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第16話
「……この世界で永遠に生き続ける」
能面女の言葉を繰り返しながら、ゾクリと寒気がした。
全ての記憶を持ったまま生き続ける。
……いや、違う。生かされ続けるのだ。強制的に。
「アンタは、そんなにまで消滅が恐ろしかったというのか?」
オレが彼女の立場だったら、と考えてみる。
消滅することよりも、現世に戻りたくないと思うほどの罪を犯した記憶を抱えてこの場所で永遠に生き続けるほうが、よほど辛いのではないだろうか。
「…………」
オレの問いかけに、能面女は少しの間黙っていた。
考え込んでいるのか、答えることを躊躇っているのかはわからない。
別の問いを向けてみようかとの思いが過ったところで、
「正常な判断力を失っていた。現世へ戻らずに消滅しない方法があるのならと、安易に選択してしまったの。愚かだったと、今ならわかる」
能面女は再び水面に視線を落としてから、輪をかけて抑揚のない声で呟いた。
オレはハッとして、唇を噛む。
「……悪い」
「どうして謝るの?」
「相手の気持ちがわかっていなかったのは、オレのほうだったな、と思って」
ほんの数分前に彼女に放った言葉を思い出していた。
目の前の死んだ魚の目をした女は、オレと同じ『クリミナル』だった。それも、失っているはずの記憶を保持したままだったのだという。
存在の消滅の危機が迫ったとき、オレが冷静な判断ができるかどうかは未知数だ。それは、当事者でないと到底わかりえるものではないからだ。ならば、オレに彼女の選択を非難する権利はない。
「……変な人ね、あなた」
「アンタに言われたくないけどね」
オレが軽口を叩くと、能面女はやや眉を潜めて不服そうだった。けれど、それもほんの一瞬のこと。
「私が言いたかったのは……結局、どれを選んでも辛い結果が待っているということ。『蜘蛛の糸』を掴もうが掴むまいが、ハッピーエンドは勝ち取れない。それなら、消滅するという恐怖に耐えながら、自分自身の痕跡ごと消し去ってしまうのが一番いい。そう思ったから、あなたに嘘を吐いた」
「…………」
なら、能面女はよかれと思ってオレに嘘を教えたというのか。
選択肢があったおかげで苦しい思いをしたから、いっそ最初から選べないように、選択肢を与えなかった――と。
「でも……それはやっぱり間違っていた。どれもが辛い結果に繋がっているとしても、あなた自身が決めるべきね。チャンスは平等に……あの赤い髪の男も言っていたでしょう」
「赤い髪――ああ、アンか」
「アン、と呼ばれているの? あの男は」
「ああ。本名じゃないだろうけど、便宜上、他の『クリミナル』にそういう名前を付けられたみたいで」
赤毛のアン。確か命名したのはリリーだったはず。
「……そう」
何だか、訝っているような言い方だ。……気になるな。
そう言えば、アンと能面女は顔見知りみたいな雰囲気だった。
『あなたなんかに言われたくない』
ぴしゃりとした口調でアンに言い放っていたのが、脳内で蘇る。
『クリミナル』のアンに口出しされたくないとか、そういう意味にももちろん受け取れるけど、あの言葉にはもっと……嫌悪とか、侮蔑のようなものが交じっていたような。
「あの男と関わるのはやめたほうがいいわ」
戸惑いを覚えていると、能面女が冷たい声音で言う。
「アンと? ……どうして」
「あの男を信じないほうがいい」
「何でそんなこと……あの人は、オレの恩人だ。『クリミナル』のなかでは信頼できる人だって思ってる」
「会ったばかりのあの男をなぜそんなに信用できるの?」
「見てただろ。大男に襲われてたオレを助けてくれたのはアンだ。誰かさんは知らんぷりしてたけどな」
あのとき、オレが蜘蛛を奪われなかったのはアンのお陰だ。自分はルール説明もそこそこに傍観を決め込んでいたくせに――と、皮肉を込めて言ってしまう。
「……いいわ。忠告を聞き入れるかどうかも、あなたが決めればいい」
彼女は興味をなくしたように言って立ち上がった。スーツの裾や尻の部分を手で叩き、汚れを取り払う。
「待てよ――アンタ、アンと何かあったのか?」
話はまだ終わっていない。オレは早口で訊ねながら彼女を仰いだ。
「忠告はしたわ。あの男には気を付けて。何を考えているかわからないから……それじゃあ、運が良ければまた会いましょう」
「あっ、おい!」
引き留めようと咄嗟に出た片手は、空しく宙を掻くだけだった。
能面女は質問には答えないまま、辺りの淀んだ空気に溶け込むように姿を消した。
「……何だよ、それ……」
『あの男には気を付けて』
能面女の単調な声が耳にこびりついて離れない。
残されたオレは、モヤモヤした気持ちを抱えながら、口のなかでそう呟いた。
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