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MARIA
戦場。
そのスラングが使われるようになったのは、いつからだろうか。
ハギノはコンクリートの壁に寄り掛かり、雲ひとつ無い空を仰ぎ見て、アサルトライフルを握り締めた。
『平和』という言葉が消え去ってから、ずいぶんと久しい。
戦地へ赴く者へ送られる「幸運を」の言葉は、いつしか戦場そのものを示す言葉となった。
ある者は『生きて帰ってほしい』という想いを込めて、しかし大半の者は、希望など無いそこを皮肉混じりにそう呼んでいる。
「いい天気だな」
視線を戻すと、そこには打ち捨てられた戦車や戦闘機、崩れたコンクリートの廃墟が点在するばかりで、見渡す限り戦争の残骸と干からびた大地が広がっている。
ハギノは、緑の大地と言うものを見た事がない。曽祖父の代まではまだこの辺りにも木々が茂っていたらしいが、そんな話は眉唾に感じられてしまうほど世界は荒廃していた。
空は、こんなにも青いというのに。
『こちらアルファ。無線良好か? どーぞー』
ワイヤレスイヤホンから、無線が流れる。戦闘配置についている仲間からのものだった。
「こちらデルタ。無線も天気もバカみてぇに良好だ」
ハギノがうんざりした調子で応えると、他の仲間たちが次々と後に続いた。
『こちらチャーリー。マジで嫌味なくれぇスッキリ晴れてやがる』
『こちらインディア。こういう日はな、ネイティブの言葉で〝死ぬにはいい日だ〟って言うんだぜ』
『タンゴ。なるほどな。確かに、死ぬにはいい日だ』
したり声のインディアに、タンゴが含み笑いで返す。それぞれの配置でクックッと肩を揺らす仲間たちの姿が容易に想像できた。
『作戦開始まであと十分だ。うまくやれよ、兄弟。グッドラック』
無線でのじゃれ合いは、短いものだった。
アルファの呼び掛けに、仲間たちが短く『グッドラック』を返していく。
「グッドラック」
皆が応答したのを見計らい、最後にハギノが応えて通信が途切れた。
「死ぬにはいい日、か」
ハギノは深く息を吐き、青い空を見上げてそのまま瞳を閉じた。
『グッドラック、ハギノ』
そう言って笑う端正な男の顔が、瞼の裏に鮮明に浮かぶ。
――お前はどういう意味を込めて言ってくれたんだろうな、リン。
野営地を発つ前に同僚から送られた、定型的な言葉。
それでも、その人が発する言葉だけは、暖かな色を、熱を持ってハギノの心に浸透していく。
「俺には……お前だけなんだ」
戦争に慣れ、殺すことに慣れていたハギノが見る世界は、殺伐としたモノクロだった。その中で、リンは命の重みを思い出させてくれた人だった。
リンは、敵味方を問わずに弔う変わり者として有名だった。それを揶揄して『マリア』という渾名で呼ばれていたが、ハギノはそんなリンに救われたのだ。
見開いた目を閉じてやり、時には家族の写真が収められたロケットを握らせてやり、一筋の涙を流す。
その涙が形容し難いほど美しく、ハギノは長らく『人間』というものを忘れていた事に気が付いた。
その瞬間、世界に色が戻ったような気がした。タールのような血の色が、鮮やかな紅に変わった気がしたのだ。
リンだけが、ハギノの世界に色をもたらしてくれる。リンだけが、死への恐怖を拭ってくれる。
その気持ちは、伝えていない。伝えるには、リンは清らかすぎるような気がした。そして何より、リンの首から下げられている指輪がハギノを思い留まらせていた。
「寂しい独り身だよ」と悲しげに笑ったリンに、詳しく訊いたことは無い。けれども、内側に『Rosa』と刻まれているその指輪が、リンにとってこの上なく大切なものだということは確かであり、それが誰なのかということも容易に想像出来た。
きっと、告ったところでどうにもならない。だから、ハギノはリンへの想いを『死なないために』利用していた。
戦うことの、死への恐怖を、生き抜く力へ変えるために。
「今日はお前の事ばかり浮かんでくるよ、リン」
ドッグタグと一緒に首から下げられている十字架は、出立前にリンが手渡してくれたものだ。ハギノはそれを愛おしげに握りしめ、自嘲した。
「無事に帰れたら……なんて、フラグだよな」
作戦開始まであと五分。
壁の向こう、500メートルほど先には敵小隊が野営を展開していて、そこを急襲することが最優先のミッションである。
自分たちの後方には、本隊が控えている。斥候任務であったが、それがほとんど捨て駒を意味していることをハギノたちは理解していた。
「幸運があるなら、生き延びさせてくれよ」
そして、リンの元へ帰してくれ。
ぽつりと呟いた言葉は、祈りに近い。
腕時計型のデバイスが、淡々とカウントダウンを続けている。
この数字がゼロになった後、自分は一体どうなっているのだろうと考えたその時、唐突にイヤホンからノイズが流れた。
『敵襲! 敵襲!』
『どうなってんだ、おい! どこから狙っ』
『狙撃だ! 逃げ……』
次々に入る無線は、それだけで異常事態を伝えている。
狙撃? 一体どこから?
敵は? 目標に気付かれでもしたか?
想定外のことに、頭が追いつかない。
思考を高速で回転させながら身体を伏せようとした刹那、肩を何かが掠めていった。そして間をあけず全身に走る、激痛。
「あっ……が、ぁああッ!?」
右腕が、肩から吹き飛ばされていた。
有り得ない。
一体どうして、いや、なぜ7時の方角から狙われるのか。
目標は前方。こちらの動きを悟られていた気配は無い。狙撃兵を潜ませていたのか。いや、違う。後方は偵察部隊により索敵が成されていた。
あり得るとすれば、索敵後に身を潜ませたということか。それも、おそらく後方2キロは離れているであろうあのゴーストタウンに。
では一体、誰が?
その答えは、無線から聞こえてきた。
『戦場の悪夢……』
アルファの、おそらく最期の声だった。
戦場の悪夢。聞いたことがある。
一人は肉弾戦を得意とするファイター、そしてもう一人はあらゆる銃器を使いこなすというガンナーの二人組。
「……がっ、は……クソったれ……ッ」
何故そんな輩に狙われるのか、そんな事はもう考えられなくなっていた。
吹き出るような出血がひどく、ひび割れた地面に血だまりが広がっていく。
全身を地獄のような痛みが襲い、喉が締まって俄に息が細くなる。
「痛てぇ……ああ、リン……おれ、死んじまう……」
もうすぐそこまで近付いている死の気配に、ハギノは無意識にその名前を呼んでいた。
もう会えないのか。
もう飲み交わすこともできないのか。
もう、触れることも叶わないのか。
せめて一思いに撃ち抜いてくれたならば、こんな苦痛を味わうことも無かったのに。
「ぐっ、ぁア……なにが、ナイトメアだ、ヘタクソが……」
視覚も聴覚も朧気になる中、必死に吐いた悪態は、青い空に吸い込まれるように消えていく。
「……リン……リン、会いてぇなぁ……」
徐々に光が失われ、ハギノの世界がモノクロに戻っていく。ああ、やっぱり俺の行き着く先は色の無い世界なのかと自嘲すると、どこからか乾いた土を踏み鳴らし近づいてくる足音が耳に届いた。
ザリ、とすぐ近くで止まった足音に、動かない首を僅かに傾ける。
「……リン……」
ハギノの目には、微笑を携え自分を見下ろすリンの姿が映っていた。
リンは微笑んだまま、その場に腰を下ろしハギノの頭を自身の膝に乗せ、黒い髪を優しく撫でる。
「……俺も、送ってくれるのか、リン……」
血溜まりでひとり仰向けになったハギノの左手が、虚空を撫ぜる。
ハギノが見ているリンの頬が、鮮やかな紅で染まった。
「リン……リン、おれ、……あー……痛てぇ……おれ……お前のこと、好きだったんだ……」
ヒューヒューと血のまじる息遣いが、だんだんと弱くなる。
ハギノは残りの力を全て注ぎ込むようにして、リンの頬に手を伸ばした。
「……痛てぇ……リン……好きだ……いてぇよ……すきだ……すきだ……す……」
慈悲深く微笑んでいるリンの口元が僅かに動いたのと同時、バスン、と音がして、ハギノの頭を銃弾が貫いた。
天に伸ばしていた腕が、ストンと落ちる。
ハギノの胸で、十字架がキラリと煌めいた。
土埃が舞い、倒れた兵士たちに吹き付ける。
その様子を見下ろして、空はその青の清廉さを見せつけるように晴れ渡っていた。
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