猫には内緒でキスをしよう

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見えなかったものが、見えてくる時。 「お疲れ様。よかったよ、光くん」 「ありがとうございます!」  プレゼンを終えたばかりの香澄光(かすみ ひかる)が溌剌と返事をすると、光を褒めた側である先輩の椿慎一(つばき しんいち)がふふっと笑った。この柔らかい、えくぼの浮いた笑顔はいつも暖かくて、光はそれを見るのが好きだった。どんな苦労も報われる、気がする。 「次のアポ、何時だっけ?」 「えーと、17時です。意外と早く終わりましたね」  光と慎一は客先のオフィスビルを出ながら会話を交わす。今回のプレゼンは後輩である光が主担当として進め、先方からの感触は非常に良好だった。このまま進めてください、さすがですね、という言葉をもらい、光は上機嫌でスマートフォンを確認する。 「特に急ぎのチャットとかも来てないですね。どうします?」 「んー。お昼急いで食べたから、時間までちょっとお茶でもしようか」 「いいですね。駅前にカフェありましたよね」 「そこにしよう」  光と、この面倒見の良い先輩である慎一は相性がよく、たいていのことはすんなりと決まる。駅前まで戻って目当てのカフェに入り、光はアイスコーヒーを、慎一はホットミルクティを頼んで席についた。 「緊張した?」 「え? ああ、さっきですか。いえ、椿先輩がいてくださったんで……」 「またまた。ぼくがいなくたって、光くんもうひとりで平気でしょう?」 「そんなことないです。質問があった時だってフォローしてくれたじゃないですか」 「それは、当然のことをしたまでだよ」  そう言って、慎一は長い睫毛を伏せてミルクティを飲む。そう、慎一はいつだって陰日向になって後輩である光をサポートしてくれ、手柄は決して横取りしない。今回のプレゼンだって、資料作成から練習までとことん付き合ってくれたし、難しい角度からの質問にはさりげなく助け舟を出してくれたのに、きっと会社では光ひとりで全部やったことにするのだろう。そういう所が、尊敬できる先輩だった。 「んー美味しい。当たりだね、このお店」 「そうですね。コーヒーも美味しいです」  紅茶の味にうるさい慎一が認めたのだから、そのミルクティはよほど芳しく美味だったのだろう。一方コーヒー派の光は、こういう所も全部禁煙になってるんだな、と最近学生時代から吸っていた煙草をやめてよかったと思った。禁煙したのも健康志向の慎一の影響で、失敗しないように随分助けてもらった。 「煙草、もう完全に吸ってないの?」  ちょうどその考えを見透かされたのか、慎一がふと目線を上げて光に尋ねる。まるで考えを読まれていたようだと一瞬どきりとしながら、光は頷いた。 「はい。もう全然。ご協力ありがとうございました」 「ぼくは何もしてないよ。がんばったのは光くんでしょう」 「……」  いつだって控えめな慎一はそう言うが、光が煙草を吸いたくなるたびにちょっとした休憩に付き合ってくれたし、最初に一週間我慢できたときにはガムやら飴やら缶コーヒーやらを山とプレゼントしてくれた。何より、「光くんがひとりで喫煙所に行かなくなって、嬉しいよ」と言われたのが決定打だった。そんなふうに寂しく思ってくれていたのかと感動して、それが原動力になったのだ。 「はあ。もう桜も、散っちゃったねえ……」  のんびりとそんなことを言う慎一は、癖のある黒髪に白い肌をした、美しい顔立ちの優男だ。背の高い光よりも少しだけ小柄で、体格自体もやや小さいが、もし慎一が怒ったら光は縮み上がって何も言えないだろう。幸い、要領のいい光は彼を怒らせたことはまだないし、そもそも穏和な慎一が怒ることはめったにないのだが。 「そうですね。今年はお花見、できました?」 「ううん……会社のが中止になったし、他にはやってない」  はあ、と頬杖をつく横顔は、絵画のように美しい。絵を描くのがひそかな趣味の光にとって、慎一の鼻筋の通った横顔はついスケッチしたくなる美しさだった。だが同時に、自分程度の腕では、この美貌は表現しきれないだろうとも思う。  ぼんやりとした視線のむこうには、何が見えているのだろう。彼が桜の舞い散る中に佇む姿が見てみたかった。そんな絵を描いてみたい。きっと夢のように美しいだろうと思いながら、光はアイスコーヒーを飲む。 「また来年、やりましょうよ。お花見」 「そうだねえ。光くん、来年もうちの部署にいてくれるかなあ」 「妙なこと言わないでくださいよ。まだ来て1年じゃないですか」 「そうだっけ。光くんとは、もっとずっと一緒にいるような気がしてたよ」  ふふ、と笑って、慎一が自分の厚い唇を撫ぜた。いつもほのかにピンク色をしたその唇にみずから触れるのが、少し照れた時の慎一の癖だった。  もう1年。最初は教育係として、今は相棒としてこの優しい先輩と組むようになってから、もう1年が経ったのかと光は改めて思う。関係は初日からずっと良好で、光は熱心で仕事が出来る後輩思いの慎一を心から尊敬していた。それは他の皆も同じで、チーム全体やマネージャーからの信頼も厚い慎一の直属の後輩という立場は、会社でもよく羨ましがられるポジションだった。 (いいよなあ、光は。椿さんが先輩で)  同期の陣内などはよくそう言って、酔っ払うと光に絡む。陣内の直属の先輩である坂口は慎一の同期らしいが、慎一とは異なり冷徹な強面で、陣内は尊敬しつつも陰で鉄仮面と呼んでいる。そんな関係を見ていると、自分の先輩が慎一でよかったと、光は毎日思う。綺麗で、優しくて、仕事ができて。彼に出会えて良かったと、おっとりミルクティを飲む姿を見つめながら思う光だった。 「……」  それにしても、花見には行けなかったとは。(……やっぱり、彼女いないのかな……?)いつも親切で話しやすい慎一だったが、不思議と私生活は謎めいた所がある。都内のマンションに暮らしているらしいが、最寄り駅すら光は知らず、誰かと住んでいるのか一人暮らしなのかも実は聞いたことがない。いつもやんわりとはぐらかされて、慎一のプライベートは杳として知れない部分が多かった。 (ふしぎだ……)  こんなに整った魅力的な顔立ちで、仕事も優秀で高給取りとなれば、いくらでも恋人を作れるだろうに。おそらく独り身なのだろう慎一は、夜中まで働いているし朝も早く出社してくる。忙しくて、恋をする暇もないということだろうか。気になるのに、聞けずにいるまま、光がアイスコーヒーを飲み干すと。 「そろそろ、行こうか」 「はい!」  にこ、と微笑んで、慎一が立ち上がった。細身のスーツがよく似合う先輩に合わせて、光も立ち上がった。こんなふうに、合間に慎一と過ごす時間が好きだった。
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