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第15話
「どう、ここでの生活は」
「もちろん、最悪だよ」
――どういうわけか、俺は能面女と血の池の縁に膝を立てて座り込み、他愛もない話をしていた。
「でしょうね。訊くまでもなかったわ」
能面女は、わかりきっているとばかりに頷いた。むしろ、これ以外の答えを返すヤツの顔を見てみたい。
「ここでアンタに会う前も、変な女に引っかかりそうになった」
もちろん、ほんのついさっき出会った金髪女のことだ。オレは苛立ちに任せて言った。
「変な女?」
「そう。色仕掛けでオレの蜘蛛を奪ってやろうって魂胆が見え見えのな」
「なるほどね」
きっと、この世界ではよくあることなのかもしれない。能面女の反応を見るとそう思う。
となりに座る能面女の顔を横から眺めてみると、意外に綺麗な顔をしているということに気がつく。
薄く緩い弧を描く眉に、切れ長の黒い瞳。白い肌、片側に束ねた黒く長い髪。黒いパンツスーツのよく似合うスラリとした体躯。
美人と呼ばれるに相応しい要素を多く持ち合わせているのに、なぜかそう思えないのは、やはり瞳に生気がないためだろう。
相変わらず目が死んでいる。表情が乏しいと、顔全体のイメージが暗く映るのだ。
「で、その最悪の世界から抜け出すためにどうするかは決めたの?」
能面女はオレの顔を見ずに、血の池の水面を見つめながら訊ねた。
「『蜘蛛の糸』を掴むかどうか……ってことを訊きたいのか?」
「そう」
「…………」
オレもとなりの女に倣って、池の水面を眺めた。
アンはここで魚が釣れるかもなんて話していたけれど、おどろおどろしい雰囲気が満載で、生き物の気配はなさそうだ。
「……正直、迷ってる」
本音がこぼれてしまったのは、自分でも意外だった。
「オレが罪人だとして、わざわざ他人の蜘蛛を奪ってまで生き返る意味があるのか、と。でも、蜘蛛を集めて記憶を取り戻して、自分が何者であるのかを確かめたいって気持ちも、捨てられないでいる。現世へ戻れる可能性があるなら、なおさら」
この共感性の乏しそうな女に自分の感情を吐露するつもりなんてないのに。結果、オレはひと息に素直な気持ちを告げていた。
不可侵条約とやらを結んでいるアンやリリー、リタさんには言いにくい内容だったから、まったく関係のない誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
「自分が何処の誰だかわからないのが、結構堪えてる」
「怖いの?」
視線を赤一色の水面に注いだまま、能面女が短く訊ねた。
「怖い……のもあるけど、思い出せって、誰かに追い立てられてるような気分になるんだ。早く思い出さないとって焦って、苦しくなるって言うか……」
激しい焦燥感が、自分を取り戻せと訴えかけてくる。
まだ全く記憶がないほうが遥かにマシだった。オレは幸か不幸か、すでに自分に関する手がかりを持っている。
ユーキという名前と――
『ユーキくんたら、男の子らしくないな。そういうときこそ、名前通り勇気出さなきゃ』
オレの頭のなかに流れ込んできた、リタさんにそっくりな女が放った言葉。
「仕方ないわ。それが『クリミナル』に与えられた罰なのだから」
顔を上げた能面女が、やっとオレのほうに視線をくれる。
感情の全く読めない瞳は、瞬きもせずにただオレの顔を見つめている。
「罪人は罰を受けなければならない。そういうシステムだから、諦めて受け入れてもらうしかない」
「簡単に言ってくれるけど」
あまりにも他人事な言い方に、つい言い返してしまった。
「――いきなり逃げ場のない絶望的な状況に追いやられて、何の罪を犯したのかもわからないのに、それをすんなり受け入れるなんて無理だ。罪を犯した記憶もないのに。それすら罪だから甘んじて受けろとでも?」
「……そうね」
「アンタは所詮『スパイダー』だもんな。オレの気持ちなんてわかりっこないか」
今度は意図的に反発する。生と死の瀬戸際に立たされている『クリミナル』の恐怖なんて、理解できるわけがない。もっとも、理解する気もないのだろうけれど。
「…………」
会話に空白が生じる。間髪入れずに血の通わない無機質な肯定が返って来るかと思っていたのに。
「わかるわ」
すると、能面女は意外な言葉を放った。
「そんなわけ――」
「わかるわ。私も『クリミナル』だったのだから」
「なんだって?」
能面女が『クリミナル』?
この女が何を言ってるのか、瞬間的には理解することができなかった。
「私もかつては『クリミナル』だったの。あなたと同じね。それから『スパイダー』になった」
「ちょっと待ってくれ――『スパイダー』になるって、どうやって」
今までアンやリリーから聞いた話に、そんな情報はなかったはずだ。
「これはほとんど知られていないけれど、消滅を回避しながら、自分の記憶を思い出す方法はもうひとつあるのよ。それが『スパイダー』になることなの。この世界では、裁きを受ける側から、その監視役に回ることで、自分の犯した罪を償うことができる」
能面女は表情一つ変えず、淡々とした口調で続けた。
「参考になれば――少し私の話をしましょうか」
言いながら、能面女が視線で問うた。オレは頷いて、先を促す。
「この世界で目が覚めたとき、私は全ての記憶を保持したままだった。そういうケースは極めて稀であると、私の監視役だという『スパイダー』に教えてもらった」
「……それで」
「私は途方に暮れた。このまま何もしなければ、この実体のない身体は朽ちて消滅してしまう。それを回避するためには、蜘蛛を集め続けて仮初の寿命を稼ぐか、蜘蛛を三匹集めて『蜘蛛の糸』を掴むか。そのどちらかを選ぶしかないのだと。でも私は、どちらも選びたくなかった。自分自身が誰なのか、罪が何なのかを知ってしまっていたから、現世に戻りたいなんて到底思えなかった」
そのとき、オレは初めて能面女の顔にある感情が灯ったのを見た。苦悩だ。
彼女は小さく息を吸い込むと、口元を隠すみたいに手を当てた。
「でも一方で、『消滅』も恐怖だった。自分の意識が完全に消えたらどうなってしまうのだろうかと考えたら、気がおかしくなりそうだった。だから、どちらも選びたくないと、『スパイダー』に告げた。取り乱す私を哀れんだその『スパイダー』が、もうひとつ違う選択肢があると教えてくれた」
「……それが、『スパイダー』になることだっていうのか?」
能面女が静かに頷く。
「そう。『スパイダー』になってしまえば、存在は消滅しなくて済む。その代わり」
そこで一度言葉を区切ると、黒々とした長い睫毛を伏せた彼女は、吐き捨てるように言った。
「……この世界で、罪人を監視し続けなければならない。永遠にね」
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