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第14話
三人から逃げるように洞窟を出た俺は、辺りをフラフラとしていた。
あまり遠くに行かないようにとリリーから釘を刺されていたけれど、いっそ戻れないくらいの距離まで離れてしまえば楽なのにと思う。
外は晴れているけれど、太陽は出ていなかった。昨日と同じどんよりとした雲が空全体を覆っていて、辛うじて夜ではないことがわかる程度だ。
他の『クリミナル』に鉢合わせるのは厄介だから、なるべく足音を立てないように歩いてみるけれど、どうしても落ちた小枝や雑草を踏みしめる音を立ててしまう。
心許ないならばひとりで行動しなければいい。それはわかってる。でもオレは、あのまま夜中は何もなかったという顔で三人と接するのは無理だった。
ひとりになって頭を冷やそう。そのためには、ひとりで身を潜められるところがあればベストだ。
――そういや、廃屋が密集していた場所があったな。
昨日、リリーと出会った場所だ。危険な目に遭いかけたし、先客がいるかもしれないけれど、見通しのいい場所に居続けるよりはいくらかマシなように思えた。
オレは記憶を頼りに、その場所に向かって歩き出した。
「……こっちで合ってるのか?」
不安のあまり思わずひとりごちる。
歩いても歩いても、変わり映えのしない、気分が悪くなるような鬱々とした景色が続くから、目的の場所に近づいているのかどうか、まったく自信がない。
「ねえねえ、君」
途方に暮れていたとき、女の声がした。
反射的に声のほうを振り向く。
所狭しと幹を伸ばす針葉樹の隙間を縫って、誰かが近づいてきた。
「――ちょっと待って、お願い」
オレを引き留めるように、慌てて距離を詰めてくる。
まず最初に目がいったのは、金髪の長い髪に青い瞳だ。彫りの深い顔立ちを見るに、おそらく日本人ではないだろう。
胸を大きくはだけた白いブラウスに黒いタイトスカート、そしてピンヒールという装いの女は、スレンダーなのに女性的な曲線美も十分すぎるほどに持ち合わせているという、魅惑的な容姿。
顔立ちも控えめに言って美人だ。オレに呼びかける口元からはホワイトニングでもしてそうな白い歯が覗く。
「……何だよ」
そっけなく答えてしまったのは、モデル体型の美人に怯んだからじゃない。いきなり他人を呼び止めてくるなんて、何かよからぬことでも考えているのでは……という警戒心がそうさせたのだ。
「ここはどこなの? ……誰もいないし、心細かったの。よかったら話し相手になってくれない?」
女は少し息を切らしながらオレの目の前に立ち止まると、不安そうに眉根を寄せて小首を傾げた。
その口ぶりから察するに、彼女は昨日のオレと同じ状況だということなのだろうか。
この世界の仕組みを何も知らないというのであれば、心細く思うのも仕方がない。ちょっと油断していると、他の『クリミナル』が声をかけてくることだってあるだろうし……。
「……話し相手くらいなら」
昨日、オレ自身がアンに助けてもらったこともあり、知らんふりを決め込むことができなかった。
それどころではないのに、お人好しな対応をしてしまう自分自身に呆れつつ、オレは了承した。
「ありがとう」
お礼を言う彼女の視線が、一瞬だけオレの首元に注がれたのを見逃さなかった。そこにはもちろん、蜘蛛のタトゥーが刻まれている。
「――あっちにね、壊れた小屋や建物がいっぱいあったの。そこへ行って話しましょう」
「わかった」
頷きながら、何か妙だな、と思った。
まるで最初からそこに連れ込もうとしていたみたいに、用意周到な言い方に聞こえてしまう。
「あなたに会えてよかった。ずっとひとりで不安だったの」
彼女はオレの左側に並ぶと、オレの左腕を取った。そして、自分の胸元を押し付けるように腕を組んでくる。
オレは、彼女がそれに気が付いていないものだと思って反射的に腕を引いたけれど、彼女は逆に遠ざかろうとするオレの腕を引っ張って、なおも自分の胸に密着させようとしてくる。
「…………」
脳裏に浮かんだのは、中国系の女を騙して蜘蛛を奪った北欧系の男のことだ。
力になるからと女に近づいて、気を逸らしてから蜘蛛を奪う。
……気を逸らすという部分では、やり口が似ている。
「他の『クリミナル』に襲われたりしなかったのか?」
「『クリミナル』? それは何?」
「……本当に何も知らないのか?」
横を歩く彼女に訊ねたわけではなく、自分自身に問うていた。この女は、この世界のことを本当に何も知らないというのだろうか?
「あなたが知ってることを教えてほしいの。ゆっくり教えて。あなたのことも……」
やけに身体を擦り寄せてくる彼女が、耳元で妖しく囁く。
昨日の、それこそ何も知らないオレだったら、彼女の溢れんばかりの色気に正常な思考能力を奪われてしまっていたかもしれない。
……でも、今は違う。
「……他を当たってくれ」
「え?」
「オレはその手には乗らない。他を当たってくれ」
不意に立ち止まったオレの様子を不思議がった彼女。その隙をついて、オレは強い力で女の腕を振り払った。そのまま、針葉樹の続く道を駆け抜ける。
廃屋に連れ込んで、オレを油断させた隙に蜘蛛を奪うつもりだったんだろう。
冗談じゃない。昨日の中国系の女のように、砂になるのはごめんだ。
あの金髪女は慣れている。あんな演技をした相手は、オレが初めてじゃないだろう。
彼女はピンヒールを履いていた。それを脱ぐにしても、全速力で逃げてしまえば追いつけないだろう。
ただ――もし彼女に仲間がいたとしたなら、逃がすまいとなおもしつこく追ってくる可能性はある。だから、オレは立ち止まるわけにはいかない。
実体はないはずなのに、息が切れて苦しい。納得がいかないと内心で腹を立てつつ、オレは周囲の景色が変わったことにも気が付かないまま、ひたすら限界まで走った。
「はぁっ……はぁっ……」
もうこれ以上は無理――というところで立ち止まった。両膝に手を付いて、呼吸が整うまで背中を屈める。
落ち着いたところで顔を上げ、辺りを見回してみた。
見覚えのある景色だった。目と鼻の先に、群生するヒガンバナと、血のように赤い色をした池が見える。
間違いない。ここは昨日、オレが目覚めた場所だ。オレが能面女に、半分死んでいると告げられた場所。
「何をそんなに慌てているの」
「わっ!」
誰もいなかったはずなのに、視線の先には能面女が立っていた。ちょうど目の前の女のことを思い出していたところだったから、吃驚して小さく叫んでしまう。
「な、何で、急にっ……」
「驚かせてしまったなら悪かったわ。私たち『スパイダー』は、空間の行き来を自由にできるから」
そうか、こいつらには空間移動の能力が備わってるんだったっけ……こっちは肺が壊れそうなくらいに息が上がってるっていうのに、優雅なこった。
「大方、危険な目に遭いそうになって逃げてきたってところかしらね」
「……だったら何だよ」
そういえばコイツは、オレに『蜘蛛の糸』の存在を教えずに黙っていようとしていたんだった。思い出したらまたムカついてきて、ツンケンした態度をとってしまう。
「『蜘蛛の糸』の件は悪かったわ。……私のしたことは、確かにフェアじゃなかった。チャンスは平等に与えられるべきだものね」
すると、能面女は予想外にそんなことを言って、しおらしく謝ってきた。
「会ったら謝ろうと思ってた。私にあなたの罪を知る権利がないように、現世へ戻る術を奪う権利もなかったのに」
能面女の虚ろな瞳に、ほんの少しだけ後悔の色が交じっているように感じた。
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