第2話

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第2話

「っ!?」  完全に向き直るより早く、オレは地面に叩きつけられていた。  さっきまでは頭が痛んだけれど、今は背中から腰にかけてがジンジンと痛む。  何だ――何が起きたんだ!?  思わず閉じてしまっていた目を開くと、オレより一回りも二回りも体格のいい大柄の男が腹の上に跨っていた。  目が覚めるような黄色のパーカーに、片方の裾にオレの脚が二本入りそうなグレーのスウェットの大男。  肌の色は浅黒く、頭髪が極端に短いスキンヘッド。彫りの深い顔立ちで、瞳の色は琥珀。こげ茶色の髭が輪郭を囲んで蓄えられている。 「ちょっ――えぇっ!?」  何とか逃れようと身体を動かしてみるけれど、強い力で両腕を押さえ付けられていて、起き上がることが出来ない。 「騒ぐな。お前は『クリミナル』だな?」  何処からどう見ても外国人――多分だけど、西欧系――の大男が発したのは、想定外の美しい日本語。  そんな、騒ぐなって言われても……この状況で大人しくしている方が難しいだろ! 「はっ、放してくれっ――」 「騒ぐなと言っただろう。答えろ、『クリミナル』だな?」 「そっ、そうです――ぐっ……!!」 「なら大人しく蜘蛛をよこせ」  恐ろしさのあまり素直に答えると、男はトランポリンで遊ぶ子供みたいにオレの身体の上を跳ね、ただでさえ低音だった声音にドスを利かせた。 「がっ……!」  無遠慮に体重を掛けられたオレは、腹を押すと音が鳴る人形のように呻くことしか出来ない。  そんなオレの態度に苛立った大男が、唾を飛ばしながら言った。 「聞こえなかったのか? もう一度言う、蜘蛛をよこせ!」 「く、蜘蛛って――何の……っ、痛っ!」  男は太腿の間で腹を押さえ付けながら、骨が砕けそうなくらいの強い力で、頭上にあるオレの両腕を締め上げる。  このままじゃ本当に砕けてしまうかもしれない。冷えていく指先の感覚に危機感を募らせる。  と――血走った目でオレの顔を見つめていた大男は、片方の手を解き、オレの顎に掛けてニヤリと笑う。 「――何だ。こんな分かりやすい場所にあるじゃないか」 「え……?」  男は指先をスライドさせて、オレの首筋――今さっき蜘蛛のタトゥーを発見したその場所を、手のひら全体で覆うように触れる。 「遠慮なく貰っとこうか!」 「えっ――うああああああっ……!!」  大男が高らかに宣言すると、そこを錆びた刃物でぐりぐりと抉られるような強い痛みを覚えた。  触れているのはヤツの手のひら。なのに――気が遠くなるほどの衝撃が、オレを意識の果てに連れて行こうとする。  ヤバい。これは、冗談抜きにして、本当にヤバいっ……!! 「たっ、すけ――助け、てっ……!!」  痛みと恐怖とでカラカラの喉から悲鳴を絞り出し、付近で大男の行為を見つめているだろう能面女に助けを求める。 「…………」  だけど返事は返ってこない。オレがこんな目に遭っているのに、見て見ぬふりをするつもりらしい。 「っ、はぁっ――っ!」  段々、過呼吸になったみたいに、上手く息が吸えなくなる。  至極嬉しそうな大男の表情に小さな火花が散って重なる。そして、段々と景色が白んでいった。  ダメだ――もう、もう、意識が薄れて……。  ワケも分からないまま死を覚悟し、抵抗を諦める。  ……おかしいな。能面女が言うには、オレってもう死んでいるらしいのに。  なんて、手放しかけた意識の端で考えていると――急に、腕の鋭い痛みと、腹の上に乗っていた重みが取れた。 「はぁっ――はぁっ、はっ……!」  すると再び呼吸の機能が復活し、指先に血の気が、白く塗りつぶされた視界に色が戻ってくる。  ――大男は何処へ?   ヤツの存在を気にできるようになった頃、オレの顔のすぐ右側で靴音と、金属質な何かがチャラリと揺れる音がした。  気力だけで視線をそちらに向ける。目に飛び込んできたのは赤いハイカットのスニーカー。  大男のものだろうか? ……いや、違う。  スニーカーから足首や脹脛を辿ってみると、裾が擦り切れた色落ち気味のブラックジーンズ。  膝の下から少しだけ裾が広がるブーツカットのそれは、ダボっとした大男のスウェットとは別モノだ。 「テメェ……邪魔するんじゃねえよ、ソイツは俺様の獲物だ!」  大男の声は反対側――左側から聞こえてきた。呼吸を整えつつちらりと様子を窺って見ると、大男は脛を抱えて蹲っている。  ……? ダメージを受けている?  俺の右側に立っているだろう人物は、チャラチャラという謎の音と共に笑いながら言った。 「新入りくんに手厚い歓迎過ぎやしないかい? ゲーム真っ最中のお宅と違ってさ、この子はまだルール説明が始まったばっかだよ?」  コイツも男だ。大男と違い、暢気な口調は状況を面白がっているようにすら聞こえる。 「そんなこと言って、テメェが横取りするわけじゃねぇだろうな?」 「馬鹿言わないでよ、こう見えて俺は紳士なんだ。少なくともあんたみたいに、ゲームスタート地点を狙って襲い掛かるなんて卑怯な真似はしないね」 「なんだと!?」 「だってそうでしょ。此処を張ってれば新しい『クリミナル』が現れる。隙を見計らって蜘蛛を奪っちゃえば楽だって思ったんだよね?」  オレを挟んでのやり取り。赤いスニーカーの男の挑発的な口調は、大男の怒りを増幅させていく。 「ねえ、違うの? ……『俺って頭いいじゃーん♪』とか思ったんだろうけど、あんまり褒められた方法じゃないよね?」  赤いスニーカーの男はオレの身体を跨いで、大男の傍へ寄っていった。  オレはごろりと身体を回転させ、二人の方へと向く。  フードを被ったカーキ色の背中は、オレの背丈と変わらないくらい。その影が大男の前で悠然と立ち止まった。  同時に錫杖に似た涼しげな音も止む。  音の正体は直ぐに明らかになった。大男を見下ろす彼の右手には細身のブレスレットが幾つか重なっていたから。 「テメェ、馬鹿にしやがって!」  大男の怒声にパシっと乾いた音がハモったから、オレは見ていられなくて目を瞑った。  体格の差は明確だった。マトモにやり合ったらどう足掻いても赤スニーカーの負けだ。   オレを庇ったばっかりに。関係のない彼を巻き込んでしまった――と、罪悪感を覚えたのだけど。 「暴力反対ー」  警戒感の全くない間延びした声に瞳を開ける。そしてブレスレットの音。  体勢を立て直し立ち上がった大男の腕を、赤スニーカーがサッと払ったところだった。 「このっ――!」 「――――……」  払われたその手を、もう一度赤スニーカーの頭上に振りおろす大男。  すかさず赤スニーカーが、相手にだけ聞こえるトーンで何かを呟いたみたいだった。すると。 「っ!?」  それまで怒りに染まっていた大男の顔が、遠目から見ても青ざめていくのが分かった。  どんな呪文を唱えたのかは知らないが、効果テキメン。大男から戦意が失われていく。 「分かったら自分の住処に戻りな」 「クソッタレ!」  大男は額に汗を滲ませながら最後に短く吐き捨て踵を返すと、森の方へ消えて行った。  ……えっと。よく分からないけど、助かったってこと、か? 「ねえ大丈夫? 起きれる?」  大男が去ったことを確認すると、赤スニーカーが気遣わしげに声を掛けてくれる。 「あ、はい――」  身体を傷めてはいないようだ。腹筋に力を入れて起き上がり、今しがたの危機を救ってくれた恩人に歩み寄る。 「そーお。無事でよかったー」  彼は被っていたパーカーのフードを取って明るく笑った。ふわりと降りた髪は鎖骨に掛かるくらいで、赤茶色に染まっている。  歳は、オレがハタチ前後だとして同じか少し上くらい。猫のようにいたずらっぽい二重の瞳と、高い鼻梁が特徴的なイケメンだ。  でも爽やか系というよりは繁華街のゲームセンターが似合いそうな、人当たりは好さそうだけどカルそうな感じのする人。 「何か……その、助けて貰ったみたいで。ありがとうございます」  オレはペコリと頭を下げて礼を言った。口調も自然と改まる。 「いーえ。キミ日本人でしょ? 俺、愛国心強いからさあ、放っておけなくてー、つい」  そんなことを言うからにはこの赤スニーカーも日本人なのか。なんて考えていると、彼がオレの首元を覗き込んで苦い顔をする。 「うーん……しかし場所を選べないとはいえキミもツイてないなー。さっきの男の言う通り、随分、分かりやすい場所に出てきちゃったね」 「……な、何のことですか?」 「当然、蜘蛛のことだよ。ぱっと見で目立つ上、触れやすい場所だもんね。これから大変だあ」 「この蜘蛛のマークって、そんなに重要なモノなんですか?」 「あれえ、まだ聞いてない? そこの人に」  そこの人とは、オレたちから一歩も二歩も退いた位置で他人事を決め込んでいる能面女のことに違いない。  能面女は何の感情も点らない瞳でオレたちの様子を見ている――というか、ただ視界に収めている、といったところか。  オレが「まだ」と答えると、赤スニーカーはちょっと意外そうに目を瞠った。 「ふーん、そ。じゃついでに教えておくわ」  赤スニーカーがスラリとした指でオレの首を指しながら言った。 「……『クリミナル』の身体には、一人に一匹、蜘蛛の印が刻まれている。これ、蜘蛛を『飼ってる』状態なんだ。人によって蜘蛛の印が現れる場所は違って、それは此処に―――地獄に落ちてきたときから決まってる」 「蜘蛛を、飼ってる……?」  なるほど。オレが此処に来る前に彫ったモノだと思ってたけど、そうじゃなくて。  この地獄とやらにやってきた『クリミナル』には、誰しも刻まれるモノってことなんだな。 「ん。で、キミ、ここからが重要だよ、よく聞いててね。……さっきの男は、キミに蜘蛛をよこせと言っていたろ? どういう意味か分かる?」 「……さあ、分かりません」  大男の鬼気迫る表情を思い出す。オレを『獲物』と呼んでいたし、いやに必死だったけど……。 「蜘蛛の印は、この世界で生きていく上でのキミの核――心臓だと思ってくれていい。言いかえると、此処では蜘蛛がキミの命になる。蜘蛛を奪われた『クリミナル』の魂は、問答無用で即消滅するんだ。ジ・エンドってワケだね。そして、新たに蜘蛛を増やした『クリミナル』は、肉体の死を少しだけ先延ばしにすることが出来るんだ」 「ええっ?」 「あ、先延ばしって言ってもほんの僅かな時間だけど……でも誰しも簡単に死にたくないって気持ちはあるじゃん? オレも、キミもさ」 「あの、待って下さい。そもそもオレは――『クリミナル』はもう死んでるんじゃないんですか?」 「……?」  赤スニーカーはきょとんとした顔でオレを見ている。オレは能面女を見ながら続けた。 「だって、そこの『スパイダー』の人に言われました。『クリミナル』は既に死んでいる、と。此処で、滅びるのを待つだけだって」  確か――その身が朽ちるまで、罪を悔いろ、だったか。その罪の記憶だって一切ないのに、何て理不尽なと思ったけど。  ……今の赤スニーカーの台詞を聞くと、ちょっと事情が違うんじゃないか? 「……ふーん」  赤スニーカーは少し考えてから小さく呟く。そして親しみやすい笑顔をリセットすると、能面女へと身体を向けた。 「どーゆーこと?」 「……何が?」  不意な呼びかけにも、能面女は淡然と応える。 「何が、じゃないでしょ、『スパイダー』さん。職務放棄はよくないねえ」 「……『クリミナル』同士の争いを仲裁するなんて義務はないわ」 「知ってるよ。そーゆーこと言ってんじゃなくて」  係わりたくないと言いたげに顔を背ける能面女に、赤スニーカーはずんずんと積極的に距離を詰める。 「『クリミナル』はもう死んでいる。此処でただ消滅を待つんだと、そう教えたんだって?」 「だったら何?」  何故か、大男との一触即発なやり取りよりもピリピリとしたムードになっていることに気がつく。  この二人は顔見知りなんだろうか。てか、今更ながら赤スニーカーは何者なんだ? 「それとも、仕事に飽きたからって新しい遊びでもしてんの? 新入りに嘘教えちゃダメっしょ」 「嘘?」  俺が尋ねると、赤スニーカーは「そう」と頷いた。 「その人が言ってたのは半分本当。でも半分は嘘」 「どういうことですか?」 「『クリミナル』が此処でじっとしていれば、いずれ滅びるっていうのは本当。だけど、もう死んでいるっていうのは嘘。此処にいる『クリミナル』の肉体は、正確に言えば完全には死んでいないんだ」  何だって!? じゃあ、やっぱり――オレは生きているんだ! 「嬉しそうな顔してるところ悪いんだけど、そんなに喜べる話でもないんだな。これが」  感情が顔に表れてしまったらしい。オレを振り返った赤スニーカーは、綺麗に整った眉を下げ、肩を竦める。 「どうやら――生きているワケでも、死んでいるワケでもない、極めて中途半端な存在みたいなんだよ。その身体は間違いなくキミのモノなんだけど、本当のキミの身体は此処にないっていうか……」 「……??」  オレの身体に間違いないのに、此処にない? 彼は何を言ってるんだ?  本人も段々自分が何を言っているのか分からなくなってきたらしく、もどかしそうに前髪を掻いた。 「うーん、その辺の小難しい話は俺より『スパイダー』さんの方が詳しいと思うから、気になるんなら聞いてみるのもいいかもね。とにかく現段階ではまだ 、、 死んでないってことと、 新しい蜘蛛を得れば、肉体が滅んで魂が消滅するまでの時間を稼げる――ってことは覚えておいて。……話を元に戻すよ。さっきの男がキミを襲ったのは、単に新たな蜘蛛を手に入れて、仮初めの寿命を伸ばしたかったんじゃない」 「えっ、じゃあ、何で……?」  全く心当たりのないようなオレの反応を見て、赤スニーカーはチッと舌打ちをした。  そして、ほんの少しだけ動揺を浮かべる能面女の瞳を睨みつける。 「当然、『蜘蛛の糸』のことも、教えてないワケだね」 「…………」 「そういうの、フェアじゃないんじゃない? ラストチャンスは平等に――っていうルールじゃなかった?」  柔らかい言葉を選びながら、赤スニーカーは能面女への不快感を隠さない。 「何なんです、その、『蜘蛛の糸』って」  これは重要な話だと本能が訴えている気がして、オレも足早に二人のもとへ駆け寄った。 「……『クリミナル』たちに与えられた最後のチャンスのことだ。蜘蛛を奪い合い、もとから飼っていた蜘蛛を含め三匹集めることができた『クリミナル』は、現世へ戻ることが出来るって言われている」  現世へ戻る――つまり、もとの生活に復帰できるってことか?  すっかり望みなんてものが消えてしまっていたオレの心に、一筋の光が差し込んできた。  三匹。この蜘蛛をたった三匹集めれば、オレは生き返ることができる。その、『蜘蛛の糸』を掴むことさえできれば――……。 「はは、キミ、すぐ顔に出るねえ。楽勝だって、そんな風に思ってるのかな?」  赤スニーカーは傍にやってきたオレの顔を覗き込むなり、そう笑った。……我ながら単純で嫌だな。 「正直、そう思いました」 「けどねえ、やってみると結構しんどいよ?」 「だって三匹でしょう、他に二人見つければいいんですから、そんなに難しくないじゃないですか? それとも、『クリミナル』の数が極端に少ないとか?」  この地獄とやらが、広さに見合わない少人数制だったとしたら、苦戦するかもしれないけど。しかし。 「いや。此処には世界中の罪人という罪人がやってくるそうだから。多いなと感じることはあるかもしれないけど、その逆はないでしょ」  赤スニーカーの返答はオレの思惑とは異なった。じゃあ、どうして? 「実際、試してみると分かるかもしれないね。あまりオススメしないけど、一度、他の『クリミナル』の蜘蛛を奪ってみればいい。そしたらキミも俺の気持ちが分かるかもしれないよ」 「あのっ、あなたは――蜘蛛を集めてはいないんですか」 「俺?」  能面女は、この世界には『スパイダー』と『クリミナル』の二種類しか存在しないと言っていた。  赤スニーカーの発言を聞く限り、彼は『スパイダー』ではなく『クリミナル』だ。  蜘蛛を集めればもとの生活に帰ることができるんだから、当然彼もその努力をしているのかと思いきや。 「うん。俺は、蜘蛛集めはしない。必要ないから」  赤茶の髪をふるふると揺らしてキッパリと答えた。隠れていた右耳にピアスホールを確認する。  それも五つ。耳朶からその上の軟骨のあたりまで、等間隔にシルバーのシンプルなリングピアスが穴を埋めていた。 「必要ない、ですか?」 「興味ないんだ。……それより」  赤スニーカーはサラっと答えてから、能面女の真意を探るようにジロジロと眺めた。 「やっぱり嘘はよくないよね?」  と言い、頭一つ分小さい彼女の肩をぽんと叩く。 「あなたなんかに言われたくない」  強い口調。「触らないで」――とは言わなかったけれど、全身でそういうオーラを出しながら、能面女が身を捩った。  触れられるのが嫌なのか、それとも赤スニーカーの存在を疎ましく思っているのか……判断つかなかったが、  彼女の感情をダイレクトに感じたのは、これが初めてだ。 「どうせ無駄だと思ったの。『蜘蛛の糸』を掴んだ人間なんて他にいないもの。その子だってじきに周りの『クリミナル』の餌食になるか、リミットがやってきて消滅するに決まってる」 「それはほら、あーたが決めることじゃないでしょ。……彼にも他の『クリミナル』と同じ、権利がある」 「…………」  今、此処にやって来たばかりのオレが聞いても、赤スニーカーに分があるのは明白だった。  能面女のヤツ――オレが大男の餌食になりそうだったときも華麗にスルーしてくれたし。いけすかない女だ。  ここで赤スニーカーと出会ってなかったら、この世界独自のルールにも気付かないまま消滅していた可能性が高い。 「――とにかく。これで私の仕事は果たしたわ」 「…………」  果たさずに見殺しにしようとしたヤツがよく言う。と思ったけど、口には出さなかった。 「消滅までの時間を少しでも長く過ごせればいいわね。……私はこれで」 「あっ――ちょっと!!」  オレの呼びとめる声も聞かずに、能面女は空気に溶け込むみたいにスッと姿を消した。  ……え、消えた!? 「『スパイダー』の特殊能力だよ。此処――地獄と、『スパイダー』の生活区域を自由に行き来することが出来るんだと」 「え、『スパイダー』と『クリミナル』とじゃ、生活区域が違うんですか?」 「そーみたいだね。こっちは樹海さながらのおどろおどろしい環境だけど、向こうは快適だって他の『スパイダー』も言ってた。俺もいい加減、あなぐらじゃなくて温かいベッドで夜を明かしたいわ。ベッドが無理でもさ、マシなとこでいいから。背中が痛くてやってらんないよー」  文句を垂れながら、赤スニーカーはうーんと伸びをした。ついでに、左右に身体を回したりもして。 「……『あなたなんかに言われたくない』か。うん、ま、そうだな」 「え?」 「つーわけで、新入りくん。今日から楽しい楽しい地獄での生活がスタートです。……また縁があったらお会いしましょ?」  赤スニーカーは何かひとりごちた後、そう言ってくるりと方向転換する。  ……台詞と実情とが合っていないのだが。 「ぐっどらっくー」  オレがツッコむ前に片手を上げて言うと、彼は森の方向へ吸い込まれるように消えていった。 「…………」  再び一人になって思う。とんでもない世界に足を踏み入れてしまったのだと。  またぬるい風が吹いた。並んだ岩の周りで内緒話をするように、ヒガンバナがサワサワと揺れる。  首元に貼りつく蜘蛛の印にそっと触れてみる。皮膚の下から、どくんどくんと血液を運ぶ音が感じ取れる。  オレは今、生と死の狭間に立っている――、死んではいない。
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