第4話

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第4話

 気がつくと、オレは森の深層を目指して歩いていた。  最初は他の『クリミナル』も皆そうしているし――という日本人特有の心理がそうさせたのだけど、本当は独りで居るのが怖かったんだと思う。  勿論、独りの方が安全だとは分かり切っている。  でも、あんな現場を見たあとでは、いつ自分も同じ目に遭うんだろうという戦慄が身体中を走るのだ。  蜘蛛を狙う輩には遭いたくないが、消滅への耐え難い恐怖と孤独に闘うのも嫌だという、相反する感情に揺れているところだった。  ……北欧系の男に拾われた彼女を運が良いなんて思ったりして、とんでもない。己の単純さを恥じた。  運が良いのは、彼女じゃなく寧ろオレの方だったのに。  いきなり大男から奇襲を受けたのは焦ったけど、直後に出会った相手が赤スニーカーだったのは本当にラッキーだったんだ。  彼はオレを欺かなかった。北欧系の男のように、獲物であるオレを助けると見せかけ蜘蛛を奪うのも可能だった筈。  赤スニーカーに何か考えがあるのか、ただ単に人の好いヤツだったのかは知らない。  でもオレはこうして何事もなく、苔生した地面を踏みしめ歩いている。  片や彼女は――……。  オレはきつく瞼を閉じる。女の痛ましい悲鳴が、まだ耳に残っている。  ――蜘蛛の印を通して強力な電流を流されたような衝撃は、オレも経験していた。  呼吸の仕方を忘れてしまうくらいの恐怖と激痛に、叫喚せずにはいられない。  そして、心を埋め尽くすそれらの感覚さえも何処か遠くに感じるようになって、本能的に予感する。『終わり』だと。  オレは赤スニーカーのお陰で『終わり』を迎えずに済んだけど、砂となり文字通り散った彼女はさぞかし無念だっただろう。  あれが『消滅』するということ。残酷な現実はブラックホールのようにオレを吸い込み、蹂躙し、絶望させた。  『実際試してみると分かるかもしれないね。あまりオススメしないけど、一度、他の『クリミナル』の蜘蛛を奪ってみればいい。そしたらキミも、俺の気持ちが分かるかもしれないよ』  赤スニーカーの発言を、今となっては理解できた。  自分の蜘蛛を含め三匹手に入れるのなら――最低でも二人の『クリミナル』をこの手に掛けなければいけない。  さっきはそれが何を意味するのか、ちゃんと把握していなかったけれど。  あの中国系の彼女のように、誰か二人を――呼吸をし、血潮の流れる人間からもの言わぬ砂粒へと変えてしまう。  こんなに恐ろしいことだとは想像していなかった。それまで何不自由なく動いていた人間が、突然砂になるのだ。  ある意味グロテスクなスプラッタ映画よりも性質が悪い。  これが臨場感溢れる長い夢だとしたらどんなにいいか――無駄と知りつつ、片側の頬をつねってみた。ピンポイントに痛覚を刺激されて顔を顰める。  やはり目覚めの時間はやってこない。大体、夢の中で「これが夢だ」と断定できることはまずないのだ。  いい加減、この嘘のような現実と正面から向き合う覚悟を決めなければ。  両方の眼をしっかりと開き、頬を摘んだ指先を体側に戻す。  『や、約束よ? こうして受け入れる代わりに……私の記憶が戻るように』  『わかってるって。君のために蜘蛛を三匹揃えてみせるから』  無残な姿へ変貌した彼女がどうしても頭にチラつく中、ふと、男とのやり取りが思い出される。  勘付かれないようにしなければという焦りでそれどころじゃなかったけど、よくよく考えれば引っ掛かる会話だ。  「私の記憶が戻るように」、「蜘蛛を三匹揃えてみせるから」?  まるで、蜘蛛が手に入れば記憶を取り戻せるみたいに受け取れる。もしかしてそんな副次的効果もあったりするんだろうか。  そういや「どうしたら元の生活に戻れるか」は聞いたけど、「どうしたら記憶を取り戻せるか」は訊きそびれてしまったな。失敗した。  今度『スパイダー』に出会うことがあったら、今度は忘れずに尋ねてみよう。  ……ところで、『スパイダー』には一目見てそうだと分かる特徴とかあるものなんだろうか。  くそ。相変わらず分からないことだらけだ。自分のことも、この世界のことも。  苛立ちに任せ、小枝に交じって散らばる小石を蹴り飛ばそうとするも、空振り。  無造作に転がっているうちのどれか一つでいいからヒットすればよかったのに。余計に苛立ちが募った。  そのイライラした頭で考える――蜘蛛を手に入れたあとの男の反応だって、気になるんだよなぁ。  あのとき彼の視線の先には何が見えていたのだろう。酷くうろたえていたようだけど……。  まあ天罰だ、天罰。立場の弱い女を騙して奪い取るなんて、人質をとった強盗と一緒じゃないか。そういうやり方は好きになれない。  ……なんて、地獄にいるのに天罰もクソもないか。此処に辿り着いてしまった時点で、オレたちは皆一様に天罰を受けているのだから。  歩けども歩けども、目の前には針葉樹とヒガンバナが広がるばかりだった。馬鹿の一つ覚えみたいに同じ景色ばかり。  何処まで歩けばいいんだろう。何処に行けば、この恐怖から逃れられるんだろう。  足を止めても現状を打開できないだろうから、ひたすらに歩き続ける。  赤スニーカーが樹海みたいだって言ってたけどその通り。迷わずにさっきの平原まで戻れる自信がまるでない。  歩いて、歩いて、歩いて。  漸く、単調だった風景に少しずつ変化が訪れる。  森の入り口がそうだったように、樹木と樹木の距離感が開き始めた。  理由は明快。ちらほらと倒木が現れるようになったからだ。だから足場はかなり悪い。  入り口ではなるべく地面を見ずに歩こうと思っていたけど、そんな不注意をしたら倒れた枯れ木や枝に足をとられてしまう。  足元に気を配ってみると、時折、枯れ枝などを掻き分けるように数種類のキノコがひょっこりと顔を出していた。  スーパーや青果店で売っているタイプではなく、鮮やかすぎる赤やオレンジの――危険なヤツ。  ……きっと、これを食べても即、『終わる』んだろうな。ヤバそうなものには係わらないのが一番だ。  そこから先は急な斜面になっていて、オレはうっかり転げ落ちないように、幹の根を足がかりにして下っていく。  足場が再び平面に戻るころ、オレの瞳は退屈だった風景とは違うものを映し出していた。  右手側には、今降りてきた分だけの高さの岩棚。途中に、おおよそ高さ二メートル弱、幅五メートルくらいのぽっかりと空いた穴を確認する。  左手側には、林の間を点々と建物が現れ始めた。  それは東屋だったり、四方が囲まれた家屋だったりするけど、共通して言えるのはどれも廃屋らしいということ。  ……廃屋とはいえ、この世界で初めて目にする建物。此処なら誰か居るかもしれない。  好奇心から、オレは左に進路を変え、一番手前に見えた東屋に近寄ってみる。  東屋は田舎にある列車の待合所くらいの広さ。屋根の木材が朽ちてベロベロに剥がれていた。  コの字型に腰掛けて休めるベンチがあったけど、それを形成している板も腐っているみたいだったので座る気にはならない。  茂る雑草や倒木を飛び越えながら、今度は東屋から目と鼻の先にある、トタン屋根の平屋を見てみることにする。  トタンは赤錆びで変色して、すぐに塗り替えが必要な雰囲気。  周囲を覆う木の壁も傷みが進んでいるのか頼りない感じで、強めの風が吹いたら飛んでしまいそうなくらいだ。  向かって正面にある扉は外れ、扉は、ボウボウと伸び放題の緑の絨毯の上に横たわっている。  相当年季が入っているという点では東屋といい勝負だ。  全体を、何処からか伸びてきた蔦が覆っているのも廃屋ならではの不気味さ。  戸がなく風通しが良いお陰で、それとなく建物の中の様子を窺うことが出来る。 「……てよ!」  実際に中に入ってみようと思ったところで、岩棚の方から喚き声が聞こえた。  女の……というにはもっと若そうな――少女の声だ。 「返してよ! わたしのねこちゅーちゃん返してよっ!!」  やはり聞き間違いではなかった。アニメ声っていうんだろうか、鈴を転がすような華のある可愛らしい声だ。  すぐさま岩棚の方へ向き直ると、足場の悪い地面を気にしながらそちらへ急いだ。  岩棚の先にあった穴は悪魔の口みたいに横に大きく広がっていて、まるでオレを笑っているように見えた。  穴というには大きすぎる――これが洞窟ってヤツなんだろう。テレビゲームの世界に、実際にお目にかかれるとは。  オレは洞窟の手前にある茂みで立ち止まった。洞窟の中は階段状になっていて、進めば進むほど外の光は届きにくく、闇色に染まる。明かりがなければ危なくて入れそうにない。  さて、どうしたものか――使えそうなものがないか周囲を見回したところで、その穴から二つの影が飛び出てくる。 「何だオマエ、こんなぬいぐるみが大事なのか?」 「『こんな』とは何よ!? ねこちゅーちゃんはわたしの大切なお友達なんだから!」  最初に出てきたのは、褐色の肌の男。黒いタンクトップと迷彩柄のズボンを履いた男は、裸足で軽々と段差を跳ねながら両手を高く掲げている。  身長は百八十センチを軽く超えている。専門的に鍛えたような身体つきだから、天に伸ばした両手がやけに遠く感じる。  その男を追って駆けてきたのは――フランス人形。もとい、フランス人形のような女の子。  そんな風に感じたのは、彼女の服装にある。  ボリュームのあるリボンカチューシャに、これまた胸に大きなリボンのついた三段ティアードのワンピースドレス、底の高いエナメルの靴。  これらは全て同じピンク系統のプリント柄で纏められていた。  細い脚を覆っているのは白いニーソックス、極めつけは、斜めに掛けたハート形の分厚いポシェット。  ええと、こういうのって、ロリータファッションって言うんだっけ? 物珍しさでついジロジロ見てしまう。  歳は十代後半くらい。透き通るような白い肌は、池のほとりで会った能面女と違い、活き活きとして艶やかだった。  ウェーブの掛かった髪を左右二つに束ねていて、色は天然っぽい感じの明るいブラウン。でも、バリバリの外国人って顔立ちじゃないな。  どっちかっていうと、オレと同じアジア系――日本人っぽい空気を感じるっていうか。  顔の凹凸はあまりなく、鼻や口も小ぶり。体格も大分小柄で、背丈は例の中国系の女と同じくらいだ。 「このヘンテコな人形が友達ねェ。変わったお嬢ちゃんだ」  茂みに遮られ、オレの姿は見えていないようだ。褐色の肌の男は掲げた両手の先にあるものを弄ぶ。  耳に掛かるくらいの黒髪に、黒い瞳。コイツはアラブかアフリカ系だろう。  この地獄とやらもグローバル化が著しいらしい。しかも皆、一様に日本語ペラペラときたものだ。  一人や二人なら他ヶ国語を話せる凄いヤツで納得できるけど、こうも続くと何か秘密があるのではと勘ぐってしまう。  オレは褐色の肌の男が抱えている物体に目をやった。  いかつい男には不似合いなぬいぐるみ。ふわふわした起毛素材と見え、白い猫がピンク色のネズミの胴体を半分呑みこんでいる。  食物連鎖のヒエラルキーを嫌が応にも意識させられるモチーフは、キャラクターデザインがユルカワ系なのがまた残酷だ。 「ヘンテコじゃないっ、ねこちゅーちゃんに謝ってよ! ……ううん、やっぱり返すのが先! 返してから謝ってー!」  彼女が言うには、余程大事なぬいぐるみらしい――いや友達だったか。きゃあきゃあと騒ぎ立てながら、男のタンクトップの裾を引っ張る。 「ウルセェな、こんなガラクタでガタガタ抜かすな」 「ガラクタじゃなーい! このねこちゅーちゃんはね、おにいちゃんがわたしのためにってくれたものなのよ!?」 「こんなの、此処じゃ何の慰めにもならねえだろ? オレがもっとイイコト教えてやるよ――」  男はニヤリと悪い笑いを浮かべると、ねこちゅーを片手に持ち替え、そのリーチの長い手を彼女から遠ざける。 「きゃっ……!!」  そして――爪の先が鮮やかなピンクに見えるほど色素の濃い指を、彼女の陶器のような顎先に掛ける。  背丈の低い彼女に合わせて腰を屈め、男が意のままに唇を奪おうとした瞬間。 「イヤーーーっ!!」 「ぐっ!」  ねこちゅーを助けるべく宙を掻いていた両手が、男の頬にクリーンヒットする。 「エッチ、ヘンタイ、チカンっ!! 何考えてるのよ! わたしにキスするなんて一億万年早いんだから!」 「ってーなこのガキ! 調子に乗るんじゃねえぞ!」  張り手を食らわされて怒った男が、丸めたちり紙でも捨てるようにねこちゅーを放り投げると、ねこちゅーは緩やかな放物線を描きながら茂みを越え、オレ手の中に落ちてくる。反射的にそれをキャッチした。  肌身離さず持っていたのを証明するように、ねこちゅーは全体的にうっすらと汚れている。 「大人しくしてりゃ可愛がってやったのに。こっちはオマエの蜘蛛さえ手に入ればそれでいいんだ、さっさと蜘蛛をよこしな!」  男の口調が荒々しくなる。オレは顔を上げた。 「気安く触んないで! わたしに触れていい人はね、もう決まってるの!」 「グダグダ抜かすな!」  男は嫌がる少女の腕を無理矢理掴むと、その場で彼女を押し倒した。 「イヤっ!! サイテー! お洋服が汚れるっ!!」  強い力で身体を押されて、ステンと空を仰いだ少女の第一声は暢気なものだった。  「この期に及んで服の心配かよ」と内心でツッコミつつ、オレは心底迷っていた。  二人はどちらも『クリミナル』。男は少女の蜘蛛を狙って近づいたのだろう。  ヤバそうなものには係わらないのが一番。そう心に決めていたけれど――  脳裏に蘇るのは、中国系の女が迎えた最期。  さっきと同じパターンだ。自分より弱者を狙って、強引に蜘蛛を奪う。  少女もあの女のように砂になってしまうのか――と考えるだけで、いたたまれなくなる。  あのときはあまりに突然過ぎて、助けるなんて選択肢は浮かんでこなかった。だから、彼女に対する罪悪感みたいなものも働いたのかもしれない。  ……とにかく、目の前で誰かが砂になるのは、もう見たくない。  正義漢ぶるつもりはないけれど、立場の弱い者が力でねじ伏せられるのがどうにも我慢ならなかった。腹の底から熱いものが込み上げてくる。 「やめろ!」  オレは衝動的に茂みから抜け出すと、少女の上に覆い被さる男を渾身の力を込めて突き飛ばした。  がっしりした男の身体は鋼のように強靭。しかし、そこは火事場の馬鹿力。 「――わああ!?」  少女の抵抗の手には備えていたようだけど、まさか横やりが入るとは思っていなかったらしい。  男の身体は洞窟の中へと吹っ飛び、段差をごろごろと転がり落ちる。重い身体が仇となった。  思ったよりも穴は深いようで、男の悲鳴に掛かったエコーはかなり強め。 「今のうちに逃げよう」  中は黒いペンキを塗ったような暗闇だろうし、これなら直ぐには追ってこれまい。  オレは仰向けのままだった少女の手を取り、身体を起こしてやると、先ほど通りかかったトタン屋根の廃屋に逃げ込んだ。  ……本当はもっと遠くに逃げたいところだったんだけど。まだこの辺りが安全なのかどうかさえも知らないオレは、  ひとまず確実に誰もいないであろう場所を選ぶことしかできなかった。  息を弾ませながら中に駆け込む。内部にはやはり人の気配は感じられず、また、誰の姿もなかった。 「――あ、ごめんっ」  オレは繋いだままだった少女の手を放した。  「わたしに触れていい人は決まっている」のなら、意に沿わないことだろうから。 「ううん」  少女は首を横に振った。そして、長くくっきりとした睫毛を瞬かせ、じっとオレを見つめる。  遠目では気がつかなかったけど、少女の瞳は薄茶に緑が掛かった不思議な色合いだった。  その緑の瞳が笑みで細められる。 「助けてくれてありがとう」 「いや……」  あんまり素直に礼を言ってくれるものだから、ちょっと心配になってしまう。 「簡単に人を信用しちゃだめだ。もしオレが助けるふりをして、君を襲おうと企んでたらどうする?」  今しがた危ない目に遭ったばかりなのに不用心過ぎる。彼女は此処がどういう場所か分かっていないんじゃないだろうか?  ところが少女は笑みを崩さないまま、もう一度首を横に振った。 「ううん、大丈夫。それはないと思うから」 「どうしてそう思うんだ?」  確かに、そんな邪な気持ちは一ミリもないのだけど。尋ねてみると、少女はオレの首元を指し示しながら言った。 「おにいさんが本当に蜘蛛を奪いに来たのなら、そんな風に自分の蜘蛛を無防備に晒したりはしないでしょ? 奪う側の人間は、自分が奪われる側になるのを一番恐れるんだもの」  オレは思い出したように首元の蜘蛛を覆った。  ……そうだ。オレの蜘蛛は他人の目につきやすい場所にある。気をつけなければ。 「だからおにいさんは、計算なしにわたしを助けてくれたんだと思ったんだけど……違うの?」  かくんと首を傾げて少女が尋ねる。それに合わせて、カチューシャについた大ぶりのリボンが微かに揺れた。 「……ああ、そのつもりだよ。安心して、見返りが欲しいなんて言うつもりはない」  不用心なのはオレだった。きまり悪くて目を逸らして言うと、少女はくすっと声を立てて笑う。 「よかった、本当にありがとう。……ねこちゅーちゃんも、拾ってくれたみたいだし」  彼女はぺこりと頭を下げてから、オレがずっと片手で握りしめたままだったぬいぐるみを覗き込んだ。 「そう、これ。さっき偶然拾ったんだ」  オレは両手でねこちゅーを持ち直してから、少女に差し出す。  彼女はより一層破顔してぬいぐるみを受け取ると、いとおしげに抱き上げ、血の色を透かしたピンクの頬に頬ずりをした。愛犬や愛猫にするような所作だ。 「もう戻って来ないかもって思ったから、凄く嬉しい」 「そんなに大事なものなの?」 「うん。何があっても、ねこちゅーちゃんだけは手放したくなかったの」  そういやこれはただのぬいぐるみじゃなく、『お友達』だったんだっけか。  ネズミを捕食しようとしている猫のぬいぐるみ。おおよそオレには理解できないセンスだけど、  まぁ役に立てたのはよかった――オレは苦笑しながら、改めて平屋の中を見回してみる。  六畳ほどのスペースに、壊れかけの木製のテーブルと、セットの椅子が四脚。  そのうちの三脚は脚が欠けていたり、座面が割れていたりして使えそうにない。目ぼしいものはそれだけだ。  内壁の木材は腐っていないし、床板がきしむことや、外の枯れ枝や小石などが入り込んでいることを除けば外見ほど酷くはなかった。 「どうでもいいんだけどさ、ねこちゅーって、君がつけたの? 名前」  オレは椅子として機能している唯一のそれを少女に勧めながら、何とはなしに尋ねた。  少女はねこちゅーを片腕に抱き込みつつ、「座らない」との意思表示。反対の手でしきりにスカートの裾を払っているし、汚したくないんだろう。  襲われかけてるときも、助けを乞うより先に服のことを気にしていたもんな。 「ううん。ねこちゅーはねこちゅーなの。この子、マスコットキャラクターなんだよ」 「マスコットキャラクター?」 「そう。わたしが着てる――『Princess Rosary』っていうブランドのお洋服の、マスコットキャラクター」 「『プリンセスロザリー』……」  発音しつつ聞き覚えのないブランドだった。オレとは全く縁がないのは間違いなさそうだ。 「あーっ、そんなの知らないって顔したー」 「ごめん。ファッション方面には疎かったみたいで」  自分の好きなものを否定されたと思ったようで、少女が頬を膨らませる。  例え服に拘り抜くオシャレ人間だったとしても、きっとロリータブランドまでは網羅してないだろう。  ……今身に着けているものを見る限り、その可能性は限りなく低いけどな。平々凡々もいいとこだ。 「ロリィタでは一番人気があるのに。可愛いでしょー、このプリント」  少女はすぐに気を取りなおすと、「ほら」と得意気にドレスの裾を摘んで見せる。  プリントに目を凝らすと、キラキラ輝く宝石と十字架、そして小さな林檎の柄が確認できた。カチューシャのリボンも同じ柄だ。 「このセットアップには『Forbidden fruit is sweetest』っていう名前がついてるんだよ」  ――禁断の果実は最も甘い。神話の中でアダムとイブが食べたとされる林檎にまつわることわざだ。  名前の所以は柄に含まれている林檎だろうか。 「発売直後から大人気でね、古着屋さんでは定価より高値がつくくらい。ネットオークションの取引額も他のセットアップに比べて随分高かったなぁー。他にも『Princess Rosary』で人気なのはたくさんあってね、例えば――」  少女はお喋りが好きらしく、頼んでもいないのにその『Princess Rosary』とやらについて次々と話し始める。  ストップを掛けるタイミングを失ったオレは、暫らく彼女の言葉に耳を傾けた。  『Princess Rosary』はロリータブランドの中でも不動の人気を誇っていて、ブランドのモチーフはその名の通り十字架。  少女がドレスに合わせているアクセサリーもゴシックなロザリオペンダントで、この手の商品が多く出ているらしい。  マスコットキャラクターは件の『ねこちゅ~』――これが正しい表記なんだそうだ――と、その飼い主の女の子という設定の『リリー』と『リタ』。  二人はロリータファッションが大好きな双子の姉妹で、リリーが猫を、リタがねずみをそれぞれ飼っている。  ねこちゅーは、二匹がうっかりケンカをした瞬間を抜き出したキャラクターらしい。  ……ちょっと発想がぶっ飛び過ぎてやしないか。  しかし、喋る喋る。少女は、溜まっていた鬱憤を晴らすときのようにペラペラと喋り続ける。 「――よっぽど好きなんだな、そのブランド」  オレが得たところで二度と使う機会がなさそうな知識が蓄積されていく。少女が呼吸をする暇に、すかさず差し込んだ。  じゃないと、いよいよ話の切りどころをなくしてしまいそうだったから。 「……うん、そうだったみたい」  すると、彼女は今までの勢いをなくして、しゅんと肩を落とした。  記憶がないのだ。オレと、同じで。 「このブランドのことはよく知ってるの。商品の名前とか、どれが人気だったとか――全部分かるんだけど、わたし自身の好みに関しては覚えてないんだ。詳しく知ってるってことは好きだったんだろうなって想像してみるだけで。……変だよね、こんなの」 「いや、何となく言いたいことは伝わるよ。オレもそういう感覚あるし」  社会的な事象や生活に関する記憶は問題なくあるし、こなせる自信はある。  だけど、自分自身の、極めて個人的な内容に及ぶとお手上げとなってしまうのだ。  少女の中でロリータ服に関する記憶は生活の一部だったのだ。だからブランドの情報は持っていても、パーソナルな記憶は含まれない。 「やっぱりおにいさんも記憶がないんだね」 「ああ。ついさっき赤い池のところで目が覚めたばかりでさ。面食らってるとこ」 「そうだよね。わたしも、此処に来たときはどうしていいかわからなくて――」  少女の綺麗な瞳が不安気に揺れた。けれど、すぐに、 「でもね、森をさまよってるうちに、わたしのことを助けてくれるって人がいて。その人についていくことにしたの」  そう言って屈託のない顔で笑う。 「助ける?」 「そう。夜から朝の暗い時間帯は必ずその人と一緒にいるようにしてるの。独りでいるより安心だしね」 「安心って――」  脳裏に浮かんだのはやはり中国系の女のこと。  力の差などから、女――特に小柄な女性をターゲティングする『クリミナル』は多そうだ。  よもやこの子も騙されているのではないかと疑ってしまう。  彼女が今、ソイツに飼い慣らされている最中だとしたら。  機会を見計らって、少女の身体の何処かに刻まれた蜘蛛を奪い取ろうとしているのだとしたら―― 「さっきも言ったけど、『クリミナル』には警戒した方が良い」  オレは努めて厳しい口調で言った。 「隙をつかれて取り返しのつかないことになるかもしれない」 「大丈夫。彼に限ってそんなことないから」  少女は真面目くさっているだろうオレの顔を見て、クスクスと笑い飛ばした。 「彼だって?」  思った通り。男だ。 「男だけど、そういうことするタイプじゃないって分かってるし」 「それが相手の狙いだったらどうするんだ? 君みたいな小さな子を狙えば楽だっていうのは分かるだろう」  その一言が少女の感情を逆立ててしまったらしい。ムッとした表情で口を尖らせる。 「だから、その人は大丈夫だって言ってるじゃない。それに、子供扱いしないで。その言い方、何かムカツク」  ――ムカつくとは何だ、ムカつくとは。間違いがないようにと思って言ってるのに。  大体、何の根拠があってソイツを信用するっていうのか。 「大丈夫かどうかなんて、まだ判断つかないだろう。さっきの男だって、最初は優しく近づいてきたんじゃないのか?」 「そうだけど、別に相手にしなかったよ。変な誘いには乗らないようにしてるから」 「だから――」  この子は、自分の発言の矛盾に気づいてないのか?  その、今行動してる男だって――本質的にはさっきの男と変わらないかもしれないのに。 「アンはそんな卑怯な人じゃないっ!! わたしの恩人なのよ、悪く言うなんて許さないんだから!」  オレが少しイライラした口調で被せようとするのを、少女が怒鳴って打ち消す。  仔リスのような可愛らしい顔に、ぷりぷりとした怒りが満ちる。  迫力があるわけじゃないのに、その強い調子に圧倒されて、彼女と向かい合ったままよろよろと口を開けっぱなしの戸口の方へたじろいだ。  体重の移動でギシっと床板が軋む。そのとき、背後からもう一つ同じ音が聞こえた。  ――オレのすぐ後ろに誰かがいるのだ。  耳元でソイツの呼吸を感じたのと同時、筋張った手のひらが首元に触れるのを感じた。
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