猫には内緒でキスをしよう

5/8
63人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
「ふふ。光くんと二人で飲むの、久しぶりだね」  解散後のどさくさに紛れて、慎一と二人で抜け出して。近くにあった雰囲気のいいバーに入って高いスツールに腰を下ろすと、キャンドルに照らされた慎一が笑って言った。長い睫毛が影を落として、色っぽいな、なんて思いながら光は頷く。 「そうですね」 「最近、ご飯も行けてなかったもんね」    心底嬉しそうに微笑む慎一が、可愛らしく見えてしまって。今までは尊敬する先輩としか思っていなかった相手の、知られざる一面を知ってしまってから、光は戸惑ってばかりだった。それをごまかすように、テーブルに立ててあるメニューを眺める。 「何飲みます?」 「んーと、ぼくは軽いの……オペレーターにしようかな」 「じゃあ、僕もそれにします」  白ワインをベースにしたカクテルを頼み、運ばれてきたグラスをお互いに合わせてカチンと鳴らす。「お疲れ様」と笑う慎一が、暗がりなのに眩しかった。 「忙しそうだけど、何か困ってることとかない?」 「いえ、大丈夫です……あ、でも……」 「なあに?」  意図的に慎一を避けていたこの二週間、やっぱり仕事で多少困ることはあって。力を借りたいと改めて思い直して、光は慎一を見やる。 「来週の訪問、やっぱり一件、先輩と行きたいのがあって……」 「本当? スケジュール空いてたら全然問題ないよ。入れておいて」 「はい。ありがとうございます」 「なんでも頼ってね」  そう言って薄いグラスを弄ぶ慎一は、やっぱりひどく綺麗で艶っぽくて。少し上気した頬は無駄な肉こそついていないが、光に比べると柔らかなカーブを描いていて。分厚くて紅い唇、垂れ気味の瞳が楽しそうに微笑んでいる。ああ。 (綺麗だ……)  そして、慎一は優しい。それからふたりは他愛もない会話を続ける。(楽しいな)慎一といるのは、やっぱり楽しくて。 「さっき、助けてくれてありがとうございました」 「え、なんのこと?」 「ほら、リーダーたちに僕がつかまってて……」 「ああ、あれね。高瀬さんも、悪い人じゃないんだけどねえ」 「ゴシップ好きすぎますよね」 「ははっ」  距離をおいていたのが嘘のようにくすくすと笑い合いながら何杯か飲み進めると、やがて慎一の目がとろんとなってきた。酔っている、ように見える。 「……ああ……久々だから楽しくて、飲みすぎちゃったかも……」  そう呟いて、慎一がテーブルに頬杖をついた。潤んだ瞳が光を映す。(なんだ……)なんだ、この、雰囲気は。今まで感じたことのない空気に戸惑いながらも、光は酔っ払った慎一の紅い唇や、蕩けた眼差しから目が離せなかった。 「先輩……そろそろ、帰りますか?」 「うん……ぼく、帰れるかなあ……?」 「……」  甘えるような物言いに、胸がどくんと高鳴る。(これって……)ひょっとして、自分が押せば、というやつなのだろうか。いや待て、そんなはずはない。降りた前髪がはらりと目にかかる慎一の酔った様子につけこんではいけないと光が自制するのに、慎一はさらに甘えた口調で続ける。 「……酔っ払っちゃったぁ……眠いよ……」 「先輩……えっと、じゃあ僕、お支払してきますんで……」 「もうさっき、払っておいたよ。光くんがトイレ行ってる間」 「えっ、すみません」 「いいの……行こうか」  ふふ、と微笑みながら脱いだ上着を手に慎一がスツールを降りる。慌ててその肩を支えながら店を出ると、ちょうどタクシーが停まっていた。 「先輩、タクシー来てますよ」 「うん……」 「……帰れます? ひとりで」  このままひとりにして、大丈夫だろうか。足元もおぼついていない慎一に話しかけると、光を見上げた慎一が、舌っ足らずな声で、囁いた。 「……帰れない、かも……」  お願い、家まで連れて帰って。きっと翌日になったら覚えてもいないだろうその言葉に導かれるまま、光は慎一とタクシーに乗った。     *    *    *    * (どうしよう……)  胸が、ドキドキと高鳴る。タクシーの後部座席で、慎一はすっかり眠り込んでしまい、くったりと光の肩にもたれている。こんな姿を見るのは、初めてだ。 (このまま……)  家まで、上がりこんでしまっていいのだろうか。誰もいないんだろうか。戸惑いとときめきを隠しながら慎一は黙って座っていた。眠る前に慎一が告げた住所は、やはり千葉の下宿と最寄り駅が同じ場所で。思い出したくない光景が蘇る。 「……先輩。つきましたよ」 「……ん……」 「降りましょう、先輩」  料金を払って、まだ寝ぼけ眼の慎一をタクシーから降ろす。「先輩、しっかりしてください」着いたのは高級そうなデザイナーズマンションのエントランスで、ようやく意識を取り戻した慎一が鍵を取り出してオートロックを解除した。 「先輩、大丈夫ですか?」 「ん……あれ、光くん、どうやって帰るの?」  帰る。そうか、そりゃそうだよな。内心がっかりしなかったと言えば嘘になるが、光はタクシーも帰らせてしまったことを後悔しながら口を開いた。 「あ、や、僕は……まあ適当に、どうにかします」  千葉はまだ起きているだろうか。連絡して泊めてもらうか、駅前まで歩けば確かネットカフェもあったはずだからそこで夜を明かそうか、それかタクシーで帰るか……と考えながら適当にごまかすと、だめだよ、と慎一が言った。 「ぼくのせいだもの。うちに泊まっていってよ」 「え……」 「こっち、104号室……ね?」  くい、とスーツの裾を引っ張られて。ね、と首を傾げられては、断ることができなかった。どうせ明日は土曜日で休みだし、先輩の家に後輩が泊まるなんて珍しくもない話だ、と自分に言い聞かせながら、104号室のドアを開けてもらう。と、開いたドアの先、廊下のむこうから、ととと、と白い物体が走ってきた。 「あ……」  猫、だ。白い毛にまだらに灰色のぶちのある長毛の猫がやってきて、ぴょん、と器用に慎一の胸に飛び込んだ。 「ただいま、フウタ」 「……」 (やっぱり……)猫、飼ってたんだ。半分以上予想していたことだったが、こうして目の当たりにするとショックではある。一度もそんな話、してくれなかったのに。玄関で呆然と光が立ち尽くしていると、猫を抱えて慎一が振り返った。 「ごめんね、びっくりした? 光くん、猫へいき?」 「あ、全然、平気です……可愛いですね」 「でしょう。フウタっていうの。ほらフウタ、光くんだよ」  慎一が光にフウタと呼んだ猫を近づけると、興味もなさげにフウタはふい、と顔をそむけて、慎一の腕からぴょこんと飛び降りると、すたすたと廊下の先へと歩いて消えていった。慎一が肩をすくめる。 「ここ、本当は猫だめだから……誰にも内緒ね」 「あ、はい」  なんだ、そういうことだったのか……。慎一の謎のひとつが解明されて、ほっとしながら光は頷いた。慎一が先に廊下を歩き出す。 「狭い家だけど、あがって。今着替え用意するから」 「お邪魔します……」  ここが、椿先輩の家……。ドキドキを抑えながら靴を脱いで上がり込むと、そこは光の暮らす社員寮よりもずっと広くて綺麗な部屋だった。寝室とリビングが分かれているのも羨ましい。光が鞄を手に歩いてリビングに入ると、フウタがとことこと出ていく。どうも、あまり好かれていないようだ。 「ごめん、こんなのしかなかった……サイズ合うかな?」 「ありがとうございます、ていうか、すみません」 「いいの、気にしないで……ごめんねぼく、酔っ払っちゃって」 「まだ酔ってます?」 「うーん……わかんない、そうかも」  えへ、と笑う慎一から受け取った部屋着は、意外なほどにサイズがぴったりだった。そのことが、着替えながら光の気持ちをまたざわつかせる。(これって……)本当に、先輩の服なんだろうか。それにしては、サイズが大きすぎるような。けれど聞けない、何も聞けない。寝室で着替えてリビングに戻ると、そこには。 「あ……」  結局、やっぱりまだ酔っていたのだろう慎一が、ワイシャツにネクタイ姿のまま、リビングのソファに仰向けに寝そべって眠っていた。「……」すやすやと寝息を立てる慎一にそっと近づいて、膝を折って枕元にしゃがみこむ。 (先輩……)  仰向いた喉仏、うっすらと開いた唇。閉ざされたまぶたを縁取る長い睫毛、吐息さえ聞こえてきそうな距離で慎一を見つめる。綺麗だ。あなたは、とても綺麗だ。誰だってあこがれる、一緒に歩けば皆振り返るじゃないですか。 「……」  そっと、起こさないように胸元のネクタイを緩めてやる。ゆっくりと解いていく、その仕草がまるで着衣を脱がせる時のようで……よそう、こんな考えは。先輩がよく眠れるように、それだけだ。ネクタイを解いたあと、首元のシャツのボタンを二つほど開けてやる。すると、尖った鎖骨と胸元が覗いた。 「……っ」  ごくん、と唾を飲み込んだ音が自分の耳にまで届いた。(やば……)これって、やばいかもしれない。男の人に、見惚れるなんて。どうして僕は、こんなにドキドキしてしまっているんだろう。 (触れたい……)先輩の、その柔らかな頬に、浮き上がった鎖骨に、息をもらす唇に、指で触れたいと思ってしまう。どうして。 「!」  光がときめいていたその時、突然ローテーブルに置かれていた慎一のスマートフォンが震えた。ぱっと見ると、画面には【藤野 智也】と表示されている。電話だ。  眠る先輩が起きてしまわないように、そっとスマートフォンを取って、ソファから遠ざかる。キッチンのほうまで歩いていくと、しばらく続いていた振動が止まった。ほっとしたのもつかの間、少ししてからまたブルル、と短く端末が震えて。 【 藤野:寝てるのか? 電話に出ろよ。】  メッセージ着信のポップアップで、そこまでは読み取れた。さっと、体温がつめたく下がる感覚がする。(これ……)もしかして。会社に藤野智也という社員はいない。この馴れ馴れしさ、夜中に電話してくる関係、もしかしなくても、こいつはあの……。 「……先輩……」  そっとローテーブルにスマートフォンを戻して、眠る慎一の枕元に座り込んだ。呼びかけても、ぐっすりと眠り姫のように眠る慎一は目覚めない。  先輩。藤野って、誰ですか。あの男ですか。あなたと一緒にいたあいつですか。どんな関係なんですか。僕よりも、もっと大事な相手なんですか。言いたいことが胸につかえて、苦い思いと共に飲み込んだ。聞けやしない、聞けるわけがない。  目にかかる髪をはらってやって、光はしばらくそこから動けなかった。どうして慎一の謎めいたプライベートが、こんなに気になるのか。いつも冷静で要領がいいはずの自分が、なぜこれほどまでに振り回されているのか、まだわからなかった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!