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第1話
それからどれ位の時間が経ったのだろう。身体の感覚が戻ったことに気がつく。
「っつ……」
頭が痛い。しこたま強く打ちつけたような、ガンガン響く痛みだ。
その痛みに呻きながら、オレはゆっくりと目を開ける。
まず視界に飛び込んできたのは灰色。白でも黒でもない、曖昧なグレーの、曇りの日の空模様。
それでも、長いこと暗闇のみを映していた瞳には刺激が強くて、反射的に右手の甲を額にくっつけた。
指の隙間からほんの少しだけ零れてくる光を受け止めながら考える。
……あれ、オレはどうしたんだっけ。
目覚めた直後のぼんやりした頭で直前のことを思い出そうとするけど、それより今は、此処が何処であるのかが気に掛かった。
背中を支えているのは、固いような柔らかいようなひんやりした感触。
体側にある左手や直に触れている襟足のあたりがほんのちょっと湿っぽく、くすぐったい。
草だ。ならばこの下は土ということになる。……じゃあ、野外、か?
痛むのは頭だけ。他の部位が動くことを確認しながら、ゆっくりと上体を起こしてみる。
投げ出した自分の足先――ダメージの入ったストレートジーンズと、爪先の汚れた茶系のスニーカーが目に入った。
地面に両膝を付き、片足ずつを踏みしめ立ちあがろうとした次の瞬間。
「うわあああ!?」
オレは飛び上がって尻もちを付く。叫び声を上げずにはいられなかった。
横たわっていた場所から、前方にほんの一、二歩の距離。ごつごつした岩に囲まれた、おそらく十メートル四方ほどの水溜り。
その水の色が――まるで血のように真っ赤に染まっていたのだ。
……な、何だこれっ、気色悪っ!!
嫌な予感がして、痛みを覚えた頭をぺたぺたと触ってみる。前頭部。側頭部。後頭部。
――目の前に広がる赤と自分に、何の関連性もないことを知ってホッとする。
まぁでも、そうか。一面に広がる赤がオレの身体から流れ出たものだとしたら、こうして何事もなく生きていられるはずがないし、
これだけの広い池なんだから。もとよりこんな色だったと思うのが自然だろう。
……しかし。物凄い光景だな。
赤い池の周りには、同じ色の花がそれを取り囲むように咲いていた。
放射状についた針みたいに細い花びら。確かこれは――ヒガンバナ。
血のように赤い池にはピッタリの取り合わせだ。背筋に冷たいものが走るくらいに。
「目が覚めた?」
言葉を失っていると、背後から女の声音が振ってくる。
澄んでいるのに何処か冷たさを感じるウィスパーボイス。振り向くと、その声の主が中腰でオレを見下ろしていた。
長い黒髪をサイドで一つに結わえた彼女は、上下黒のカッチリしたパンツスーツに身を包んでいる。
たった今トンデモな景色を目にしたばかりのオレには、その姿が物々しい黒装束に思えてしまう。
まるで地獄の使者のような――
「地獄へようこそ、『クリミナル』」
使者が片膝をついてそう言った。涼やかで切れ長な瞳がオレの顔を覗き込む。
涼やかってのはよく言い過ぎか。諦観。無気力。あらゆる情熱のないその瞳までもが、吸いこまれそうな漆黒。
雪のように白い肌とのコントラストで余計にそう感じる。
いや、それより!
地獄? 地獄だって、今そう言ったか?
死んだ魚の目をしたスーツの女は、おそらく情けないほど怯えた顔をしているだろうオレを見つめたまま、細く真っ白な手を伸ばす。
手を貸してくれようとしているのだと気付いて、その手に掴まり起き上がった。
冷凍庫の中にいたみたいな、冷たい手。それに驚いて、オレは地面を踏みしめるとすぐに彼女の手を放した。
目線が上がると、周囲の景色を見渡せるようになる。
傍らの赤い池の周りは静かな平原で、背の高い雑草が視界を遮るように群生している箇所もあった。
その池の周りを樹海と言ってもいい、鬱蒼と茂った暗い森が取り囲んでいる。
妙なことに虫や動物――生物の気配はない。ただ、時折生ぬるい風が吹いたときにサワサワと揺れる草花や葉の音が聞こえるだけだ。
不気味な空間。再びゾクリと悪寒がした。
「そんな、まさか……」
オレは笑い飛ばすつもりで言った。でも、上手くいかなかった。
「こっ、此処は何処だ!? アンタ、一体誰なんだ!?」
向かい合ったオレたち。背後の池を見ないようにしながら、矢継ぎ早に尋ねる。
「では逆に訊くけど、あなたこそ、一体誰なの?」
「オレ、オレは――」
名乗ろうとしてはたと気がつく。オレは誰だ?
……頭をフル回転させて考えてみるけれど、答えが出てこない。
年齢も、身分も、名前さえも。
オレがオレ自身であるのは確かだと分かるのに、ではどんな『オレ』だったのかという記憶がまるきり抜け落ちてしまっている。
女は予想通りとばかりに、答えに詰まったオレを口元だけで一笑した。
「ごめんなさい。答えられないと知っていながら、意地悪な質問だったわ。私は『スパイダー』……あなた方『クリミナル』を監視する者」
「……?」
何だそのカタカナ。耳に馴染みがなくて、眉間に力が入る。
「あなた、分からないんでしょ。自分が何者であるのか。どうして此処にいるのか」
その通りだ。オレが頷く。
「教えてあげる。それが私の仕事だから」
女はすうっと息を吸い込むと、一息に言った。
「此処はあなたが生活していた世界とは全く別、地図や地球儀にも――何処にも存在しない、特別な場所」
『地図や地球儀にも存在しない、特別な場所』?
そんな場所があり得るのかと訝っていると、目の前の女は続けざまに、ともすればぶっ倒れてしまいそうなほど衝撃的な事実を告げた。
「あなたは何らかの理由で命を落とした――そう、死んでいるの」
――――!?
「ば……馬鹿な!!」
何だって!? お、オレが……し、死んだ!?
そんな筈はないと、固く拳を握った。
大地を踏みしめる足も、言葉を紡ぐ唇も、痛みを覚えた頭も。
それに今、力を込めた指の先だって、オレ自身のものに間違いない。
死んでいるなんて嘘だ。現に――こうやって生きてるっていうのに!
「信じられないのも無理はないけど、抗いようのない事実なの。認めて」
瞬き一つせずに、女は緩く首を横に振る。
「認めてって……そっ、そんな簡単に言われて、認められるワケ――」
「まず認めて貰わないことには、続きを話せない。……こう見えて、私も忙しいのよ。あなたに事実を告げるのは仕事の一部だけど、義務じゃない。私はこのまま、あなたを置いて去ることも出来る」
機械的な口調でオレの言葉を遮りながら、表情のない顔に少しだけウンザリという感情が滲む。
オレがどうなってしまっても自分には何の関係ないと言いたげだ。
女の言う通り、このまま放置される可能性は存分にある。そうなっては敵わない。
一度、深呼吸をした。
落ち着け、オレ。色々とショックなことを告げられて、頭がぐちゃぐちゃしているけど。
……取りあえず、話だけでも聞いてみよう。
聞いて納得できる内容かどうかは、後で決めればいい。
「わ、わかった、認める。……オレは死んでるんだな。死んでこの世界に来た。それは、何でだ?」
本当は反発心の方が勝っていながら、表向きは従順に受け入れた振りをする。
そして先を急かすと、女は再び能面のように感情が籠らない顔に戻って頷く。
「あなたは現世で『罪』を犯した」
「罪?」
「それがどんな『罪』なのか私は知らないし、知る権利もない。それが原因で天上に拒まれ、此処へやってきた」
「えっと、天上っていうのは……?」
「あなた方が『天国』と表現するところ。『極楽』って言い方もするのかしら。死んだ人間はその『天国』――天上へ行き、魂の浄化をされながら次の生まれ変わりを待ち、地上に再び生れ出る。でも罪人であるあなたの魂は浄化を拒まれ、行き場をなくしてこの地獄にやってきた」
「地獄……っていうのは、その、地獄、なんだよな? 閻魔がいるっていう」
何だか訊くばっかりで能面女の機嫌を損ねたりしやしないかと心配になったけど、知らないことを訊ねる分には構わないらしい。
顔の上半分を微動だにさせず女が尋ねる。
「閻魔?」
「ほら、『悪いことをすると地獄の閻魔サマに舌抜かれる』とかって言うじゃん」
子供のころ、悪戯をして怒られたときに、親だか学校の先生だかに脅かされたことがあったような。
両眉をつり上げ、真っ赤な顔でこちらを睨みつける閻魔大王の顔を想像して身震いした。
……不思議なもんだな。重要なことは何一つ覚えてないのに、こんな些細な記憶はおぼろげにあるなんて。
オレの心配を余所に、能面女はかぶりを振る。
「此処には閻魔なんていない。いるのは、あなたのような『クリミナル』と、私のような『スパイダー』だけ」
何だ、いないのか。ビックリさせやがって――ホッとしたのは一瞬。
また出た。『クリミナル』に『スパイダー』……オレの知らない言葉。
「あのさ、さっきからちょくちょく出てきてる、『クリミナル』とか『スパイダー』とかって何なんだ?」
「『クリミナル』はあなたのように現世で罪を犯し、何らかの事情を経て死に至り、此処へ落ちてきた者のこと。そして『スパイダー』は――『クリミナル』の刑の執行を見届けるための監視役」
「ちょっと待て、刑の執行って?」
聞き捨てならない。刑の執行――刑っていうのは、『クリミナル』の……つまり、オレの?
「そのままの意味よ。『スパイダー』は『クリミナル』の刑がきちんと執行されたかどうか見届ける義務がある」
「だから、その刑っていうのは何なんだよ?」
「『クリミナル』は罪人。罪人には罰を与えなければいけない。あなたのいた世界でもそうだったでしょ?」
「……ああ、そうだな」
法を犯した者には刑罰を――っていうのが、社会のルール。
だけどオレが罪人っていうのは腑に落ちない。罪人って犯罪者だろ?
……いや、まぁいいか。それは後で考えよう。
「『クリミナル』に与えるべき罰はただ一つ――魂の消滅」
「魂の……しょう、めつ?」
「そう。穢れた魂を再び地上に戻すことは出来ない。何故なら、罪人は生まれ変わっても罪人となってしまうから。それが分かっているのなら、此処であなた方の魂を消す――存在を消すより他はない」
「っ!?」
存在を消す……だって!?
「此処で悔むのよ――あなたのその身が朽ちるまで。犯した罪を、ね」
「なっ、何だよそれっ!」
直ぐ傍まで危険が迫っていることを知り、オレは喚いた。
いや、危険も何も、この女の言葉をまるっと信用すれば、既に死んでしまっているのだということになるけど……。
だけど、そんなの信じられるかよ。
オレは生きてるんだ。ここでこうして存在しているってことが、証明にはならないのか!?
「大体、オレには此処に来るまでの記憶が何一つないんだ。そんな状況で罪人だなんて言われたって、納得できるワケないだろ!?」
「心配いらない。記憶をなくしているのはあなただけじゃないから」
身振り手振りが激しくなるオレに、能面女は淡々と告げる。
「オレだけじゃない?」
「此処にやってくる『クリミナル』の殆どがそう。たまに覚えているっていう悪運の強い者がいたりするけど……そんなのは本当に稀」
「羨ましい話だな」
宝くじを買って外れた。皮肉っぽく言うと、能面女の瞳が、このときだけは鋭く光った。
「羨ましい? ……自分が現世でどんな人間だったかなんて、知らない方が幸せなんじゃないかしら。大なり小なり、犯罪者には変わりないんだから。ロクでもない人間だったには違いないもの」
実感済みとでも言いたげな、嫌に自信のある物言いに引っ掛かる。
「それでもオレは、自分が誰だかも分かんないなんて……耐えられないよ。アンタはオレが何処の誰だったのか、知らないのか?」
「知らない。あなたの罪と同じ、私には知る権利がないから」
よもやこの女が教えてくれるのではないかという淡い期待は、ものの見事に打ち砕かれる。
「あっ……!」
そのとき閃光のように名案が降り注ぐ。思うが早いか、オレは前後左右にあるジーンズポケットに手を滑り込ませた。
――財布。財布の中に身分証でも入っていれば。
思惑とは裏腹に、出てきたのは携帯電話だけだった。無地の黒いカバーのついた、スマートフォン。何かの衝撃をモロに受けたのか液晶画面が割れていて、電源も入らず、使い物にならない。
手掛かりなしか――と嘆息したところで、そのスマホカバーに括られたストラップに目がいく。
黒いレザーに、キャラクターモノのチャームがついたそれをまじまじと眺めてみると、レザーの片面に『YUKI』と印字がしてあった。
もしかして、ネームストラップというヤツなんじゃないだろうか? だとしたら、オレは……。
「……ユキ?」
音にしてみても、その名が自分のものなのかどうかの確証は得られなかった。
でも……何だろう、胸の奥がザワザワする。ユキ。ユキ。いや、ちょっと違うな。そうじゃなくて――
「――ユーキ」
口にした途端、目の前がぐるりと渦巻いた。
退屈そうにオレを見る能面女とは別の――知らない女のシルエットがブレンドする。
ソイツはオレの耳元で、こんな風に囁いた、気がした。
『ユーキくんたら、男の子らしくないな。そういうときこそ、名前通り勇気出さなきゃ』
「!」
「どうしたの?」
能面女の問いかけで景色が正常に戻る。
視界に侵食してきた謎の女の影もすっかり消え、先刻までの平原が広がっていた。
……今のは、何だったんだ?
「そんなに目を見開いて。何か思い出したの?」
能面女は重ねて尋ねる。そうなんだろうか。オレは――何かを思い出そうとしていたのだろうか。
「……わからない。けど」
「……?」
「……ユーキ。多分、オレの名前はユーキなんじゃないかと、思う」
ユーキという音の響きに、何処か懐かしさを覚えたのもそうだけど……。
『ユーキくんたら、男の子らしくないな。そういうときこそ、名前通り勇気出さなきゃ』
この言葉がオレに向けられたもので、底なし沼のような意識の中で偶然掬い上げることが出来た記憶の断片なのだとしたら。
「そうですか。それは幸運ですね。自分の記憶を一切取り戻せないまま消えていく『クリミナル』は、非常に多いんです。だから、あなたはとてもラッキーだと言える」
実際そう思っているのかどうかは怪しい口調で、能面女が言う。
「ですが」
無気力な中に強い転換。彼女は唇に緩く弧を描きながらこう続けた。
「あなたが自分の名前を思い出したこと、他の『クリミナル』には黙っておくことをお勧めします。……誤解、されてしまうから」
「……誤解されてしまう?」
オウム返しをすると、逡巡するような間が空く。
「……いえ。その方が、あなたのためだと思うから」
そして、そうとだけ告げる。何か言いかけたのを止めた――そんな雰囲気だった。
「…………」
オレの中で、この能面女への不信感が一気に高まった。
そもそも、だ。この状況を受け入れろという方が間違っている。
ここは地獄で、オレは『クリミナル』とか何とかいう――犯罪者。おまけに、既に死んでいるときたものだ。
そんなのはファンタジーの世界の中だけにしておいて欲しい。「はいそうですか」と信じられる筈がない。
……もしや、と思う。これは壮大なドッキリなんじゃないだろうか?
能面女が仕掛け人だったとしたら。後ろの赤い池も仕掛けの一部だったとしたら。
オレは背後を向くと、さっきそうしたように四肢を地面について池の中を覗き込んだ。今度は目を逸らさずにまじまじと観察する。
間近で見ても不気味な色だけど、透明度は意外と高いということが分かった。
……これ、人為的に作ったモノだってことは考えられないだろうか?
こうやってオレがテンパっているのを、皆、その辺の草叢から眺めて笑っているんだ。そうだ、そうに違いない。
――いや、待て。皆って誰だ?
失念していた。オレには名前以外の記憶がないじゃないか。
いくらドッキリでも、オレの記憶まで奪うことは出来ないだろう。
じゃあ……じゃあ……やっぱり能面女の言うことは、本当……?
水面には、絶望に打ちひしがれる若い男の顔が映り込んでいた。
細かな部分までは判別できないけど、数少ない自分を知るヒントだと思って、食い入るように見つめる。
歳はおそらく二十歳前後。日本人的な黒髪に、黒い瞳。上半身はダークグレーのTシャツの上に、赤いチェックのミニタリーシャツ。
そして――顎の下、右寄りの首筋に、ぼやっと浮かぶ黒い染みのようなもの。何かの模様に見える。
「……蜘蛛、か?」
そう、蜘蛛だ。八本足の蜘蛛。彫りモノにしては、今にも動きだしそうなほどリアル。
タトゥーなんて随分シャレたものを入れてたんだなと思いつつ、ハッと気がつく。
蜘蛛――『スパイダー』。
ひょっとしてこの蜘蛛はもといた世界から持ってきたものじゃなく、此処で、何か特別な意味を持つモノではないか。
「なあ、この首の模様は――」
能面女に尋ねてみようと腰を上げた瞬間。
後ろに見えた草叢――彼女からも数メートル後ろにある茂みから、ガサッと勢いよく何かが飛び出る音が聞こえてきた。
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