6人が本棚に入れています
本棚に追加
第3話
突然知らない世界に放り込まれたとはいえ、泣きごとを言っている暇はなかった。
オレはすぐに池の傍を離れると、異国の大男や赤スニーカーがそうしたように奥の暗い森へと足を向ける。
『此処を張ってれば新しい「クリミナル」が現れる。隙を見計らって蜘蛛を奪っちゃえば楽だって思ったんだよね?』
という、赤スニーカーの台詞を思い出したからだ。
そこから分かるのは、おそらく『クリミナル』が此処へやってきたとき、必ず赤い池の周辺に現れるということ。
更にはそれが他の『クリミナル』に周知の事実だということ。
だとしたら、第二、第三の大男が再び現れるかもしれない。またあんな恐ろしい目に遭うのはごめんだ。
森の中は茂る木の葉に光を遮られて薄暗く、ジメジメと湿っぽい感じがした。雨上がりのときみたいに土の香りが強く鼻をつく。
道というほどの道はなく、柔らかな地面にはコケ類がびっしりと繁殖していて、その上には折れた小枝、小石などが散らばっている。
足を踏み出すたびにパキッ、パキッ、と小気味いい音が聞こえたり、底の薄いスニーカー越しにデコボコした感触がするのはそのせいだ。
そして忘れてはいけないヒガンバナ――赤い池で見たのと同じそれが、木々の根元など所々に並んでいた。
名前からして不吉なイメージの花に囲まれると、改めて気味が悪い。
……なるべく下は見ないようにしよう。オレはやや仰ぎ気味に歩を進めた。
群生している樹木は、主に背が高く幹幅の細い針葉樹だ。平原から離れれば離れるほど木々の距離感は縮まっていく。
池の付近でも感じたのだけど、生き物の気配がまるでない。
こうして歩いていても虫一匹、野生動物一匹出てこないし、誰とすれ違うワケでもない。
「警戒してるのか……?」
「『クリミナル』の数はそれなりにいる」と赤スニーカーが話していた。なのに、姿を確認出来ないのは……。
無意識に首元の蜘蛛に触れる。これを奪われるのを恐れて、皆、慎重に行動しているってことじゃないだろうか。
不用意に声を発したのを後悔した瞬間、進んでいた方向から枯れ枝を踏む音と、誰かの声が聞こえてくる。
「本当に?」
「ああ、本当だよ。僕が必ず力になる」
若い男女の声。第一声が女、次が男だ。
……まずい。彼らが『クリミナル』だとして、このタイミングで見つかったなら確実に餌食だ!
偶然、針葉樹に混じって幹の太い広葉樹を発見したオレは、歩いてくる声の主の死角になるよう、その影に身を隠した。
彼らが通り過ぎるまで此処でやり過ごそう。何、ほんの少し息を潜めていればいい。
「――だから、さ」
「やんっ……」
早く行け、通り過ぎろ――と念じていたのに。どういうつもりなのか、彼らの足音が止んだ。立ち止まったらしい。
「こ、此処じゃ……誰かやってくるかも、しれないしっ……」
「大丈夫。森の奥の方が気配を消しやすいから、他の『クリミナル』はそっちにいるだろうし――それに」
「……それに?」
「仮に誰か来ても、僕が守ってやるよ」
「もうっ……ぁ、んっ」
ちょっと様子が変だ。
女の甘ったるい声音に疑問を覚えて、オレは幹に半身を預けつつ、声がする方へ身体を捻って目を凝らした。
「!」
直線距離にして三メートルくらい。
針葉樹の細い樹木に凭れる女と、その女と向かい合い、幹についた片手に体重を預ける男を捉えて驚く。
男の方は金色の短髪で白い肌。横顔ゆえに瞳の色はハッキリしないけど――北欧系の外国人と思われる。
パープルの半袖開襟シャツにベージュのチノパンというラフなスタイル。
女は、かなり小柄で――男の体躯が大きいせいもあるかもしれないけど――きっと身長は百五十センチに満たないくらいだと思う。
俺と同じ黄色人種。ブルーのブラウスにグレーのタイトスカートとビジネスライクな彼女は日本人に見えるけど、目幅が細くキツい感じがするので、中国系のような気もする。
とても滑らかな日本語なので、姿を確認するまではどちらも日本人だと思ったから意外だった。
彼らにしても、例の大男にしても、どうしてそんなに日本語が達者なんだ?
しかし、オレがビックリしたのは言語じゃない。男が空いた方の手で、女のブラウスの胸元に手を探り込ませていたことだ。
「いいだろ……? 此処に来てからずっとお預けなんだ」
「あっ……ふうっ……」
「安心してくれ。済んだらまた護衛に戻るから」
男は熱心にそう言いながら、ブラウスから覗く鎖骨に口付けた。
ちょっ――こんなところで、何やってるんだよ!?
俺は反射的に顔を背け、幹にべったりと背中をつける。
何て大胆なことを。こんな、いつ誰がやってきてもおかしくない場所で!
「ほら、君だってその気がないわけじゃないみたいだし」
「やぁんっ――そんなことっ……」
「そうかな? そんなに艶っぽい瞳で僕を見つめる癖に?」
「んっ……」
「ココだって、僕にキスして欲しいんでしょ?」
「ふぁああっ……」
女の一際大きな声が上がると、大男と遭遇したときとは違った意味で「ヤバい」と思う。
これって……その、ソッチの意味で盛り上がってる感じだよな?
意識すると、首から上が熱くなってくるのが分かる。
全くもってツイていない。どうしてこんな場面にぶつかってしまったんだろう。
……だけど、今更出て行くワケにもいかない。ていうか、ヘタに動いて見つかったら終わりだ。
たった今、この男は女の護衛だと口にした。
彼らを襲うつもりなんて更々ないけど、オレがそうであるように、他の『クリミナル』には神経を尖らせているかもしれない。
マズい。非常にマズいな。せめて彼らが事を終えていなくなるまで、誰も通りかからなければいいんだけど……。
「へえ、君の蜘蛛は二の腕にあるんだね」
「あっ……そ、そう、なの」
オレが気を揉んでいる中、二人の行為は着実に進展しているようだ。
彼女が飼う蜘蛛の場所を見つけたらしい男が、笑いを含ませて言う。
その場所を確認したってことは、ブラウスは脱がしてしまったんだろうか?
なら今、彼女の姿は……。
「――これ、盗られないようにしないとね」
頭の中をピンクな想像で満たしていると、ちゅっと吸い上げる音が聞こえた。
多分、蜘蛛の印に口付けたのだろう。
「や、約束よ? こうして受け入れる代わりに……私の記憶が戻るように」
「わかってるって。君のために蜘蛛を三匹揃えてみせるから」
「あ、ありがと……でも、いいの?」
「何が?」
「あなただって蜘蛛が必要なのに。自分そっちのけで、私の協力をしてくれるなんて」
会話を聞くに、やはりこのカップルは二人とも『クリミナル』のようだ。
しかもオレと同じく記憶をなくし、蜘蛛を集めて現世に帰ろうとしている。
「いいんだよ。僕は蜘蛛集めなんて興味ない。現世に帰りたいって思いがないからね。君の役に立てるなら、それで」
興味ない――赤スニーカーみたいなことを言ってるヤツが此処にもいた。
奇特だなあと思ってしまうのは、オレが早くこの環境から抜けださなければと焦っているからだろうか。
でも誰だってそうだと思うのだ。この北欧系の男だって、居るだけで気が滅入るような殺伐とした空間から離れたいに決まっている。
『実際試してみると分かるかもしれないね。あまりオススメしないけど、一度、他の『クリミナル』の蜘蛛を奪ってみればいい。そしたらキミも、俺の気持ちが分かるかもしれないよ』
この男も赤スニーカーと同じ結論に達して、蜘蛛集めを諦めたクチなんだろうか。
どんな事情かは知らないけど、女の方は運が良かったなあと考えつつ、会話の合間に聞こえる吐息がどんどん湿度を増していることに気がつく。
「アジア系の子は恥じらってくれるから好きだよ。可愛い」
「だ、だって、こんなところでなんて――」
「その『こんなところ』でこれだけ濡れてるんだよ、君は」
「ひ、うっ……」
呼吸のようで小さな悲鳴でもあった女の声が、猫が鳴いてるみたいなニュアンスに変わっていた。
「僕の指をどんどん咥え込んでいく。いやらしいね」
声音の雰囲気だけではなく、実際に粘着質な水音が微かに聞こえた。
この音、確実に……、だよな?
聞いてはいけないと思うと、余計に聞きたくなるのが人間の悲しい性だ。
これ以上ないくらい聴覚を意識する。
「もう欲しくて堪らないのかな」
「ち……違うわ」
「素直におねだりしてごらん。こういうときは何ていうの?」
「ぁっ、そんなっ――あぁ……っ」
「わからないの?」
最初は周囲を窺って声のボリュームを押さえていたのに、興がのってきたらしく男の口調も愉しげだ。
「僕の目を見て。そしてこう言うんだ……『私の身体を、あなたのものにしてください』って」
「ぁ、っ――」
「そしたら君の思いのままだ。ほら、言ってごらん」
「…………あ、うっ」
羞恥のためか、空白が生じる。二人とは関係のないオレの心臓が一際大きく跳ねた。
同時に、何だか背中の辺りがゾクっとしてジーンズのジッパーフライの辺りに緊張を覚える。
オレが興奮してどうする。馬鹿か、自分の存在が脅かされるかもしれないときに!
「わ、私の、身体をっ……あなたのものに、してくださいっ……」
言わされながら、女も状況に酔っているみたいだった。上ずる彼女の声がオレの呼吸を加速させる。
別に立ち聞きしたくてしてるワケじゃないのに、自分が特殊な嗜好を持った人間のように思えてきた。
違う、オレは変態じゃない。他人のアレコレを聞いて昂ぶるようなことは――
邪念を振り切るように、心の中で「平常心、平常心」と繰り返し呟いてみる。
こういう無心になりたいときに円周率や年号が浮かんでこないあたり、オレはあまり賢くない人間だったのだろう。切なくなったその瞬間。
「きゃああああああ!?」
耳を劈く悲鳴がこだました。先ほどまで悦びにとろけていたとは思えない、悲痛な女の叫び声。
ただ事ではないと、オレは素早く、かつ慎重に彼らの方へ身体を向けて覗き込む。
上半身裸の女と、対照的に服装の乱れひとつない男。女の足元にはブルーのブラウスやブラジャーが落ちていた。
てっきり盛り上がり過ぎてハメを外したのかと思いきや、そんな雰囲気じゃなかった。女は喉を見せながら顔を苦痛に歪めている。
「――いいぜ、君の身体は全部僕のものだ。当然、この蜘蛛だってな!」
北欧系の男は、片手で彼女の身体を木の幹に押し付けながら、もう片方の手は二の腕に触れていた。
「せめてもの礼に気持ちよく逝けるように努力してやるよ――もっとも、今の君にその感覚があるかなんて分からないけど」
そう言うと、男は二の腕に触れながらそちらを幹に押し付け動きを封じつつ、空いた手を下肢に探り込ませる。
「ぐ、ぁあっ――ひ、ぐっ!!」
彼女の獣じみた呻きが、耐えがたい重苦を表わしているようだった。オレはそれを視界に収めながら、大男のことを思い出す。
『蜘蛛をよこせ』
まさか、これは――……。
「ぁ、ぁ……!」
薄ピンクだった女の唇が紫に変わったころ、そこからは空気の漏れる音しか聞こえなくなった。
そして、信じられないことに――女の身体の輪郭が薄れ、頭のてっぺんから足の先までがサラサラした砂粒になる。
それまで彼女だったものは重力のままに地面に崩れ、人間だった跡形を何一つ残さなかった。
――ものの数秒の間に起きた出来事だった。
「ははっ……ははははっ……やった、やったぞ、まずは一匹……!」
静まり返ったその場所に、男の高らかな笑い声が響く。オレは一人になった彼を呆然と見つめることしかできなかった。
「彼女の蜘蛛は左の二の腕だったはずだ――」
蜘蛛を手に入れたことが余程嬉しかったのだろう。その喜びを抑えきれないとばかりに言うと、半袖シャツの左袖を捲る。
そこにはオレの首にある蜘蛛の印と全く同じものが浮かび上がっていた。
漸く頭の中の整理がつく。
そうか、彼女の蜘蛛が男に移ったんだ。だから彼女の身体は『消滅』した。おそらく魂も一緒に……。
この男、さては最初から彼女を餌食にするつもりだったんだな。
男のオレでさえ、こんなワケの分からない世界に連れて来られて不安でいっぱいなのに、女性なら余計そうだろう。
そんな彼女に甘い言葉で近づき、味方のふりをして油断させたところで蜘蛛を奪う。
……汚い手段だなと思った。さっきの大男も狡いといえば狡いが、この男に比べればまだマシな気がした。
頭の中で女の断末魔が再生される。
この世の苦痛を全て背負ったような叫び声のあと、真っ白く石灰のような砂へと姿を変えた、彼女。
マンガやアニメの世界でなら、こんな現象も起こり得るのかもしれない。
だけどオレ自身のこの目で見るには、何分、信じがたい光景だった。
「っ!?」
――と、残った男が短く叫ぶ。
オレは自分の存在がバレたのだと早合点して、彼に危害を加えるつもりはないことをアピールしようとしたけれど、違った。
「……あ、あ!」
男はオレなんか目に入っていない様子で、立ったまま虚空を見上げもう一度声を上げた。
まるで、見上げた先に何か恐ろしいものでも見たような反応だった。
彼の視線の先を追ってみるけど、針葉樹の葉が重なり揺れているだけだ。
もう一度男に視線を戻すと、蜘蛛をめぐる争いの勝者とは思えないほど真っ青な顔をしていた。そればかりか、酷く混乱した様子で、両手で頭を抱えている。
どうしたっていうんだ、この男は?
思わず肩を叩いて話を聞きたくなってしまうほど、彼の反応は異常だった。
「――う、嘘だっ……!」
本当に声を掛けるべきか悩みかけたところで、男が息を荒くしながらかぶりを振る。
「そんなの嘘だ――僕が、僕がそんなっ……!!」
そう嘆いたかと思うと、彼は元来た方へと駆け出していった。余程動揺しているとみえて足がもつれ、何度も転びながら――……。
「…………」
女の消滅、男の混乱。立て続けにショックなものを見てしまったオレは、辺りに人がいないことを確かめてから、二人が寄り掛かっていた針葉樹の前に歩み出た。
散らばったはずのブラウスやブラジャーも綺麗サッパリ消えていて、土の地面に不自然に積もった砂さえなければ、彼女がいたという根拠は何一つ見つけられなかった。
オレはおずおずと木の根元にしゃがみこむと、彼女だったものを手のひらにひと掬いした。
砂場の砂のように、細かくサラサラした手触りのそれ。
……オレもこんな風に姿を変えてしまう日がくるのかもしれない。
改めて『消滅』の恐怖を感じながら、手の中の砂を戻して、その場を離れた。
最初のコメントを投稿しよう!