猫には内緒でキスをしよう

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「え、もう帰るの?」 「はい」  酔った慎一を送り届けてくれた光を家に泊めた翌朝、目を覚ましてまもなく、光はもう帰ると言い出した。貸した寝間着を畳んで返し、昨日着ていたワイシャツとズボンを身に着けて、やや乱れた髪のままで。 「朝ごはんでも……紅茶でも飲んでいかない? シャワー浴びていくとか」 「いえ、大丈夫です。もう行くんで、鍵だけ閉めてください」 「あ、うん……」  猫のフウタが、早く帰りなよ、とばかりにニャアと鳴くのを抱えて、玄関まで見送りに出る。光は目をほとんど合わせてくれない……何故なのだろう。昨夜はまた、今までのように打ち解けてくれたと思ったのに。 「ねえごめん、ほんとに迷惑かけちゃって……怒ってる?」  ソファで寝てしまった慎一を光が起こしてくれて、なんとかベッドまで潜り込み、光に毛布と枕を渡して、その前後はほとんど記憶がない。目が覚めた時なんて、リビングのソファで眠る光を見て一瞬意味がわからなかったくらいだ。よほど迷惑をかけたのだろうと、慎一自身も恥ずかしくて、あまり光をまっすぐ見られなかった。 「まさか……じゃ、失礼します」 「うん……また来週ね」  パタン、とドアが閉じる。(光くん……)これで、また気まずい関係に逆戻りかも知れない。そう思うと切なくて、飲みすぎてしまった自分を責めた。 (あーあ……)  いくら、久々に光が懐いてくれて嬉しかったからって、強くもないのに飲みすぎた。自己嫌悪の何割かは二日酔いによるものだろうとわかってはいても、慎一は打ち沈んだ。とりあえず冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲み、フウタの朝ごはんを用意する。それから。 「……!」    スマートフォンを見て、昨夜の着信とメッセージ受信に今気がついて青ざめた。(やだ……)メッセージには既読をつけないまま、着信もろとも無視することにして、慎一は余計に落ち込んだ。フウタを撫でるくらいしか、気持ちの落ち着けようがなかった。光が戻ってきてくれたらいいのに、心からそう思った。     *    *    *    * 「……はぁ……」  二日酔いで、身体が重い。けだるい身体を引きずって、光はスマートフォンの地図を頼りに知らない街を駅前まで歩いていた。 (もう帰るの?)  心底意外そうだった慎一、きっと昨夜でまた元通りの仲に戻れたと思っていただろうに、光はろくに目も合わせず、冷たく接してしまった。だって。 (藤野って……誰だよ)  ただの友人? それにしたってあんなに親しげな口調のメッセージを送ってきたり、週末の夜遅くに電話してくる仲なら、話くらい聞いたことがあってもおかしくないのに。やっぱり、この街で見かけたあいつなんだろうか。思考はぐるぐると何度も同じところを回って、光を放さない。 「あれ、香澄?」 「……え、千葉?」  とぼとぼと歩いていると、駅前の商店街でばったり出逢ったのは、この街の下宿に住んでいる千葉柊介だった。偶然にもほどがある。スーパーの袋をぶらさげて、いかにもワンマイルウエアという感じのスウェット姿が妙に様になっている。 「なんだ、死にそうな顔して。しかもスーツで土曜の朝から何してんだ?」 「……千葉ぁ……」 「おい、ふらふらじゃん。うちでも寄ってくか?」  「いいの?」 「別にいいよ、暇だし」  なんとなく、このまま寮に帰りたくなかった光は、言葉に甘えて千葉の下宿に寄っていくことにした。慎一のデザイナーズマンションに比べると質素な千葉の家に二度目に入ると、以前この家で寝袋で寝た夜の切なさと動揺が蘇る。 「そのへん座ってろよ。今コーヒー淹れるから」 「ああ……」  相変わらず、ぶっきらぼうな見た目に似合わず面倒見のいい千葉がコーヒーを淹れてくれている間、床に座ってぼうっと慎一のことを考える。(先輩……)僕は、どうしたらいいんでしょう。僕は一体、何がこんなに気になるんだろう。 「あいよ。なんだ、なんか心ここにあらずって感じだな」 「……ん……」 「お前、この前もそんな感じだったけど。話してスッキリするなら聞くぜ」 「……」  千葉の落ち着いた、知性を感じさせる声は少し光を落ち着かせてくれる。(千葉、なら……)それこそ同期の陣内などにはいくら仲が良くても話せないことだが、会社と一切関係のない千葉なら、聞いてくれるかもしれない。コーヒーをひとくち飲むと、こだわって淹れているらしくふくよかな風味がした。  話して、みようか。意外な切り口で悩みが解決するかもしれない。そう思って、光は口を開いた。 「……実は、さ。この前千葉と飲んだ時、ここの駅前で……会社の仲いい先輩見かけたんだ」 「へえ? なんだよ、なんでその時言わなかった」 「……それは……」 「?」  思い出したくもない、あの光景。フウタの餌を持って微笑む先輩と、もしかしたら藤野というのかもしれない背の高いスーツの男が、睦まじく歩いていった先は、間違いなく慎一のマンションの方角だった。ということは、つまり……。 「……その先輩、男なんだけどさ。知らない男と一緒で、……その雰囲気が、なんていうか……」 「……普通じゃない?」 「そう! そういう感じだったんだ……密着してたし、なんか……明らかに……」 「付き合ってる?」 「……のかもしれない、って、感じた……」  光が言うと、そうか、とだけ言って、千葉はしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。(あれ……)なんにも、言わないのか。知的な千葉の横顔は、昔から光よりも老成して見えた。  細く鋭い瞳に痩せた頬、柔らかい髪をした千葉は、彼のようなタイプを好む一部の女子から非常に人気があったが、彼女がいたことはない、はずだ。だいたいいつもひとりで図書館で勉強しているか、各種のバイトを掛け持ちして稼いでいるか、光と飲みに行くくらいで。他に仲のいい相手がいるとも聞いたことはあまりない。  気難しいとも少し違うが、頭が良すぎて近寄りがたい、というのが大学での評判だった。光はそんなふうに思ったことがないが、黙っているとたしかにそう見えた。 「……俺、やっぱり変かな? そんなこと、いちいち気にするの……」  沈黙に耐えきれなくなって光が尋ねると、千葉は「どうかな」と短く答えた。 「仮に先輩がその……男と付き合ってるんだとしても、プライベートなんだから俺には関係ないし……今時珍しくもない話じゃん? そっとしておくべきだって、頭ではわかってるんだけどさ」 「できないんだろう」 「……」  ずばりと言い当てられて、光は黙り込んだ。気まずくてごくん、とコーヒーを飲む。千葉ならなにか、気の利いたことを言ってくれるかもしれないと思ったのが甘えだったのか……光が自分を恥じた時、千葉がことりとカップをローテーブルに置いた。 「……俺からは、その件についてはなんにも言えねえよ。ただな、香澄」 「うん……?」 「俺は、お前が偏見でその先輩を遠ざけるなら、お前とはもう会わない」 「え……っ」  なんで。驚いて光が千葉を見やると、千葉は押し黙って真剣な表情で前だけを見ていた。試験勉強を一緒にしていた時だって、ここまでの顔は見たことがなかった。 「なんで……いや、もちろん偏見なんてないよ。でも……」 「違うのか? なら、俺が何を言っても引くなよ」 「え? あ、ああ……何だよ」 「……」  顔を上げた千葉が、じっと光を見つめた。その目にはまだ、ほんの少し揺れる想いが詰まっているような気がした。(千葉……)どうしたんだ。あのいつも冷静で頭の良いお前が、そんな顔をするなんて。光が緊張して拳を握った、時。 「……俺は、お前が好きだ。ずっと前から、好きだった……」  言われて、頭が真っ白になった。(え……)今、好きって言った? 突然のことに光が言葉を失って目を見開いていると、千葉が首を振った。 「ふ、やっぱりな。言うんじゃなかった」 「や……! ま、待ってくれって……! 好きって、千葉が、俺を……?」 「ああ、そうだよ。そういう意味で、お前が好きなんだ」 「……っ」  絶句する光の前で髪をばりばりとかきあげて、千葉がああ、と声を出した。「訂正するわ。言えて、すっきりした」と呟くと、本当に憑き物が落ちたような顔で笑った。 「……どうだ? 気持ち悪いか?」 「……いや……全然……」  問われて考えてみても、嫌悪感などは一切感じなかった。むしろ嬉しい。ただ、あまりにも意外で。そして同時に、どうしようと一瞬考えた時に、頭に浮かんだのは。 「……でも……応えられないって、思った。だって……」 「その先輩が、気になるんだろう? そういうことだよ。香澄」 「……」 (ああ……)そういうこと、なのか。僕はあのひとを、気づかないうちに心の中で。ようやく自分の気持ちに気がついて、すとんと胸の真ん中が落ち着いた。 (そういう、ことか……)  先輩。僕は、あなたが他の人に抱かれるのが、嫌なんだ。この胸の奥の、恋心がそうさせるんだ。そうだったんだ。そうだった……。 「よかったな。気持ちがはっきりしたろ?」 「……うん……」  気づいた瞬間からかなわぬ恋だから、辛くて切ないけれど。ぐるぐると頭の中を渦巻いていたもやもやが晴れて、光はほっと息をついた。それと、同時に。 「その……千葉は、いつから俺のこと……?」 「さあな。気づいたら好きだったよ。お前だけだろ、俺に話しかけてくれたの」 「……そっか……」  いつの、どの瞬間だろう。適当に入った映画サークルの新歓コンパで初めて逢ってから、専攻も性格も違うのに妙に気が合って。光はいつも多くの友人に囲まれていたが、ふたりきりで飲んだり話したりするのは千葉が一番気安かった。二人で映画を見たり、キャンプに行ったり、海でバイトしたり。そんないくつもの季節を、千葉は自分を想って過ごしていたのかと思うと、複雑な気分だった。 「……」  でもそれは、自分だって同じだ。気づかないままに、先輩に恋をした。もしあの光景を見なければ、ずっと気づかずにいられたかもしれなかったけれど、もう時間は戻せない。恋心を消すことも、気づかなかったふりもできない……。俯く光に、千葉が言った。 「いいんだよ、お前はそのままで。またいつでも遊びに来いよ」 「ありがとう……」  コーヒー淹れ直すわ、と立ち上がる千葉の背中は、なんだか前よりも軽く見えた。なんていい奴だと思いながら、その想いに応えられないことを申し訳なく感じるのは間違っているのだろうと自分に言い聞かせた。千葉はきっと、想っているだけで十分だと言うだろう。おそらくそれが本心なのだ。では、自分は? (先輩……)  僕は、あなたが好きです。でもあなたには、あの男がいる。それが切なく、偏見ではないにしても、やっぱり今まで通りに接することは出来ないような気がして、光の胸は切なく痛んだ。
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