猫には内緒でキスをしよう

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「そうだ。お前の後輩に、香澄っているだろう」 「!」  慎一が同期の坂口春人(さかぐち はると)と久々に昼食をともにしていると、前菜のサラダをつつきながら無表情の坂口が言った。黒髪を後ろになでつけて、整った顔立ちをした坂口は滅多に笑わないので冷たい印象があるが、それは実際の彼とは少々異なっていることを慎一は知っている。 「いるけど……光くんがどうかした?」  結局、週が明けてからも光の態度はあのままで、距離が元通りに戻ったと思っていたのは自分だけだったことを思い知り、慎一は少なからず傷ついていた。酔っ払って迷惑をかけた自分のせいだろうとは思うのだが……それにしても、坂口の方から光の話を持ち出すとは珍しかった。 「いや……仁義的に、お前にも話を通すのが筋かと思ってな」 「なんのこと?」 「実は今度の人事異動で、うちに香澄くんを欲しいと思ってる」 「……!」  ぼとり、と慎一のフォークから半分に切られたプチトマトが落ちた。(え……)あまりに突然のことで、頭がついていかない。 「え、うちって、マーケティング部に……? なんでそんな、いきなり……」 「今月末で2人辞めるんだよ。さらに1人産休に入ることもわかってな。単純に人手不足なんだ」 「そんなの……新しい人取ればいいじゃない」 「今の会社の方針的には、既にいるメンバーでなんとかしてほしいらしい。香澄くんならうちの陣内とも同期だし、優秀だと聞いてるが……どうかしたか?」 「いや……」  急に体温が下がった気がして、慎一は口ごもった。(光くんが、異動……?)そんなの、考えてもみなかった。しかし、自分がどうこう言う権利はないに等しい。坂口もそれをわかっていて、一応先に話してくれたのだろう。 「まあ、本人の希望次第だけどな……まだ誰にも言うなよ」 「……わかった……」  それからの食事は、ほとんど味を感じられなかった。光が、自分のそばからいなくなるかもしれない、その事実を受け止めきれなくて、慎一は午後もずっと沈んでいた。     *    *    *    * 「……あ、光くん」 「先輩……お疲れさまです」  光はエレベーターホールで、先に帰ったはずの慎一と遭遇した。(気まずい……)やはりあれから、慎一に前のような親しい態度は取れなくて。自分の気持ちを自覚してしまった以上、光にできるのは彼を可能な限り避けることだけだった。 「……」 「……あ、ねえ」 「はい?」  気まずい沈黙が降りる中、エレベーターを待つ慎一が先に声をかけてきた。少しまた痩せたように見える慎一はやはり美しく、その姿を見るだけで胸が切ない。 「この前言ってた、お客さんてどこ? 一緒に行くよ」 「あ……それは……」  そうだ。酔った勢いで、やっぱり一緒に訪問して欲しいと口走ってしまったことを思い出す。それきりなかったことにしたくて放置していたが、やはり覚えていたのか。しばし口ごもってから、光はようやっと「やっぱり、いいです」と言った。 「いいって?」 「その、……1人で大丈夫そうなんで」 「……そう……」  エレベーターが来て、無言のまま二人で乗り込み、一階までたどり着くのを祈るような気持ちで待つ。(ああ……)あんなに仲の良かった椿先輩と、こんな関係になってしまうなんて。どこでボタンを掛け間違えたのだろう、それが悔しかった。 「それじゃ……」 「ねえ、待って。光くん」  エレベーターが一階について扉が開き、早々に別れようとした光に、慎一が思い切った表情で声をかけてきた。振り返って立ち止まると、真剣な顔で慎一が言う。 「ちょっと、ちゃんと話そうよ。……このままじゃ、よくないよ」 「……」 「一時間……30分でもいいから。ね?」 「……わかりました」  見たことのない必死な表情の慎一に負けて、光は頷いた。それから一緒に歩いてひと気のない喫茶店に入り、どこからも見えにくい奥の席に座る。その間もずっと無言で、自分たちがこんなふうになってしまうなんて、少し前は思いもしなかったと考える。いつだって、会社一のいいバディだと思っていたのに。 (先輩……)  何を話せば、いいのだろう。あなたが好きですなんて絶対に言えっこないのに。頼んだ紅茶とコーヒーが届いて、ミルクと砂糖を入れる慎一の細い指先に見惚れながら、光は黙っていた。そうして、慎一がようやく重い口を開いた。 「あのさ……光くん……ちょっと前から、ぼくを避けてない?」  単刀直入に切り込まれて、光はぐっと喉をつまらせた。コーヒーを飲んで時間を稼ぎ、ちらりと慎一を見ると、美しい黒い瞳でじっとこちらを見つめていた。 「……それは……」  そんなことないですなんて、白々しい嘘はもう通用しないだろう。「どうして?」案の定、認める前に慎一が問うてきた。 「ぼく、なにかした? ぼくに悪い所があるなら言ってよ、構わないから」 「……悪いところなんて、ないです……」  あなたには、悪いところなんてひとつもない。それどころかあなたは綺麗で、優しくて、強くて……。僕の胸をいっぱいにさせる。僕を困らせる。光がそれだけ答えると、「じゃあなんで?」と慎一が食い下がる。 「このままじゃ……もう、元に戻れないよ。ぼくら、いい関係だと思ってたのに……」  途方に暮れたような響きの声に、胸がいたんだ。(先輩)本当のことを、言いたい。でも言えない。あなたに恋してるなんて。言っても困らせるだけだ、ならばどうすればいいのだろう。光は内心泣き出しそうになりながら、問い詰めてくる慎一を見つめた。 「ねえ、教えてよ……何か、理由があるんでしょう?」 「……本当に、聞きたいですか」  ぽつりと呟くと、「聞きたいよ」と慎一が返してくる。言えばきっと傷つけるだろうとわかっていても、そこまで食い下がられたらもう、ごまかすことはできない。なかば自暴自棄になって、光はもうどうにでもなれという気分で口を開いた。 「……見たんです。一月くらい前に、先輩が……知らない男の人と、親しそうに歩いてるの……」 「……え……?」 「先輩は、楽しそうに笑ってました。あんな顔見たことなかった……」 「それ、って……」  ぎゅ、と光は膝の上に乗せた拳を握った。これ以上言えば、間違いなく慎一を傷つけて、もう元には戻れなくなるだろう。でも言わずに逃げても、もう戻れないのだ、あの輝いた季節には、あの美しい日々には。それが辛かった。 「だから……付き合ってるのかなって、思いました。あれは……この前電話してきた、藤野ってひとですか? あのひとは、先輩の恋人なんですか?」 「……!」  一気に言い切って、光は慎一を見た。慎一は酷くショックを受けた顔で、呆然と口を半開きにして言葉をなくしていた。「……」しばらく彼が衝撃を受け止めるのを待っていると、慎一は、ゆっくりと首を振った。 「……恋人、だった。だよ……さんざん浮気されて、もう別れた……」 「……っ」  魂がこぼれた抜け殻のようになってしまった慎一が、小さな声で呟いた。震える指で紅茶のカップに触れると、カチャカチャと音が鳴った。 「きみにだけは、知られたくなかった……光くんには……」  それきり言葉をなくして、慎一は項垂れた。はらりと落ちた前髪が悲しげで、光の胸は強く痛んだ。 「あの、先輩、僕……」 「……ごめん。先に帰るね。払っとく」  光が何を言うのも待たず、そしてまた何かを言われることを恐れるように、慎一は伝票と荷物を取って立ち上がった。「先輩!」呼んでも振り返ること無く、慎一は足早に、逃げるように出ていってしまった。追いかけることは、できなかった。 「……」  残された光は、コーヒーを飲み干してしばらくしてから立ち上がり、喫茶店のとなりの自動販売機で昔よく吸っていた煙草を買った。喫茶店に戻ってレジに置かれていたマッチをもらい、喫煙席だった自分たちのテーブルで、煙草に火をつけた。 (きみにだけは、知られたくなかった……)  僕は、最低だ。隠し通していた先輩の秘密を暴いて、自分のことは何も語らずに、一方的にあのひとを傷つけた。こんなつもりじゃなかったのに。誰より大切にしたいひとを傷つけて、自分だけを守った。最低の男だ……。 「……っ」  ずっと我慢していた煙草を吸って、紫煙を吐き出すと、何もかもが台無しになってしまったと感じた。一度壊れた花瓶はもう、元には戻せない。(椿、先輩)慎一は二度と、前のように光に優しく笑いかけてはくれないだろう。   (もう……)  すべて、諦めるしかないのかもしれない。最後に見た慎一の、魂が抜けたような表情を思い出して、自己嫌悪で息もできなくなりそうだった。      *    *    *    * 「はぁ……っ」  急ぎ足で逃げるように駅まで歩いて、電車で自分の最寄り駅にたどり着くと、慎一の口からは大きなため息が出た。 「……」  家に向かって歩き出すと、ぽつ、と鼻の頭に雫が落ちた。雨だろうか。もうどうでもいいと思いながら、傘も買わずにそのまま歩き続ける。 (光くん……)  まさか、あんなことを言われるとは思わなかった。男が好きなんですかと言われたも同然だ。ずっとずっと、家族にすら長年ひた隠しにしてきた秘密を暴かれて、その場を逃げてくるしかなかった。惨めだった。ひたすらに、自分が嫌いだった。 (お前って、ほんと暗い奴だよな。その目がいやになるんだよ)  そんなことまで言われて、ようやく別れられた浮気性の男と、仲睦まじく歩いていたのを見られていたなんて。誰にも知られたくなかった、特に光には……。  止まない雨が、どんどん強くなる。ぼたぼたと落ちてくる大粒の雫が、慎一の黒髪に、スーツの肩に降り注ぐ。もういい。もうなにもかも、どうだってよかった。 (先輩!)  無邪気に懐いてくれる光が好きだった。心の支えで癒やしだった。どんなに恋人からひどい扱いを受けていても、会社に行けば光が笑わせてくれた。大事な猫のフウタのことさえ嫌がっていた勝手な恋人との腐れ縁を切れたのも、光と一年一緒にいて、ほんの少し自分に自信が持てたからだ。こんな扱いを受けるべきじゃないと思えたからだ。だからこそ、彼にだけは知られたくなかったのに。 「……っ」  涙が滲んで、雨とともに流れる。悲しい。悲しい。悔しい……。どうしてこんなことになってしまったんだろう。(光くん)きっと嫌われたに違いない。男と付き合ってるなんて、嫌悪感を抱かれただろう。だから避けられてたんだ、無理もない。こうなることが嫌で、誰にも言わずにいたのに。 (あんたは、自分がどれだけ親不孝かわかってるの!?)  同性愛者だということを隠しきれずにばれてしまった時の、母親の涙声が蘇る。(ぼくは……)ぼくは、生まれてきちゃいけなかったんだ。苦しくて切なくて、雨に濡れながら慎一は歩いた。消えてしまいたかった。そんな気分で、ようやく家にたどり着いた時。 「……智也……?」  震えたスマートフォンの画面には、【着信:藤野 智也】の文字があった。
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