新月のひと 壱

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新月のひと 壱

町外れに、古びた日本家屋がある。 よく手入れされた庭園があり、ところどころ朽ちかけた石壁の隙間から、のぞき見ることができた。 人の出入りはほとんど見かけないのにも関わらず、いつでもその庭は整っていて、玄関先の大きな桜の樹のしたに、花びらが散っているのすら、見かけることはなかった。 表札もなく、ポストに郵便物がたまることもないため、近所では空き屋ではないかと噂されたこともあるらしい。 しかし、さびれも荒れもしないどころかその屋敷は、ふかく夜が更けると、ぼんやりと灯りが灯るのだった。 私は、月の見えない晩に、ある噂を真に受けて、その屋敷のある町外れを訪れた。 小雨が降り始めた。 噂を信じて買い求めた、骨が多い和傘を開いた。明るい海老茶色の布がいくらか恥ずかしい。 細い路地を抜けると、大きな屋敷が見える。 小さな灯りが門を照らしていて、私はほっと胸をなで下ろした。 とりあえず迎えてもらえそうだ。あの灯りが消えているときは、入れてもらえないのだと聞いたことがあった。 門の前までたどりついて、建物の大きさにひと呼吸した。 あたりに車通りはなく、静まりかえった夜更けの日本家屋。誰か住んでいる気配は感じられないのに、何故か無人の不気味さはなかった。 呼び鈴もなにもない。戸惑いながら傘を閉じたとき、からからと格子戸が開く音が聞こえた。 「おしめりは止みましたか」 ゆったりとした京なまりで、濃紺の着物に、腰の低いところで海老茶色の帯を締めた青年。濡れ羽色と表現するのにふさわしい黒髪は長く、ひとつに結って、背中に流れている。 あまりの美しさに私が呆然としていると、青年は、私の傘を見て、艶やかに微笑した。 「お待ちしておりました」 「あ…あの、私は」 青年は格子戸を片手で押さえ、館の中にいざなうように私に手を伸ばした。手と足が一緒に出そうになりながら私は進み、彼の手をおずおずと掴んだ。 その瞬間、玄関先の桜が風でざわめき、花びらが私のうえに降り注いだ。 薄暗い回廊は、外から屋敷を見た時には予想もつかないほどの長さだった。 途中、灯りがついた部屋もあったが、私が通されたのは、回廊のずっとずっと奥だった。 障子がするすると開くと、ほんのりと明るい座敷に通された。 新しい畳の良い香りと、卓袱台に並んだ豪華な食事。 青年は私を卓袱台の前に案内すると、青年は三つ指をついて、ふかく頭を下げた。 「今宵はこころゆくまでおくつろぎくださいませ」 私は、青年が顔を上げるのを待って、尋ねてみた。 「噂は本当だったのですね。ここは本当に…その……」 言葉に詰まってしまった私に、軽く首を傾け、青年は答えてくれた。 「お客様のご要望にお応えする宿でございます。食事のあとには、そちらに湯を用意してございます」 「湯……」 私の顔が赤くなったのを見ても青年は表情を変えず、静かに立ち上がった。 そして繋がった隣の座敷の襖を、音もなく開けた。 私は口を開けたまま、息を飲んで固まってしまった。 庭園を望める大きな窓、白い湯気をあげる備え付けの桧風呂と、その手前に敷かれた布団。お約束といわんばかりに、並べられた二つの枕。 「わ…私は、そのっ……半信半疑で来てしまって……」 「春日井さまとお呼びしてよろしいですか?それとも、静さんと?」 「えっ…?」 「ここは、秘めた想いを抱えた方がいらっしゃる宿です。もちろん、お迎えする私共も同じでございます。もしよろしければ、静さんと呼ばせていただけませんか?」 青年は襖を締めて、私の横に膝を折って座った。わずかに白檀の香りが漂ってきた。 青年は熱燗の徳利を持ち上げ、ふたたび艶やかに微笑した。 「夕とお呼びください。静さん」 私はもう、この夕(ゆう)という青年から目を離せなくなっていた。
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