18人が本棚に入れています
本棚に追加
―
わたし ...
暇つぶしのための、なの ……
―
茉由は、とても怖かった子供の頃
の出来事を、自らの防衛本能から、
無かったことの様に、消し去って
いた。
あの時の
「 高井の顔 」を 覚えては
いない ...
営業部の、NumberⅡの高井は、
この会社では初めてとなる、
『 女性だけが働く、マンション
ギャラリ― 』を創った。
これは、
亜弥を、この会社のチーフの中で、
誰よりも目立させ、スポットライ
トを当てて、ステップアップさせ
るため。
それだけではなく、亜弥に、満足
する結果を与え、自分を認めさせ
て妻にするため。
そしてさらに …
茉由をほかの男から離し、ここに
閉じ込めるため。
―
ここでは、
策士の高井の目論見通り、
亜弥は、高井の営業力のサポート
も得て、 ここで結果を出し、
本社から、正当に、認められ、
本社広報部へ、異動になった。
そして、古巣の現地スタッフ達に
も祝福され、 高井の妻になった。
茉由は、営業部の中で頼りになる、
同期の佐藤翔太や佐々木駿から離
され、今の職場では、年下の女性
スタッフに囲まれ、孤立し、
頼れるのは、高井だけになった。
―
高井は、いつも、この会社で、
自分の思い通りの事をしている。
けれど、これらは、抜け目なく、
会社の為にもなっている。
この『 女性だけ 』は、マンション
ギャラリーでも、 珍しい事。
良い宣伝にもなる。
それに、高井が創ったここは、
富裕層をターゲットにしている、
新築高級物件を販売する 処。
その顧客にも、女性だけの方が、
「上品さ」をアピールできる。
この、何でもできてしまう、
高井、
という男は、どんな「者」
なのだろう …
―
茉由は11才の頃、小学校の夏休
みに入る前の、 或日。
夕方の少し
暗くなった、塾からの帰り道で、
「 さらわれた 」
集団で暴走する、
2輪のチームのリーダーに差し出
される「 暇つぶしの相手 」として。
まだ「 小学生 」なんて、さらった
者は 思わなかった。
茉由はこの時、
少し …
落ち着きすぎ
た雰囲気だった。
長く腰まで伸びた髪は癖毛なので、
ゆるいウェーブがかかっているし、
瞳と髪の色は、明るいブラウンの
少女だった。
茉由は、「一人っ子」で、母から、
確りと 管理され、
小学校から帰宅すると、子供同士
で遊ぶことを禁じられ、塾や習い
事で、同じくらいの子供と一緒に
居ても、
普段は、大人だけの中で過ごして
いた。
だから、大人の所作を身に着けた、
落ち着きのある、大人しい、友達
のいない子 だった。
同じ位の年齢の友達がいない茉由
は、ハシャイダり、大声で笑った
り、 走り回ったことがない。
こんなに、普段から、走ることが
無い生活をしていては、小学校の
体育の授業でも、50メートル走な
ど、 走るものは苦手だった。
だから「さらわれた」時にだって、
とても怖かったけれど、そうした
ことが無い、
大声で助けを求めることも、
走って逃げることも
できなかった。
白いセダンの低い車が、
茉由の背後から近づき、
ユックリと、追越すと、
少し先で、停車した。
急に中から、
男たちが飛び出してきた。
この、時の、大人な?
男たち、しかも、三人とも、
こんなことでも、よく慣れて
いるのか、無言のまま、動く。
とても冷ややかな感じだった。
そして、不幸にも、これは、茉由
があまりの恐怖から、大声を出し
て抵抗できずに、
大人しかったので、
茉由を入れた四人は、ドタバタ
せずに、静かな、ほんの一瞬の
出来事だった。
住宅街の、ごくごく普通の道路に
は、この時間、周りには誰も居な
かった。
白いセダンがポツンと、停まって
いるだけ。
街路樹の、幹がかなり立派な、
ハナミズキの大木が、道に沿って、
いくつも並んでいる。
この道路では、この季節、たくさ
んの大きな葉っぱが、ちょうど良
い 日陰を作り、
それは、ちょうど良い目隠しにも
なって、この車の様子は、道路沿
いの、プライバシーを配慮された
住宅からも、全く見えない。
茉由は男たちに、ほぼ、抱え上げ
られるように、まるで、車に荷物
を入れる感じで、後部座席に
『ドスン‼ 』
っと、押し込まれても、
両側を男らに挿まれては、車が止
まる信号待ちにも逃げられなかっ
た。
車の中で、茉由は、乱暴なことも
されず、でも、
確りと、捕らえられたまま、
連れていかれる。
茉由は、声が出せないし、怖くて、
俯いたまま、何も見ることもでき
ない。
「視てしまう」と、
よけいに怖くなる。
隣にいる男の姿ですら、犯人を認
識するような眼で 視られない。
この、静かすぎる車の中では、
結局、男たちに、
なにもされなかっ
たが、
俯いたままの茉由には、どのくら
いの「時間」そうしていたのかも
分からない。
だから、家からどの位、この車が、
「離れて」いるのかも分からない。
この時の茉由の恐怖は、
どのくらい
だろうか …
11歳の茉由は、
「 どこかに連れていかれる 」
ことは分かっている。
そこで、もしかしたら「 自分は
乱暴されるかもしれない 」とも、
頭の中に出てきている。
茉由の住む街の近くには、
幅の広い河がある。
そこには、湿地帯や、広場もある。
そこは、夜になると、
人けのない、広い空間に変わる。
夜まで、このままだったら、
そこに連れていかれたら …
車の中で、茉由は黙ったままで、
俯いたままでも、
意外に冷静に、
子供ながらに、状況を理解しよう
と していた。
最悪の場合は …
まで、考えてしまっていた。
そして、
「 静かに 」車が止められると、
茉由は横に座っていた男に、力尽
くで車から降ろされ、そのまま、
引きずられるように、両側につい
た男に腕を引っ張られ、
何も告げられぬまま、全く知らな
い、怖い人相の男三人に囲まれた
まま、
見知らぬ「 病院 」の入院病棟
の、
3階の 一室に放り込まれた。
茉由には「 違和感 」があった。
茉由だって、今までに何度かは
「 病院 」へ往ったことがあるが、
ここは、
「 変 」だった。
この病院は、不思議と
「 静か 」
茉由たちが勝手に進んで行っても、
誰にもすれ違わない。
白衣を着た医師も、看護師たちも
居ない。
廃墟ではないはずなのに、
不思議な空間だった。
もしかしたら、こうした輩の、
「 たまり場 」で、大人たちも、
関わらないようにしていたのかも
しれない。
この病室の隣の物音も聞こえない。
廊下にも、誰も居ない。
茉由が投げ込まれたそこは、
ベッドが6つ置いてある部屋。
でも、そのベッドの「1つ」しか
使われていない。
だから、
個室よりも広い病室に、
頭と、
左腕を包帯で覆われた、
「 大男が1人 」
上半身を起こして
ベッドに居た。
この大男の、
つまらない、入院中の、
暇つぶしのための、
茉由がこの病室へ投げ込まれても、
皆、冷ややかな目で、ここに居る、
誰もが、30人くらいの輩の、
誰も、何も喋らない。
茉由は強い力で押されたので、
病室の床に倒れ込む。
その大男は、口元が微かに動いた
が、茉由を蛇のような眼差しで、
品定めをするように、ジットリと
睨みつけた。
この病室には、作業着?上下を身
に着けた大勢の男たちが、病室の
中で、直立不動で、 動かない。
けれど、茉由をさらった、車にい
た男たちの1人が、呆然と動けな
い茉由を引きずり、その大男が横
になっている ベッドの上に、
茉由を勢いよく、押し倒す。
茉由は、口を噤んだまま、うつ伏
せの状態で、ベッドに上がってい
る。
「 怖い!」でも、
「 動けない ‼ 」
今、うつ伏せの、茉由の目の前は、
病院用のベッドに敷かれた真っ白
いカバーの布団だけしか見えない。
茉由の、
狭くなっている、視界の全てが、
ただ、 「 真っ白い 」だけ。
茉由は、自分がどのような体勢に
なっているのかも分からない。
投げ出されたまま、飛ばされたま
ま。落ちない様に、確りと布団に
「 しがみつき 」震えていただけ。
その茉由を、
大男は、使える右腕だけで、
簡単に、仰向けにひっくり返す。
茉由には、一瞬、病室の何もない
天井が見え、
すぐに、茉由の頭は、その大男の
のびた膝の上にのせられ、
仰向けに寝かされたまま、
その大男の「顔」を、「下」から
拝むような体勢になった。
茉由には、その、大きな下顎と、
太すぎる頸筋と、その大きく前に
突き出した 「 喉仏 」、
「 喉頭隆起 」だけしか、目に入ら
ない。
抑えつけられてもいないのに、
そのままの体勢で、仰向けのまま、
グッタリと、
しばらく、いつまで経っても、
動けない茉由は、瞬きもできずに、
ずっと、その動かない、
大きな「 喉仏 」を下から観ていた。
その、仰向けのまま、横になって
いる躰の胸の上で「 祈る 」様に
手を合わせている 茉由の姿が、
まるで、『 ラッコ 』の様で、
よほど可愛らしかったのか、
「フッ…」
この、大男は、少しだけ優しく、
茉由を、使える右腕だけで、
ベッドの上の、自分の横に腰かけ
させ、
茉由の楽な体勢にした。
大男は、茉由の体勢を整えると、
その茉由の表情を 無表情の
まま覗き込み、 確認している。
沈黙を続けたまま、
茉由が、「泣き出さないか」と、
様子を 暫くうかがう。
ここまでの時間。この大男は、
何も喋らなかった。
茉由にもなにも、訊かない。
けれど、もう、この大男の品定め
は終わったのか、
それは、
ここでのいつもの光景なのか、
突然、
この周りの者、全員に聴かせる
ように、
ここは病院なのに、迷惑など
考えない 大声で、
「 おい! お前ら、
コイツが 『 ガキ 』だって
分かって連れて来たのか ‼ 」
と、怒鳴りつけた。
茉由がその大声に
ビクッ!っと、
しながらも、我に還り、
けれど、声を出せないまま、
自分が座らされたベッドの
周囲を見渡すと、
病室の壁、その全てに、
ずらっと、
怖い男たちが壁に張り付き、
仲間 ? の、誰とも
目を合わせないよう
に、静かに並んでいた。
怒鳴りつけられても、
誰も声を発しない、男たち。
やはり、30人くらい ?
全部の壁に、怖い男たちが
並んで
こちらを視ている。
「 怖い 」茉由は、この病室の光景
は、潜在的なトラウマになってい
るが、
恐怖から、ショックが大きすぎて、
防衛本能が働いたのか、
一番大事な、この大男の「 顔 」や、
大きく前に飛び出している、太い首、
その、 喉仏は記憶できないでいる。
この時、茉由は、ベッドに置かれ
た、腰かけたお人形のよう。
大男は、そんな茉由に
諭すように、話しかける。
―
「 オマエが、さらわれたのは、
どうしてだか分かるか?オマエが、
車道の左側を歩いていたからだ 」
「 こいつらの車が、オマエの
『 背後から近づけた 』からだ 」
「 もう、こんな、怖いめに
あいたくないなら、今後は、
道の右側を歩くんだな 」
この、野太い、けれど、
「 穏やかな声 」に、
茉由の耳だけが働いていた。
―
「 暇つぶし 」に差し出された茉由
は、この大男に、なにもされなか
った。
大男は、取り巻きの輩に強く指示
を 出す。
『 いいかお前ら! 絶対に、コイツ
を恐がらせないようにしろ ‼ 』
この大男は、賢い。子供をさらっ
たと、「 事件 」になっては困る。
従順な舎弟たちに、茉由を、必ず
「 無事 」に、家まで送らせるよう
に 指示を出した。
恐怖の中にいる茉由は、最後まで、
何も、自分からは、しなかった…
―
けれど、
これは、茉由が無事だっただけ、
この大男は事件になっては困ると、
したが、これは、
「 事件 」になってしまう出来事。
―
この、強い大男は『 高井 』…
腕っぷしが良いチームリーダーの
高井は、この時は、
対抗するチームとの殴り合いの
死闘の末の入院だった。
結局、大騒ぎにしたくないとの、
高井の冷静な判断から、茉由に
なにもしない、
誰にも、なにも、
させないで、還してくれた。
―
家に無事に還された茉由は、恐怖
のあまりに、普段通りに出迎えた
母親に、何も伝えられなかった。
この日、茉由の塾からの帰り時間
は、少し遅くなったが、
茉由が、いつも、母の云いつけ通
りに、間違った事はしないと分か
っていた ので、
この時も母は、本屋にでも立ち
寄ったのかと、暢気な発想の推測で、
なにも話さないままの茉由に、
なにも確認しないままだった。
―
このことを、
高井と茉由は「 遠い昔の事 」で
忘れている。
これは、高井と茉由、この二人
に、ある学者が、提唱したもの、
「 その記憶は、無意識の領域に
封印され、それが、意識に影響を
与え続けるのだ 」と、
いうものか …
―
11歳の茉由は、その後にすぐ
やってきた「 夏休みの間 」に、
誰にも言えないまま、
この
怖かった事を、リセットして
消してしまうのだが、
けれど、
無意識に、教訓の様に、
頭の中に、残された
事があるようで、
あの、
窮地を救ってくれた、
あの大男の存在は、
かなり大きく、
「 強い男に逆らわずに従う 」
に、なる。
この時に、やはり強い影響を受け
た、この大男の … 高井には、
この出来事は、 茉由とは違い、
うっとおしい、
梅雨が明けた後の、
初夏の乾いた、
サラッとした空気の様に、
新鮮な、心地よい ?
「 自分を変えるような 」驚きだった。
今までの、自分が怖がらせてきた、
舎弟たちが連れて来た、暇つぶし
に差し出されてきた女たちは、
騒いだり、取り乱したり、
暴れたりしていたのに、
あの小娘は怖いはずなのに、
騒がないし、取り乱さないし、
暴れなかった。
泣き出すこともなく、
自分の前で、人形の様に、ただ、
大人しく、座っていた。
「 あんなに大人しいなんて 」
初めてだった。
まるで、
Fairy in the forest
のように感じた。
高井は、自分でも、品の無 …
い、喧嘩っ早い、暴れ者で、誰も、
手のつけようもない、誰からも
大きな「 怪物 」の様に思われて
いるのも 分かっていた。
自暴自棄な、怖いもの知らずな自
分は、周りに居た、男でも女でも、
皆に、恐れられていたから、
近寄っていくと
逃げられていたから、
だから、周囲の者を、強く管理し、
支配していた。
力で、暴力で、強制的に縛りつけ
ていた。
でも、あの小娘は、怖いはずなの
に、ここにただ座ったままだった。
自分から、逃げない。
「 こんな娘が、いるんだ 」と、
反対に、ピュアな茉由を心配した。
「 病院 」の、
真っ白なシーツや、
真っ白な布団カバー、
真っ白な包帯も
効果があったのか、
茉由の「 ピュアな姿 」は強く
印象に残った。
―
この出会いは、中学から高校まで、
「 荒れていた 」高井にも、
経験のない、
衝撃的な出会いだった。
この小娘には、手を出さなかった
高井だが、
それからは、そんな「 ピュアな純
粋な娘 」を求める様になっていた。
けれど、高井は、周りの誰にも、
自分の内面を見せることはせず、
自分好みの女を連れてこいとの、
その様な指示を出さなかったので、
「 あの小娘 」のような「 女 」には、
ずっと、大人になってからも、
出逢えなかった。
―
大人になった茉由に逢うまでは …
―
あの小娘と茉由が、同一人物とは
思ってはいない高井は、 そんな
大人になってもピュアな茉由を、
「 本当に自分が愛するべき者 」
なのか、
「 求める者 」なのか、
高井の中でも、整理がつかないま
まだが、茉由が「 あの時の小娘 」
と気づかないままでも、
今度は、もう、茉由を手放したく
はなかった。
―
そして、今につながる、高井が、
リーダーシップを身に着けたのは、
この、「 チーム時代 」からだった。
―
激しい、厳しい世界で揉まれ、
高井は全身、ぬかるんだ河原で、
ドロドロの泥まみれになることも、
カビ臭い湿った廃墟で、
テカテカした真っ黒な粘り気の強
い機械油で、ベッタリと、髪も顔
も身に着けていた服もすべてが覆
われることも あった。
口の中が渇き「 ジャリッ 」と音が
することも這いつくばった姿勢に
なった事も 何度もあった。
そんな環境にいた高井は、
他人様が汚い、辛いと思う事など、
なんともない。
人が落とした物でも、捨てた物で
も、 自分が欲しければ拾う。
世間体も気にしない。
人が近寄らない処でも平気で歩き、
自分が往けない処はなかった。
こんな子供時代、
もう、すでに、
何事にも動じないように
仕上がっていた。
―
その後の、賢い高井は、
確りと、
「 成り上がる 」ために、
昼間は、自動車修理工として働き、
休日や夜間に、遊ぶこともせず、
通信教育の大学で、法学を勉強し、
その手ごたえを確かめるために、
法律をいくつも身に着ける必要が
ある、不動産の資格を取得した。
勉強だけに集中した高井は、昼間
の部に編入し、大学卒業後は、
その資格を活かすために、この、
不動産会社に入社した。
周りの人よりも早く、人生の厳し
さを、既に体験している高井は、
怖いものなどなく、ただヌクヌク
と育ってきた者には 負けない。
爽やかに変身した、社会人になっ
たその姿は、パッと見には、
長身の、脚長の、スタイルの良い、
イケメンの、っと、いいとこ取り
の 男で、
頭もキレて、回転も速い高井は、
周囲の者からの印象も良く、
どんな人間でも、どの様にも
対応できた。
だから、この会社での出世は、
どの者よりも早かった。
―
実はこのように、茉由と高井は、
子供の頃から育ってきた処も近く、
ずっと、身近にいた。
―
エリアマネージャーのリーダーに
なった高井は、
やっと茉由と逢えた。
―
「 おい、君、茉由君?だったか? 」
この会社は、なぜか女性は下の
名で呼び、男性は姓で呼ばれる。
「 は? 私ですか? 」
高井は「 やっとお前を見つけたぞ 」
みたいに 走り寄ってきた。
「 あぁ、さっきのお客さんから、
連絡があったぞ、これから、来て
ほしいそうだ。送っていくから、
支度をしなさい 」
「 これからですか? 」
「 あぁ、その様だ 」
… なんでよ、今日が、なんの日か
分からないのかなぁー クリスマ
スイヴだよ! 勘弁してよぉ …
「 すぐに支度を致します 」
茉由は、
頭の中が真っ白になっていた。
二人は、高井の車でお客様宅へ向
かった。このシチュエーションは、
どう対応して良いのか分からず、
茉由は沈黙を守った。
高井は運転に集中しているだけか
のようだった。
12月のこの時期は、夕方18時
過ぎには、もう真っ暗になってい
て、車のライトを点けなければ郊
外のこの辺りは真っ暗闇だ。
進む車道の、中央ラインだけしか、
茉由の目に入らない。
... あぁ~ 子供たちは、どうしよう、
ここで家に電話しても、
大丈夫かなー 本当にぃ~ どう、
しよぉー ...
茉由は言葉にできないが、大きな
溜息は何度も出てしまい、それは
二人とも沈黙のままの、静かな車
内にはハッキリと聞こえた。
「 どうした? 今日は、予定が有っ
たか? イヴだからなぁー」
「 いえ、大丈夫です、
失礼致しました 」
茉由は下唇を噛みしめ息をのむ。
この場に家庭の話などできない。
高井にもお客様にも、全く関係の
ない 話だから。
「 お客さんも、如何いうつもりか
なぁ? 今日がイヴだって、誰にだ
って分るのに、自分たちは、如何
するつもりなんだぁ? こんな日に、
呼びつけてー」
高井はどちらにも選らない、中立
の立場を強調したいようだ。
「 そう? ですねー 」
茉由も返事だけ返した。
―
「 こんばんは! 先ほど、お電話
を頂きました、高井でございます 」
「 いらっしゃいませェー、どうぞ、
お入りください!」
迎えた奥様は、今日が特別な日で
あるかのことはなく、サラッとし
た 対応だった。
「 アァ~! 貴女が、先ほど対応
してくれた方だったわネ、貴方に
担当してもらって、良かったわー、
きっと、それが善かったの!
ありがとうー、主人がネ、
その気になってくれてー」
「 私! このタイミングを逃したく
なくってー、話しをネ、進めちゃ
おう、ッテ、思ったから、その勢
いで電話、しちゃったのー、ごめ
んなさいネ、忙しかったカシラ?」
「 いえ、いえ、大丈夫で御座います。
お電話有り難うございました。
お話を、進めさせて戴きますが、
どの様に、なさいますか?」
茉由は高井の前に出て、ご挨拶は
したものの、
これより先は、自分が話しを進め
て善いのか迷い、恐縮して、高井
の後ろに 下がる。
高井と茉由が、それぞれ着ていた
コートを一つに合わせ、茉由はそ
れを後ろ向きに持ち替え、
二人はお客様宅の、玄関先に留ま
り、話しを続けた。
「 あのネ『 申込んじゃオ!』って
思っているの、あのお部屋にネ!」
「 左様ですか ⁉
ありがとうございます!」
高井の、張った声が響いた。
「 それでは、早速、書類をご用意
致しまして、また改めてお伺い致
します。次に、お伺い致します間
に、何かお気づきの事がございま
したら、何なりと、お電話で、
お申し付けください 」
高井はサッと、玄関ドアに手をか
け、チョットだけ、ゆっくりと身
を 引く。
「 では、お忙しい今夜は、この辺
で失礼致します。大切なお時間を
頂きまして、有難うございました。
何卒、ご家族皆様にも、
宜しくお伝え下さい。これからの
事、ご家族様にも、きっと、
ご満足戴けます様に致します 」
「 こちらこそ、
宜しくお願いしますネ!」
奥様は、高井の、この手際の良さ
に、 満足そうだった。
―
茉由が、あまりに早い話の展開に、
新人のように、
何も出来ずにマゴマゴしている間
に、高井はアッサリと、話を纏め
てしまい、
ただ高井にくっ付いていた茉由が、
やっと我に返った時には、二人は
車に乗って、
お客様宅から、かなり離れていた。
高井は上機嫌だった。
営業用の「 明るい口調 」は続いて
いた。
「 ナンだぁー、クレームじゃなく
って、良かったなぁー 」
高井はからかうように、
ワザとらしく呟いた。
「 やめて下さい! クレームなん
て、私には、身に覚えが、ない、
ことです!」
「 冗談さぁー 君の接客は、この
ところ視ていたからね、そんな
こと思っていないさぁー」
茉由は大きく息を吐いて、
ようやく、声を出せた。
... 私だって、この日がイヴでなけれ
ば、もう少し、仕事の緊張感を保
てていて ...
... お客様の前でも、上手く対応でき
たのかもしれないし ...
... 一緒に居るのが、このリーダーで
なければ、こんなに、気が動転し
ないのに ...
茉由はまだ気持ちがセカセカして
いて、高井との会話も、これで
正解 なのか分からない。
ただ、高井の機嫌が良いことだけ
は、茉由にも分かることだった。
「 あっ、ありがとうございます。
この先を右に行けばもう駅ですよ
ね、今回は大変勉強になりました。
ご一緒させて頂けて良かったです」
茉由は、自分が今、何を話してい
るのかよく分からないまま、取り
敢えず、失礼のない様に、
そして、怒らせないように、
美辞麗句を並べてみたが
纏まらない。
そんな自分の至らなさを誤魔化す
様に、少し右横に目を逸らすと、
あろうことか、また、失態を繰り
返したように、自分がシートベル
トをしていないことに気がついた。
「 えー、スミマセン、私、シート
ベルトしてなかったですー」
「 おう、お前、少し落ち着けよ、
さっきから、面倒くさいぞ!」
「 はい ... スミマセン ...」
なんだが、見透かされているよう
な、でも、この余裕のある高井の
方が こっちこそ面倒くさいと、
茉由は余計に気が焦る。
もう寒い季節なのに、茉由はお腹
の辺りから頭の天辺まで、とうと
う体中が 火照ってきてしまい、
シートベルトをしっかり握りすぎ
たのか、自分の手の平を見ると、
これまでが、真っ赤になっていて
恥ずかしい。
きっと今だって、ジタバタしたか
ら、髪やスカートも乱れたままな
の かもしれない。
急にそんなことが気になりだした。
茉由は慌てて体勢を整えようと
すると、今度は「ズリッ」と、
ダッシュボードとの間に腰を
落としそうになった。
「 おい ! なんだ危ないぞ、
ジタバタしやがって、
お前は子供か?」
「 いえ! いいえ、大丈夫です。
本当に、スミマセン!
えーっと、もう、
駅に近いのでここで降ります、
ワタシ!」
…あ~、全く会話がかみ合わない。
交差点の信号で停車したタイミングに、
突然、急に勢いをつけて、茉由は高井
の車から 飛び降りた。
「 おぅ、お疲れさん!
営業に引継ぎしとけよ!」
「 承知致しました。
有難うございました 」
駅に向かいながら、茉由は夜空を
見上げ、顔の火照りをとる。
冬の空は暗くなるのが早く、空気
が乾いているからか、星が大きく、
キラキラ輝いて見える。
きっと、上空は風が強く吹いてい
るのだろうが、下を歩く茉由には
吹いてこない。
仕方ないので、身体を冷やそうと、
いつもよりも ゆっくりと歩いた。
―
高井の方は、このところ、他の者
と比べながら、茉由を目で追って
いた。
茉由がこの会社で長く働いている
方なのに、同じくらいベテランの
他の社員とは「 タイプが違う 」
と 思ったからだ。
―
高井が視るマンションギャラリー
の仕事は、営業中心に動いている。
営業は「 結果を出さなければなら
ない 」とのことから、常に周りの
状況を見極め、的確な判断が求め
られる。
臨機応変な柔軟性や、高い情報収
集能力、コミュニケーション能力
などの対人関係の構築力も、必要
だろう。
とにかく「 スキ 」があっては務
まらない。「 この人の前ではこう
で、あの人の前ではそうで 」と、
それぞれの対応や、その場面、
場面でも、
自分を、変えていかなければなら
ない。
けれども、茉由は、一見、人に合
わせている様に聞き上手なようだ
が、
今も、自分のタイミングで、サッ
サと車から降りて帰ってしまった。
事故が起こりやすい交差点で、
他人が運転している車なのに、
これは、高井が咄嗟に対応したか
ら良かったものの、危険な行為だ
し、ましてや、今回は、高井に呼
び出されたの ならば、
一緒に行動する間は、高井の考え
で動くのが普通だろうに。
良く見てあげれば、純粋で、正直
で、裏表がない性分なのかもしれ
ないが、
これは、この世界では天然記念物
のような存在、の、者だ。
「 アイツやっぱり、面白いなぁー」
高井はハンドルを大きく回し、気
分転換にスピードを出したくなっ
たのか、高速道路方面へと消えて
いった。
―
この二人、仕事終わりに合流する
ことが多くなってきた。
お互いが改まって確認しなくても、
距離が近くなるのは必然なのかも
しれない。
―
高井は独身、茉由は既婚者、
茉由は二人の息子がいる母親。
―
茉由は、強い男に、
従っているつもりだった。
上司だから …
―
…… でも、この二人の再会から、
いろいろあった。
高井は、やっと、
茉由と出会えたはずなのに、
やっと出会えてからも、
一件落着はまだしない ……
高井には、
…… 茉由とは正反対の、
華やかな、賢い、女性が居る …
―
今朝も、春先に合わせた、
春の風に良い香りを乗せてなびく、
柔らかな肩迄のウェーブの髪型も、
穏やかな日の光に似合う、
センスの良い、
ソフトなフレアスカートの、
フェミニンな、ビジネススーツも、
ふんわりと咲いた、
ラナンキュラスの花のよう。
キチンと身だしなみを整えた、
チーフが茉由を出迎えた。
いつも、魅力に満ち溢れ、優しい
気遣いができる人。上司なのに、
誰よりも早く出勤し、茉由を優し
く 迎える。
―
ここは、女性だけの、上品な、
小ぢんまりとした職場。
「 あっ、茉由さん、
ご挨拶させて下さい。
私、本社に
往くことになりました。
広報へ異動です。
短い間でしたが、
お世話になりました。
ご一緒にお仕事できて、
良かったと思っています。
貴方の事、忘れません。
違うフィールドになりますが、
これからも、
宜しく御願い致します 」
この展開は、
茉由の、全く、分からない
事だった。
... この、チーフが、本社?広報?
異動になるの?...
「 それでは、皆さん、
宜しくお願いします 」
これは、チーフの
最後の挨拶だった。
「 わぁ~、凄いですね!本社!」
「 おめでとうございます 」
「 おめでとうございます!」
「 本社勤務、広報への異動、
チーフのこれからのご活躍、
私たち、営業部、接客担当
からも、応援させて戴きます 」
「 本当に、オメデトウございます 」
「 おめでとうございます!」
パチパチパチパチ…
「 亜弥君、おめでとう!」
高井は、とても、良いタイミング
で、チーフに花束を手渡した。
それは、
花嫁が手にするブーケのような、
真っ白なレースに包まれ、爽やか
なブルーのリボンで纏められた、
上品なものだった。
そのまま、高井は、亜弥チーフに
寄り添った。
センスの良い上品なビジネススー
ツに身を包んでいる 二人。
お揃いの接客用の三つ揃えの
スーツを着ている茉由たち、
女性スタッフたちは一列に並び、
この二人と、向かい合った。
ここは、上品な、
マンションギャラリー。
まるでチャペルの、
結婚式のようだった。
「 わぁ~、素敵!」
「 本当!」
「 亜弥チーフ、美しすぎる!」
「 リーダー、素敵です!」
「 なんてお似合いなの 」
「 チーフ、ずっと、
このままでいて下さい 」
「 リーダー、亜弥チーフと、
お幸せに!」
皆の賛辞は続く。
嬉しそうに、はにかむ亜弥チーフ
は、 何も悪くない。
高井は、そんな亜弥チーフを、
本当に、愛おしそうに、
皆の前なのに、抱きしめた。
「 キャァ~!」
「 わぁ~」
「 リーダー?」
「 亜弥チーフ、お幸せそう~」
「 おめでとうございます!」
もう、ここはどこ? 私は?
リーダーは、何をしているの?
茉由は、めまいがした。でも、
確りしなければならない。
ここの皆は、何も、知らないのだ
から。
「 亜弥チーフ、
おめでとうございます。
心より、お慶び申し上げます。
どうぞ、お身体にお気をつけて、
これからも、ご活躍を!」
茉由も心からお祝いを申し上げた。
―
ここのマンションギャラリーは、
チーフが代わる。
亜弥チーフは、本社の、広報へ、
異動になる。
これからは、会社の顔として、
今よりも、
広い場で、きっと、活躍していく
ことになる。
人に気配りができる、華やかな、
才女の亜弥チーフには相応しい、
ステップアップ。
これは、高井の推薦で決まった、
人事だった。
この、亜弥チーフに、誰よりも、
目立つ、ちゃんとした、結果を、
出させるために、
『 女性だけの、マンション
ギャラリー』との、特徴を出し、
この、女性らしい、亜弥チーフに、
確かに、鮮やかな脚光が集まる様
に、必ず、誰よりも、
際立たせるように、
高井は力を使った。
それを、
本社は、評価した。
高井は、本社勤務ではないが、
本社の人事では、
良いことも、
悪いことも、
高井が考えた通りの、事が、
通ってしまう。
―
でも、
世の中はそんなに甘くはない。
天下無敵の高井が、NumberⅡの
自分の position を間違えた……
―
水の中の格闘技、「 水球選手 」の
体型はご存じだろうか、
僧帽筋が発達し、胸板はかなりの
厚みがある。下半身も、水の中で
常に動かしながら姿勢を保つので
かなりハードに 鍛えられる。
つまり、躰全体が、かなり、
やばい位に鍛えられとても大きい。
この会社の営業部の TOP の GMは、
茉由の同期の佐藤翔太の大学の
先輩で、水球部の先輩。
中高年の弱さなどのない、かなり
の迫力のある男性。笑っていても、
とても怖い。
だが、団体球技で、ずっと、動い
ていたせいか、性格は、平等主義
の、「 懐の大きい男 」
だからこの会社の、ツワモノ揃い
の、営業部の TOPだけの事はある。
姿も器も何もかもが big!
high caliber、なのだが、
これは、もっぱら、身内の評価。
後輩の佐藤翔太はそう信じている
が……
この GM が、かなりご立腹の様子。
その相手は、NumberⅡの
高井だった。
「 出る杭は打たれる 」か、
「 個人を出し過ぎた 」か、
高井は、最近、目立ち過ぎた。
―
ここは本社、最上階の 次の floor、
この会社を支えている「 営業本部 」
この一角に設けられた「 雛壇 」に
GMが居る。
ここでの GM の普段の様子は、
広々とした floor の事務所内で
200人ほどの部下を見渡し、
事務所の隅々までに睨みが利か
せることのできる、
見晴らしが
良いように一段高い場所に
配置された、
黒光りのワイドサイズの desk
に「 デン!」と構え、
そのデカイ身体にちょうど良く
合わせられた、イタリアレザーの
黒革の立派な背もたれ椅子から
めったなことでは動かないし、
斜に構えたまま、広すぎる desk
上に唯一あるPCをたまに覗きこ
むくらいで、
直属の部下の社員にでさえ、直接
は仕事の指示もしない。GMは、
この会社の「 営業本部長 」
本社では、「 本部長」、もしくは
「 部長 」と呼ばれている。
ただ、営業の中だけでは
「 外向き 」に、GM と 呼ばれる男。
高井は急に、GM に呼び出された。
亜弥が本社へ異動になってから、
まだ、そんなに経ってはいない頃
の事 だった。
GM は、大きな溜息の後、目をギ
ラギラさせて、不機嫌さを出して
いる。
整えられた髭に隠れていた、分厚
い唇が、かすかにしか動かないが、
確かに、 ズッシリくる話し方。
「 … なぁ、高井、君は『 女性だ
けのマンションギャラリー 』は、
富裕層をターゲットにした、
『 上品なマンションギャラリー 』
として、造ったそうだが 」
「 その、『 女性だけの 』などと、
何かを、連想させるのは、見方に
よっては、下品なことでもある。
そうは、思わんか?」
高井は首を傾げる。
「 いえ、しかし、これは、『 上 』
も認めております」
GM は、さらに睨みを利かせた
目つきに変わる。
高井のクチゴタエも、意味はない。
左掌を自らの顔の前に出し、
「 耳障りな 」云われた言葉を遮る。
「 いや … これは、私が知らない
話だった。君から、この、話は、
なかったからなぁ… 」
「 これは、わが社では前例のない
ことだから、まずは、私に話を
持ってくるはずだが 違うのか?」
高井は、ぐうの音も出ない。
「 … ... 」
高井は … に 睨まれた …
GM は、涼しい顔で話を続ける。
「 黙ったままか … なぁ、高井?
君は、leader だ。この会社の
営業部の TOP ではない。
前例のない『 事 』を、君の、
一存では決められないんだが …
そこまで、私に云わせるのか?」
ゆっくりと喋ると、よけいに、
大人は怖い。
この高井が、可愛く思える。
「 いえ、その様なことでは …」
まるで、任侠映画の「 仕置 」の
シーンの様な カンジ。
「 君は少し、自由に動きすぎたよ
うだ。組織には、組織の動き方が
ある。この会社には、
『 会社の考えで動く者 』が欲しい
だけだ。君は、自分の positionを
勘違いしたようだな 」
GM は、脚を組んだまま、腰かけ
ているワイドサイズのレザーシ
ートの向きをゆっくりと動かし、
かなり離れた一段低く
なったところに居る、
直立不動の高井に、
「 向きを合わせた 」
「 では、高井、私からの話だ。
こんど、わが社も、西にも拠点を
置くことになった。君が、営業部
の TOP になりたければ、
そこに往けば善い 」
「 君は、最近結婚したばかりで
済まないが、一人で往くことに
なるかな?」
高井は、目を見開き、下唇を噛み
しめる、
「 承知 … 」
高井は、横浜の隣町の出身。ずっ
と、そこに暮らしていた。エリア
マネージャーとして、常にあちら
こちらに動いていたが、関西には
詳しくない。
急に、そこへ往けと云われても、
これから、如何やっていけば良い
のか、土地勘も無く、馴染みのな
い地域の社会の中では、先が見え
ない。
新しいフィールドへの戸惑いは
大きい。
高井は、GM を甘く見ていたわけ
ではない。けれど、GM は本社か
らあまり離れない、デスクワーク。
高井は、営業部の、現場での
最高責任者だった。
GM は、高井の頑張りを、営業部
の成果として「 自分がまとめ 」
本社から授かるモノは、自分が授
かるべきものだと考えていた。
だから、自分が席を置く本社で、
自分よりも、高井が評価されては
「 困 る 」
―
高井は、違う空気が吸いたくなっ
たのか、 地下駐車場に戻る前、
外に飛び出し、
道路の端の
背の低い消火栓の柱を
蹴とばした。
「 全責任は私がとる 」なんて、
男気がある上司はこの会社には、
いない。
salary をもらう者は辛い。
たしかに、高井は、まだ、TOP で
はなかった。
―
高井は、独りで、関西に往くのか、
妻の亜弥は?…
お気に入りの茉由は?…
―
……茉由は、医者である夫から病
気の告知を受けた5年前から、強く、
「 行動制限 」を加えられてい
たので、
その言いつけを守り、職場と家と
の往復だけの生活をずっと続け
てきた。
だから、高井が関西に異動になれ
ば、もう逢うことはできなくなる。
……亜弥は、本社、広報部へ異動
になったばかりだった。
亜弥はきっと、高井が往くことに
なる関西には、簡単にはついて往
かない。
亜弥は、自分の仕事を、犠牲に、
しないから。
けれど、亜弥には …
関西なんて、近い。往こうと思え
ば、なにも、大変なことはない。
仕事で拘束される時間を覗けば、
亜弥にとっては、何の障害もない。
けれど、茉由は …
病気を抱えているのだから、そう
はいかない。
関東と関西は、共に日本の中核都
市で、その間を移動する者は多い。
移動手段も、飛行機、新幹線、特
急列車、長距離バス、フェリー、
等多いが、
どれも「 不特定多数の人 」が利
用するものだから、
茉由は、それを利用することに、
「 恐怖が付き纏う 」
混雑する交通手段を使って、
高井には逢いに行けない。
高井は ……
「 逃げ出した 」本社から、
真っ先に、茉由のもとに走った。
いま、すぐに、
茉由の顔がみたい!!
茉由は、この話を、仕事終わりに、
茉由を迎えに来た、高井の車の中、
マンションギャラリーからの
帰り道で、聴いた。
茉由は意外にも、
「 関西への異動 」を
聴かされた時から、
そんなに、間が空く迄もなく、
ここで、思いきった決断をした。
茉由だって、
いろいろ考えている。
茉由は少し前、
高井から離れるために、
ある処から、メッセージを
出していたが、
それは、巡り巡って、高井に届く
はずの、まだ、一歩手前だった。
そんな決意をしていた茉由
だったが、
夫への不信がさらに強まった、
今回の1週間の入院の後に、
この話を聴いたものだから、
この高井の話を、自分のことに
置き換え「 自分を変えること 」
を選ぶ。
この二人の関係は、最近の夫から
の逆襲、先日の茉由の定期検診、
以来、
「 上司とお気に入りの間柄 」
で、落ち着いたままだった。
茉由は、あの時の、
「 夫の不気味さ 」が
許せなかったので、
ついに、ここで、
茉由には絶対に出来ない、
バンジージャンプで、
高い橋の上から飛び降りる
くらいの、勢いをつけて、
ここぞとばかりに、夫から離れ、
「 茉由を守り続ける高井 」に
寄り添い、
関西に引っ越すことにした!
まだ、会社からの辞令も出ていな
いのに「 会社からの、人事異動 」
として家族に打診してみる。
大人しい茉由にとっては、とても
勇気がいることだった。
もし、関西に茉由が往くことにな
ったら……
これで、茉由は、夫の病院へ通う
事ができない「 理由 」ができる。
茉由に一方的に「 制裁 」を加え続
ける夫から離れられる。
でも、家族は …
子供たちは如何するのだろう …
茉由は、家族の誰にも、夫への不
信感、夫の疑惑について、口にし
たことはない。
家族は、夫の事を、
茉由を守り続ける夫だと
思っている。
お兄ちゃんは、母を助けることが
できる、大学病院の准教授の外科
医師である父親を尊敬している。
茉由の母も、大切な一人娘の事を
助けることができる医師の夫を、
最上級の頼もしい娘の旦那さん
だと思っている。
弟も、まだ、父親に甘えたい盛り、
けれど、これも、意外な展開を見
せる……
お兄ちゃんは、この家の中で、
父親が不在なのが多いことから、
自分が「 一家の長 」として
頑張ってきた。
―
このお兄ちゃんは、茉由の子供と
して生まれて、幸せを感じたこと
があるのだろうか、
茉由は、この子に十分な愛情を注
いでいたかと問われると、全く自
信がない。
お兄ちゃんが初めて茉由の子供に
なったのと同じ、茉由もお兄ちゃ
んが産まれたことで、初めて母親
になった。
しなければいけない事は、何もか
もが初めてのことで、チャントで
きていない。
茉由は、二人目の子が、お腹の中
にいるのが分かった時に、その子
を守るため、お兄ちゃんを抱き上
げることを止めてしまった。
お兄ちゃんは、この時から、母親
に甘えたことが無い。お兄ちゃん
は、それで良かったのだろうか、
弟は、生まれてから、茉由が病を
告知され、腫瘍の摘出手術を受け
る前まで、ずっと、茉由にベッタ
リだった。
この兄弟は、母が病を患ったこと
を、誰からも、ちゃんと知らされ
てはいない。
ただ、母親が、入退院を繰り返し
ているのは、分かっている。
茉由が、腫瘍の摘出手術を受けた
時は、手術前後、2週間の入院だ
ったが、
その時には、抗癌剤投与はまだ始
まってはいなかったので、
子供たちは、祖母に連れられて、
茉由の病室の中まで入り、
病院で決められている面会時間が
終了するまで、母と一緒に過ごし
ていた。
弟は、母に逢えたのが嬉しくて、
ベッドに上がったり、茉由の病院
食に手を出して、一緒に食べたり
と、はしゃぎ回っていたが、
お兄ちゃんは、いつも難しい顔を
して、茉由の、チョットの変化も
見落とさない様に、
口を噤んだまま、じっと、
母を見ている。
もしも、母に何かあったら、すぐ
に、父に知らせなければ、との事
のように、大人びた態度で、母を
見舞っている。
その後、茉由は、躰から要らない
ものを捕るための摘出手術のため
に、何度も入院を繰り返すように
なるが、
この頃は、もう、抗癌剤治療が始
まっている。健全な人よりも、躰
は弱っているうえに、手術で躰に
傷をつけている状態になっている。
兄弟と祖母は、母の見舞いに訪れ
た時、最初の入院の時とは違い、
皆、マスクを着け、手を消毒し、
着てきた服は、一枚脱いで、父が
用意した、病院の割烹着のような
白衣と、帽子を被ってから、茉由
の病室に入るようになっていた。
祖母と弟は、母を心配し、母の寝
ているベッド横まで近づいてくる。
けれども、お兄ちゃんは、廊下で
留まって、病室には入ってこない。
お兄ちゃんは、自分が外から運ん
できた、菌を、病室へ持ち込みた
くはなかったのだろうか。
母が抗癌剤によって、免疫力が下
がり、弱っているのを理解してい
たのだろうか、
この時は、実際、茉由の白血球は、
健全な人の1/10にまで少なくな
っていた。
もし、何かの病気に感染してしま
ったら、 茉由の躰は、もう、
病に闘えないくらいに、弱ってい
たのは 確かだった。
お兄ちゃんは、母に甘えるのを
我慢して、
母の為に、ちゃんと、距離を確り
と保って、廊下から母を見守った。
茉由は、母を気遣う、その
お兄ちゃんを見て、涙がこぼれた。
お兄ちゃんが、母に甘えるのを、
我慢をしている姿を、見るのが、
辛かった。
―
このお兄ちゃんだって、まだ子供。
自分だって、母に、甘えたいとき
があるが、
責任感の強い性格では、自分の目
の前にいつも一緒に居る弟の事
が気になり、
自分の使命として、「 全力 」で、
弟を守るようになる。
仔犬の様に、チョコマカと所かま
わず、どこでも良く動き回る弟の
行動にも、それを愛おしそうに見
守り、
保護者の様になっている。
弟が母を恋しがる隙も与えない様
に、いつも自分は寄り添っている。
ところが、その愛おしい、可愛い
弟が「 本物の父親 」に甘えられ
る絶好のチャンスの日、
わざわざ、その仲を邪魔しない様
に、弟を本物の父親に任せて、
独りで出掛けたのに、
こともあろうか、父親は、弟を突
き放し、まだ、小さな弟を、傷つ
けてしまった。
―
この日、お兄ちゃんは出かけてい
た。本物の父親が、珍しく、仕事
の休みで家に居たので、いつもは
その代理で頑張ってはいたが、
大切な可愛い弟を、本物の父親に
任せられるから。
弟は、めったにお目にかかれない、
本物の父親に、ここぞとばかりに
甘える。
そのための理由なんて、どうでも
良かったが、あの、おやつに食べ
た、パンダの中華饅頭を、父と共
に、お店に買いに行きたがった。
「 おとうさん、いっしょに、
お店にいってよ? ボク、
パンダのおまんじゅうが
ほしいから!」
「パンダの お饅頭?」
「 そう、おかあさんが
おみやげにくれたの 」
「 お土産?お母さんが?」
「 うん!」
「何故だ?」おかしいだろう …
夫は首を傾げる。
自分が、
行動制限しているのだか
ら、茉由が職場以外の場所に外出
する わけがない。
子供の話だけでは、あまり、要点
がつかめない。でも、茉由は、今、
居ない。
茉由の夫は、
茉由の仕事日に家に居た。それが、
意図的にかは、分からないが、
茉由とは、仕事の休みはいつも
別々 だった。
この日も、夫の方だけが休みの日。
茉由が居ないので、茉由の母に尋
ねて みた。
「 パンダのお饅頭 ? そうね~?
あ~! 茉由ちゃんの 会社の人
からの戴き物ですって!一つ
だけだったから、私がもう一つ
買って来て、おやつに出したの。
また、食べたいのなら、私が
買ってくるから良いのよ」
夫は頭を下げた。
「それでは、宜しくお願いします」
―
茉由の夫は、茉由よりも賢い。
「 会社の人からもらった、たった
一つの中華饅頭 」これだけで、
夫は、寝室に入り、茉由の、
持ち物検査を始めた。
「 子供が二人なのに、中華饅頭を、
『 一つだけ?』『 会社から?』
ワザワザ持ち帰って来るのか?」
夫の疑念は、正解だった。
茉由のドレッサーの、引き出しの
中から、男物の銀のボールペンを
見つけてしまった。
それを手にした夫は、その場に
しゃがみ込み、考えだした。
「 最近、アイツは、病院に来なく
なった、何故だ?」夫は考えた。
「 来ないのなら、来させたら善い 」
夫は、リビングに戻った。
茉由の母に向かい「 芝居 」をする。
茉由が最近、病院へ検診に来なく
なって自分が心配していること、
検診を受けなければ、病気の早期
発見ができないこと。
早期発見ができなければ、再発、
転移の時に手遅れになること、を、
「 妻を心配する夫 」
そして、「 医師 」として伝えた。
「 子供たちの為にも、茉由さんを、
病院へ来るように、説得して
下さい。お義母さん!」
夫は、辛そうに、
茉由の母に訴えた。
―
この原因になったボールペン。
―
こうやって …
他の人たちよりも、ずっと、ゆっ
くりとしたスピードで、並んで歩
いていると、二人だけの、ここの、
周囲の人たちとは、違う空気を吸
っているようで、地元の、慣れて
しまった港の空気も、今日は、
違うと、茉由は感じた。
高井と腕を組んでいなくても、
二人は、くっ付いている。
背の高い茉由よりも、もっと背の
高い、高井の肩の位置が、
ちょうど良くて、好き、
右側に顔を向けると、高井の堂々
とした、
前に向かって胸を張る姿勢の、
上着の胸のポケットに入っている、
銀のボールペンが目に入り、
茉由は、なぜか、
それが、欲しくなる。
ここの景色よりも、ずっと、
そこから目が離せない。
今、欲しいのは、綺麗な夜景じゃ
なくて、このボールペンだった。
ちょっと、いたずらっ子の様に、
何も言わないで、そっと、ポケッ
トからボールペンを抜いてみる。
上手にできたみたい。
それを高井は気づかない。
ペンには高井の名が刻まれていた。
それを、嬉しそうに両手で持って、
目の前まで持ち上げたところで、
高井はようやく、気がついた。
「 どうした?嬉しそうな顔をして、
その、ペンが、そんなに、
気になるのか?あ~?それが、
欲しいのか?」
高井は、いつもよりも、
口数が多かった。
でも、茉由の気持ちも分かって
いた。
茉由は黙ったまま肯く。少し、
すがるような目をしてみる。
高井は茉由から、ペンを
ゆっくり取り上げると、
茉由と向かい合い、
茉由のスーツの胸ポケットに
ゆっくりと差し込んだ。
そして、そのまま、茉由の肩を
引き寄せ、優しくキスをした。
山下公園から出た、横断歩道の
信号待ちの間、二人の唇はずっと
離れなかった。
茉由は初めて瞼を閉じないで、
長いキスをした。夜でも、
ここは
明るかった。
観光地のここは、開放的で、
そんな二人を誰も観てはいない。
茉由は高井にドキドキしたのも
初めてだった。
茉由は、高井を、ずっと、
見ていたかった。
―
―
「 あれ? いけない 」
茉由は着替えを急ぐため、
寝室へ入ると、スーツの
胸ポケットに
あるボールペンを思い出した。
「 あ~、落としたら大変!」
せっかく、
オネダリシテ、手に入れたペン。
高井とのkissも、思い出した。
「 一人 」なのに、嬉しそう、
微笑みながら、ペンに、
もう一度、
軽く kiss をする。そこには、
高井の名が刻まれている、
茉由は自分の kiss を消すように、
その名を小指でなぞってから、
寝室のドレッサーの引き出しに、
ペンをそっと入れた。
高井の名が刻まれたペンは、
茉由の寝室にある。
―
―
「 おとうさん、
いっしょにお店、いって
くれないの?」
「 あ~、『 バーバ 』と行きなさい 」
「 おとうさん? なんで!」
子供の気持ちは、この夫には
伝わらない。
―
これには ……
お兄ちゃんは、一気に、今までの
報われない、苦労のストレスが、
「 父親への反発 」というカタチに
なってしまった。
お兄ちゃんは、
父親への「 男 」としての不信感
が、大きくできてしまった。
そして ……
茉由の母親も、茉由が何よりも
大切。
娘と離れるわけがない。茉由が、
関西に往くのならば可愛い孫と
離れても茉由について往く。
やっぱり ……
人懐っこい弟は、
パンダのお饅頭は買いに
行けずに、父親に
突き放されたのがショックで、
父親には近づかないように
なっていた。
だから ……
結局、茉由と一緒に、
夫以外の家族も関西へ往くこと
にした。
―
空気が全く違う、関西で ……
茉由には、関西の空気は、
関東の空気よりも、
濃いように感じた。
高井は、茉由が、新しい勤務先の
マンションギャラリーに初出勤
した日の朝一番に、
茉由を、真新しいマンションギャ
ラリーの、まだ誰も入っていない、
エントランスで迎え、
高井が「 ずっと渡したかった 」
茉由の新しい名札を見せた。
「 茉由、この名札は、二人の、
『 約束 』の……」
―
この会社のマンションギャラリー
には、主要駅近くに造られる、こ
の会社の、ブランドの、宣伝目的
での「 展示建物 」がある。
ここは、この会社の関西初出店の
マンションギャラリー。
「 一番目の 」と、気合の入った、
先ずは、会社のブランドを示すた
めの、西の玄関口、ターミナル駅
の近くに造られたもので、
関西の方々、ここへの御来場者は、
ここに来るだけで、
「 特別な時間が過ごせる 」
ここの、メインエントランスには、
高級サロンでも観られる、派手な
ロココ調の幅広の螺旋階段が
デン!と、造られており、
「 どうぞお入りくださいませ 」と、
来場者を派手に迎える。
それはまるで、関西での大舞台。
あの、宝塚にある歌劇団の舞台の
様だった。
高井が、
ずっと渡したいと思っていた、
自宅の書斎のデスクの上に、
真紅のリボンと置いていた、
やっと、手渡せることになった、
茉由の新しい
Family name に変わった名札。
高井には、妻が居る。
亜弥は美しくて、賢くて、この会
社の優秀な社員。勤務している、
本社広報部は、 適材適所。
そこでの仕事も充実していて、忙
しい、亜弥は、
これからも、仕事を優先し、
関西に来ることは、めったにない
だろう。
茉由は、高井にも、会社にも、
自分の病気の事は、まだ言っては
いない。
でも茉由に、
何も変わったことはない。
茉由は、あの夫の「 管理・監理 」
から離れ、
もう、夫からの制裁は受けない。
怖い思いをしなくて済む。
茉由は、ためらわず、高井から、
新しい名札を受け取った。
茉由の接客担当のユニフォーム
の左胸には、その名札が、確りと、
前を向いて着けられた。
最初のコメントを投稿しよう!