋で鴨せいろを頼んで、運ばれてきたきた食事をぼそぼそと食べる。(ああ……)光がいれば、ふたりで話すことだってたくさんあるし、笑えるし、お蕎麦を食べ終わったら近くのカフェで軽くお茶でもして、楽しい光の話を色々聞けるのに……。 (光くんがいたらなあ、なんて……)  あれ。ぼくって、もしかして寂しいのかな。同期は他の部署にしかおらず、光が来てからはずっと一緒に行動していたことを思い出し、慎一はむう、と口を一人で尖らせた。ひとりぼっちじゃ、食べても美味しくないよ、光くん。 「……なんで、なのかな……?」  また来週、と別れた先々週の金曜日までは、今までの光と何も変わらない、明るく聡明で礼儀正しい後輩だったのに。まさか、こんなに急に避けられる?なんて。 (ぼく、何かしたかしら……)  もちろん仕事には一切支障が出てはいないが、客先訪問もひとりで平気ですと言って単独で行くようになったし、一緒に行動するときも、礼節を保ちつつも、今までとはどこか雰囲気が違っていて。光の方から積極的に話しかけてくることが、ほとんどなくなってしまったことに慎一は気づいていた。それが、寂しかった。 (先輩!)  笑いかけてくれる光が、今ではもう懐かしかった。突然の態度の急変に思い当たる節もなく、慎一はただいつもどおりに接することしかできなくて。 「はあ……」  ぼくって意外と、光くんに依存してる? ふとそう思って、ため息をつく慎一だった。可愛い後輩、もしぼくが何か悪いことをしたなら、そう言ってくれたらいいのに……。一人で食べるランチは、ひどく味気なかった。       *    *    *    * 「……あー……」 「なんだよ。元気ないじゃん」  久しぶりに昼飯でもどうだ、と同期でマーケティング部の陣内祐希(じんない ゆうき)に誘われてランチに出ても、光の気分は晴れなかった。  今日もまた、椿先輩の誘いを断ってしまった……罪悪感と気まずさで、光の胸は潰れてしまいそうだった。 (だって……)  あれ以来、まともにあのひとの顔が見れないんだ。幸せそうに笑っていたあの笑顔、持っていた猫の餌、腰を抱いていた男の背格好ばかり思い出してしまって。気になって仕方がないのに、聞けるはずもない。猫飼ってるんですか? なんて、気軽に聞けばいいことのような気もするが、どうしてと聞かれたら答えられない。 「うーん、まあ……」 「珍しいな。仕事でなんかうまくいってないことでもあんの?」 「いや……仕事は、別に……」  先日千葉に聞かれたときと同じように適当に濁すと、小柄で明るい髪の色をした陣内は変なやつ、とばかりに首を傾げた。 「何かあるなら、ちゃんと椿さんとかに相談しろよ?」 「……っ」  それができたら、苦労はしない。光をいま悩ませているのは、その椿慎一本人なのだから。そんな事情は知る由もない陣内は、カレーライスをぱくぱくと食べながら続ける。 「ほんと、いいよなー先輩が優しくて。うちなんて相変わらずの鉄仮面だぜ」 「ああ、坂口さん? かっこいいじゃん」 「いやそりゃ、見た目はいいけどさ! にこりともしねえんだぜ、いつも」 「怒られるの?」 「怒ってるようにしか見えねえの! まあ、仕事はできるけど……」  陣内はそう言うが、実際仕事では有能な先輩である坂口春人(さかぐち はると)のことを慕っていなくはないのが透けて見える。鉄仮面、というのもある種、親愛の情をこめたひそかなあだ名なのだろうと光には思えた。  まさか、よその先輩後輩関係が羨ましくなる日が来るなんて……。自分たちが一番のコンビだと。ずっとそう思っていたのに。 (先輩)  僕、先輩を尊敬してるんです。ちっとも嫌ってなんかいないんです。誘いを断るたびに、少し寂しそうに、何か言いたげに困った顔で笑う慎一を思い出す。その綺麗な首筋に紺色のネクタイを締めて、ふふっとやさしく微笑む慎一と、本当は一緒にいたいのに。一緒にいれば、何を話していいか急にわからなくなってしまって。 「……」  どう接したらいいか、わからない。ああ、煙草が吸いたい、と思った。悶々とする心を鎮めるために。だめだ、だめだ……せっかく頑張って禁煙したんじゃないか。あのひとが悲しむ、優しい先輩が。でも、その先輩だって、僕に隠してたことがあるじゃないか。そう思うと、無性に悔しくなって。すると、図ったようなタイミングで食べ終わった陣内が言った。 「な、一本吸っていいか?」 「え、ああ……うん」 「お前も吸う?」 「……」  陣内といるといつも喫煙席で、入社当初はよく喫煙所で落ち合っては愚痴を言い合った。今も煙草を嗜む陣内に誘われて、光は一瞬考え込む。 (光くん、えらいね)  禁煙続いてるんだね、と褒めてくれた時の、慎一の微笑みが脳裏に浮かぶ。ここで一本吸ったからってなんなんだ、と思う一方で、きっと慎一はいずれ気づいてしまうだろうとも思う。その時、がっかりするだろうか。それとも。 「……や、いいよ。やめたから……」  あのひとが僕に、隠し事があるとわかっても。僕は隠したくない。それが途切れそうな二人の絆を繋ぐ唯一の方法のような気がして、光は断った。       *    *    *    * 「かんぱーい!」  今日は久々の、チームでの飲み会だ。がちん、とグラスやジョッキを合わせて鳴らすと、光はぐい、とビールを煽った。ごぶごぶと何口か飲み下してはあ、とジョッキを置くと、斜め向かいに座った慎一と目が合った。どきりとする。 「良い飲みっぷりだね、光くん」 「はい……」  ああ。なんて、綺麗なひとなんだろう。にっこりと微笑む慎一は色が透けるように白く、笑うと片頬にえくぼが浮かぶ。ほっそりと長い首にまとわりつくネクタイはすでに軽く緩められていて、リラックスした雰囲気があった。 「最近あんまり話してなかったもんね。何かあった?」 「え、……いや……特には……」 「香澄! 飲んでるかー!」 「はいっ、飲んでます!」  チームリーダーである高瀬の声が上座から飛んできて、光はすかさず座敷の席を立った。これ以上、慎一と会話を続けるのから逃げるために。 「すいません、ちょっとリーダーのとこ行ってきます」 「あ、うん……」  置いていく慎一が、名残惜しそうにしていたのは気のせいだろうか。ジョッキを持って高瀬の隣に移動すると、声の大きなチームリーダーが嬉しそうに笑った。 「おー、さっそく来たか香澄! いい心がけだぞ」 「はい。今日は、リーダーのお話を聞きたくて……」 「えー、俺か~!?」 「お子さん、いくつになりましたっけ?」  高瀬と当たり障りのない会話を続けながら、視界の隅で慎一が誰と喋っているかを気にしてしまう自分がみじめだった。そんなに気になるなら、一緒にいればいいのに。それができなくて、でも見つめていたくて。先輩、僕、どうしたらいいんでしょう。心が半分ここにあらずで喋っていると、高瀬が言った。 「香澄はあれか、恋人いないのか?」 「え、僕ですか? いませんよ」 「えー、なんでえ、香澄さんめちゃめちゃかっこいいのに!」  派遣社員の女子にそう言われても、いないものはいないとしか言いようがない。しかし酔っ払ってきたのか、高瀬も一緒になってなぜだと言い募ってきた。 「あれか。望みが高いんだろ? よっぽど綺麗な子じゃないと嫌とか?」 「や、……まあ、そりゃ、綺麗なほうがいいですけど……」  そう答えながら、頭に浮かぶのは、慎一が紅茶を飲む時の優雅な指のしぐさや、伏せた睫毛の長さや、うっとりと微笑む時に弧を描く大きな瞳ばかりで。 (僕って……)なんで、こうなんだろう。あの夜から、慎一を妙に意識してしまって止まらない。次々飛んでくる下世話な質問への答えに困っていると、とんとん、と肩を叩かれる。顔を上げると、グラスを持った慎一が微笑んでいた。 「光くん、交代しない? あっちの皆が話したいって」 「え、あ……じゃあ、失礼します」 「わー、椿さんだ!」 「はあい」 (助かった……)にこっと微笑む慎一に代わり、光は高瀬達に挨拶をして、ジョッキを手に反対側のテーブルに移動する。ああ、こういうところだ。いつもさり気なく見ていてくれて、僕が困ったときには、いつだって椿先輩が助けてくれる。いつもそう、ずっとそうだった……。 「……」  なのに僕は、たまたま目にした光景にこだわって、あなたに失礼な態度を取っていた。嘘をついて誘いを何度も断って、距離を置こうとした。偏見はないなんて言い聞かせながら、実際には避けていたじゃないか。ぐっと胸が詰まった。 (僕は、卑怯だ)  あなたのことを何も知らないことがショックで、かといって知ろうともせずに、一方的にあなたを遠ざけようとした。きっと気にしているだろうに、今だってあなたは僕を助けてくれた。そういうひとなのだ。そういう男なのだ、椿慎一は。 「香澄くん、顔赤いよ? 酔ってる?」 「……はい。結構、酔ってます。でも大丈夫です」  反対側で飲んでいた社員達が声をかけてくれる。こちらのメンツなら、下世話なプライベートの話は突っ込んで聞いてくることはないだろう。慎一だって、きっと本当はこっちで飲んでいたほうが居心地がいいだろうに……。光のために、進んで上司のところへ移動してきてくれたんだ。熱いものを感じて、ジョッキに僅かに残っていたビールを飲み干した。 「おお、飲むねえ!」 「はい。次、ウーロンハイ行きます!」  それからしばらく反対のテーブルに座る三人で飲み交わして、慎一がトイレに立つのを見計らって光は後を追った。 「……あの、先輩」 「! ……なんだい?」  トイレの前で順番待ちをしていた慎一に声をかけると、ぱっと顔をあげた慎一が首を傾げた。そんなしぐさも可憐に見えて、相当酔っ払ってるなと自分で思う。 「その……二次会、行きます?」  このチームで二次会に行くと、大体はダーツバーで、その後カラオケの三次会にまで流れるのが常だった。光はちょくちょく朝までコースに付き合うが、慎一は二次会には来たり来なかったりで、今回どうするかが読めない。尋ねると、慎一は小さな声で呟いた。 「うーん、どうしようかなぁ……光くんは?」 「先輩が行くなら、行きます」 「……」  はっきり光がそう告げると、慎一が大きなアーモンド型の目をぱちくりと瞬かせた。綺麗な瞳が、光を映す。それから一瞬の、間があって。慎一が、自分の唇に指先で触れた。 「……じゃあ、さ……最近話せてなかったし、二人で抜け出さない?」  嬉しそうに微笑みながらそっと慎一に囁かれて、かあっと顔が熱くなった。
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